映画「憧れを超えた侍たち 世界一への記録」を観た。
言うまでもなく、今年(2023年)に行われた第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で優勝した野球日本代表(侍ジャパン)のドキュメンタリー映画である。
ネタバレを防ぐため、あまり詳しいことは書かないが、試合中でもグラウンド外であれだけカメラが回っているとは思わなかった。
もちろん、世界一が懸かった試合中なので、カメラが回っていても選手たちは演技をしているわけではない。
特に驚いたのが、ベンチ裏での佐々木朗希投手の行動。
普段の佐々木からは想像できない姿がそこにあった。
ちょっとだけネタバレすれば、佐々木朗希がベンチ裏で「下柳」になったのだ。
もし、侍ジャパンが優勝していなければ映画は公開されず、この映像はお蔵入りになっていただろう。
なお、映画が終わってエンドロールが流れ始めると席を立って帰る人がいるが、これは絶対にやめていただきたい。
特にこの映画では、エンドロールの後にとんでもないオチが待っているので、それを見逃すことになるからだ。
さて、映画は栗山英樹監督を中心にコーチ陣やスタッフとの、選手の選考シーンから始まる。
この選手選考を見ても、侍ジャパンは単なる寄せ集めのチームではないことが判るだろう。
かつて、行われていた日米野球での日本チームは、まさしく寄せ集めのチームだった。
名称も、日本代表などではなく「全日本」というプライドのカケラもないチーム名。
おそらく、日本の団体スポーツで初めて「日本代表」という名称を使ったのは1960年代のラグビーだろう。
当時の大西鐵之祐監督が「全日本では単なる寄せ集めチーム。君らは日本を代表する選手、つまりこのチームは『全日本』ではなく『日本代表』だ!」と言ったのが最初とされる。
現在では、一部を除いてほとんどのスポーツで「日本代表」と称されるようになった。
ちなみに、監督名を冠した「○○ジャパン」という呼称も、ラグビーの大西ジャパンが最初である。
だから、ラグビーでは日本代表のことを英語では「オール・ジャパン」ではなく、単に「ジャパン」と呼ぶ。
話を野球に戻すと、思い出すのが1986年に行われた日米野球だ。
それまでの日米野球と言えば、メジャー・リーグ(MLB)の単独チームが来日して、日本側の読売ジャイアンツ(巨人)などの単独チームや、巨人を中心とした連合チーム、そして「全日本」チームが対戦していた。
だが、全日本チームを以ってしても、MLBの単独チームにはなかなか歯が立たなかったのである。
しかも、MLBチームは真剣勝負のつもりはなく、物見遊山の観光気分で来日していたのだ。
しかし、1981年に来日したカンザスシティ・ロイヤルズは9勝7敗1分と大苦戦、1984年のボルチモア・オリオールズも8勝5敗1分と、かつてに比べるとかなり日米の差が縮まってきた。
もう全日本なら、MLB単独チーム相手だと勝って当たり前と言われるようになったのである。
そこで、1986年にはMLBオールスター・チームが来日、全日本と対戦した。
全日本の四番打者はこの年、2年連続3度目の三冠王に輝いた落合博満。
投手陣は江川卓、槙原寛己、渡辺久信、小松辰雄、津田恒美らの速球派がズラリと顔を揃えた。
この錚々たるメンバーなら、MLBオールスター相手でもかなり食い下がるのではないかと言われたものだ。
第1戦が行われたのは、今はなき後楽園球場。
全日本の先発は江川で、初回にいきなり二番打者のライン・サンドバーグにホームランを打たれた。
そのホームランも、ショート・ライナーかと思われた打球がそのままスタンド・イン。
まさしく、メジャーのパワーと、両翼90mという後楽園の狭さが生み出したホームランだった。
さらに、四番打者のデール・マーフィーにはバックスクリーン右への超特大アーチを打たれる。
一方、MLBの先発は、スプリット・フィンガード・ファストボールのブームを巻き起こした、この年の奪三振王のマイク・スコット。
全日本の四番打者・落合はスコットの速球を完璧に捉え、打球はセンター・オーバーやや左へ。
まさしくホームランの確信歩きを始めた落合だったが、打球は失速しスタンドには届かず、フェンスを直撃。
走ってなかった落合は二塁まで行くことはできず「センター・オーバーのシングル・ヒット」という恥ずかしい結果になってしまった。
MLBの二番打者は当たり損ねの打球がホームランになったのに対し、全日本の三冠王四番打者は会心の当たりでも狭い後楽園でオーバーフェンスできず。
さらに、第3戦の西武ライオンズ球場(現:ペルーナドーム)で落合はジャック・モリスからホームラン確信の一打を放ったものの、やはり打球は失速しセンター・フライに倒れてしまう。
以降、落合はメジャー相手に力勝負を挑んでしまい、バッティングが完全に狂ったため、二度と三冠王を獲ることができなくなった。
そして、この年の日米野球でも2割6分1厘、ホームラン0本に終わってしまったのである。
▼落合博満がジャック・モリスに対し完璧に捉えた打球はセンター・フライ
結局、このシリーズで全日本はMLBオールスターに対し1勝6敗と完膚なきまでに叩きのめされた。
その1勝も、ポテン・ヒットと内野安打が重なったラッキー勝利で、内容的には限りなく負けに近かったのだ。
全試合でMLBオールスターが19本のホームランを放ったのに対し、全日本は狭い球場でたったの2本とパワーの差を見せ付けられた。
日本の選手たちは「やはり米を食っている我々と、肉を食っている彼らとではパワーが違いますね」と完全に脱帽。
落合も「アメリカと日本の差は半永久的に縮まらない」と有言実行らしからぬ敗北宣言した。
翌1987年、あるメジャー・リーガーがヤクルト スワローズ(現:東京ヤクルト スワローズ)に入団する。
前年までアトランタ・ブレーブスの四番打者だったボブ・ホーナーだ。
蛇足ながら、ホーナーの通訳を務めていたのが、先日亡くなった「ルイジ」こと中島国章氏である。
当時の日本プロ野球では、外国人と言えばマイナー・リーガーか、メジャー・リーガーと言っても既に全盛期を過ぎたロートルばかりだった。
前年まで、落合と同じく2年連続三冠王を獲得していたランディ・バースも、アメリカでは3Aクラスの選手で、メジャーでの通算ホームランはたったの9本。
その程度の選手でも、日本では連続三冠王を獲れてしまうほど、日米のレベルの差は顕著だったのだ。
メジャーの球団からすると、日本に行く選手は欠陥商品。
日本のプロ野球を経験して、メジャーに戻り活躍した選手はほぼ皆無だった。
西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)の2年連続日本一に貢献し、主力打者として活躍したテリー・ホイットフィールドも、メジャーに戻ってからは惨憺たる成績で終わったのである。
1964年に日本人初のメジャー・リーガーとなったマッシーこと村上雅則以来、1人も日本人メジャー・リーガーが現れていない時代。
日本最高のクローザーだった江夏豊も、この3年前にメジャー挑戦したが、スプリング・トレーニング(春季キャンプ)の段階でメジャー失格の烙印を押された。
マッシー村上は野球留学生からたまたまメジャー・リーガーになれただけで、本格的な日本人メジャー・リーガーなど夢また夢と思われていた。
ホーナーほどの現役バリバリのメジャー・リーガーが日本のプロ野球でプレーすれば、どんな成績を残すのか?
スプリング・トレーニングも行わず、遅れて5月に来日したホーナーは、初戦でいきなりホームランを放ち、2戦目では3ホーマーの大暴れ。
日本中にはホーナー・フィーバーが吹き荒れた。
結局、ホーナーは規定打席に達しなかったものの93試合で31ホーマーを放つという大活躍を見せたのだ。
つまり、3試合に1本はホームランを打ったわけで、規定打席未満の30ホーマー以上はホーナーが初めてである。
ちなみに言うと、ホーナーはブレーブス時代、前年の日米野球で江川から超特大ホームランを放ったマーフィーと同僚で、格ではマーフィーの方が遥かに上だった。
翌1988年の活躍も期待されたが、ホーナーは「日本のベースボールは『野球』という名の別のスポーツだ」という言葉を残して、メジャーに戻ってしまう。
しかし「日本帰りの選手は欠陥商品」の前例に違わず、セントルイス・カージナルスに入団したホーナーはホームラン僅か3本に終わり、この年を最後に現役引退した。
日本野球を経験するとメジャーでは通用しなくなってしまう、そんな時代だったのだ。
あれから35年、日本プロ野球でプレーした外国人選手が、メジャーに戻り活躍することなど、もう珍しくない。
それどころか、日本人メジャー・リーガーの存在も当たり前になった。
投手として165km/hの快速球を投げ、打者としてメジャーの広い球場で年間46本もホームランを打つ日本人メジャー・リーガーが誕生するなど、誰が想像しただろう。
かつては物見遊山のメジャー・チームにすら歯が立たず、落合が「差は半永久的に縮まらない」と言ったアメリカ相手に、観光気分などどこにもない真剣勝負を行い3-2で堂々と勝って世界一の称号を得るなど、誰が想像しただろう。
1986年の日米野球では2対19だったホームランの数が、今年のアメリカとのWBC決勝戦では2対2。
そのうちの1本、村上宗隆が放った一発は、メジャー・リーガー顔負けの超特大ホームランだった。
落合ですらメジャー相手だと、完璧に捉えた打球が狭い日本の球場のフェンスを越えなかったのに、村上は広いメジャー球場のアッパー・デッキに放り込む。
アメリカとの決勝戦、侍ジャパンの選手たちは誰一人、アメリカ代表に勝てないとは思っていなかった。
▼映画ではエンドロールのあと、歓喜の輪の中で起きたとんでもない映像が流れる
なお、「憧れを超えた侍たち」は6月2日から3週間の限定公開なので、観たい方は早めに行くことをお勧めする。
パンフレットはないが、チケットを購入するとステッカーを貰えた。