川崎球場(行った回数:0回)
「カップルが試合そっちのけで熱い抱擁をしていた」
「試合中に客が流しそうめんをしていた」
「スタンドで子供たちがキャッチボールをしていた」
「スタンドで大人たちが麻雀をしていた」
「客の人数を数えられた」
「男女共用のトイレは、ドラマで戦時中の少年院のトイレとして撮影された(首都圏には他に汚いトイレがなかったから)」
数々の伝説を残す川崎球場。
首都圏にありながら、これほど洗練されていない球場も珍しい。
その名の通り、神奈川県の政令指定都市・川崎市にあり、横浜市や東京からもすぐに行くことができるという立地条件にありながら、上記のようにいつもスタンドは閑古鳥が鳴いていた。
もっとも手許の資料によると、最寄駅のJRの川崎駅や京急川崎駅から徒歩約15分もかかり、交通の便は必ずしも良くはなかったようだが。
それに、すぐ近くに堀之内のソープランド街があったことも、川崎球場の特殊性を際立たせる原因ともなった。
「客のほとんどは酔っ払いのオッサン、女性客はソープ嬢だけ」と、トンでもない噂が立ったものだ。
川崎球場が完成したのは1952年。
最初に川崎球場を本拠地にしたのは高橋ユニオンズだそうだが、もちろんその時代のことは知らない。
その後、セ・リーグの大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)の本拠地となった。
川崎球場での大洋戦はTVK(テレビ神奈川)が中継していて、対阪神タイガース戦の時にはTVKと連携してサンテレビで放送されていた。
僕が初めて川崎球場を見たのはこのサンテレビだったが、球場の印象よりもオレンジ色の大洋のユニフォームがケバかったのを憶えている。
あれこそまさしく川崎球場にピッタリのユニフォームだったと言えよう。
それが1978年に、お隣りの横浜市に横浜スタジアムが完成したので、そちらに移転することになった。
この時、チーム名も「横浜大洋ホエールズ」と改称した。
川崎球場時代に「川崎大洋ホエールズ」としなかったのはなぜだろう。
話は逸れるが、Jリーグが発足した時に読売クラブが「読売ヴェルディ」というチーム名にしようとしたが、Jリーグの川淵三郎チェアマン(当時)から、
「企業名はダメ。川崎市がホームタウン(本拠地は等々力競技場)なんだから『ヴェルディ川崎』にしろ」
とクレームが付いたものの、読売新聞社社長(当時)のナベツネこと渡邊恒雄がこれに反発、読売系メディアのみ「読売ウェルディ」と名乗っていた。
もちろんナベツネがヴェルディを「Jリーグの巨人軍」にしようとしていたのは確かだが、選手たちも「チーム名に『川崎』が付くのはダサい」と考えていたようだ。
当時のヴェルディは三浦カズ、ラモス瑠偉、武田修宏、北澤豪らがいた、現在の東京ヴェルディでは考えられないほどの大スター軍団だったのだ。
横浜に移転した大洋がわざわざ頭に「横浜」と付けたのも、川崎時代を払拭したいという思いがあったのかも知れない。
さらにユニフォームも一新、オレンジ色のケバい配色から、白地に紺を基調とした都会的でスマートさを感じさせるデザインに変更し、さらにホーム用にも関わらず胸には「YOKOHAMA」と書かれていた。
球場もオンボロの川崎球場から一転、できたてのピカピカで、電光掲示板に全面人工芝の都会的な横浜スタジアムとなり、別のチームに生まれ変わったようだった。
横浜移転後、長距離砲だったジョン・シピンを読売ジャイアンツに放出し、メジャーから短距離打者のフェリックス・ミヤーンを獲得している。
なぜ実績充分のホームラン打者であるシピンををわざわざ放出し、一発が期待できないミヤーンを獲得したのか?
それは球場の広さと関係がある。
現在でこそ横浜スタジアムはプロ野球本拠地球場で最も狭い球場になっているが、完成当時は驚天動地の広い球場だったのだ。
いや、広さ自体は現在と変わらないが、当時の日本の球場は両翼91mが普通であり、横浜スタジアムの両翼は94mと日本の球場で最も広かった(ただし、翌年に完成した西武ライオンズ球場の両翼95mに抜かれる)。
フェンスも異様に高く、「本当にこの球場でホームランが出るのか?」と本気で心配されたぐらいだ。
世界のホームラン王、王貞治が初めて横浜スタジアムでホームランを打った時、アナウンサーは「王の横浜1号!」と興奮して叫んだものだ。
横浜スタジアムに比べると、川崎球場は工場地帯に建てられたせいか、かなり狭かった。
大洋本拠地時代で憶えているのが、阪神の佐野仙好の「外野フェンス激突事件」である。
レフトを守っていた佐野がレフトオーバーの打球を追ってフェンスに激突、頭蓋骨陥没骨折という重傷を負った。
この頃の川崎球場のフェンスにはラバーが張ってなくて、コンクリートが剥き出しの状態だった。
それに加えて、川崎球場の狭さが災いしたのである。
大洋の大砲だった松原誠は、川崎球場時代最後の1977年には34本塁打を放ったものの、横浜スタジアムに移転した翌年には出場試合数は同じなのに16本塁打と激減している。
一発頼みの野球からスピード野球に移行しようとしたのは当然だろう。
では、川崎球場はどれぐらい狭かったのか?
現在、最もホームランがよく出ると言われている東京ドームと比較してみよう。
数字は全て、ウィキペディアに載っている実測値である。
球場名 左翼 左中間 中堅 右中間 右翼
川崎球場 89m 105m 118m 103m 89m
東京ドーム 100m 110m 122m 110m 100m
メジャーでも活躍したダン・ミセリ投手が巨人に入団したものの、ホームランを打たれ続けてすぐクビになり、
「(東京ドームについて)こんなリトルリーグみたいな球場だからダメなんだ!」
という実にミジメな捨てゼリフを吐いたが、東京ドームがリトルリーグの球場だったら、川崎球場は幼稚園の運動場だろう。
狭いと言われる東京ドームの右中間よりも、川崎球場は7mも狭い。
狭い球場の代名詞だった旧広島市民球場の右中間は109.7m、日本生命球場でも106.9mだった。
さらに、実際の距離は上記よりもさらに狭かったという説もある。
改めてこの数字を見ると、よくこんな球場でプロ野球が行われていたものだと感心する。
主(あるじ)を失った川崎球場だったが、大洋が移転した年に早くも新しいご主人様が現れた。
ジプシー球団と言われたロッテ・オリオンズ(現・千葉ロッテ・マリーンズ)である。
東京スタジアムの売却以来、家なき子となって放浪の旅に出ていたロッテだったが、いちおう仮のねぐら(暫定本拠地)として仙台の宮城球場(現・クリネックススタジアム宮城)を使用していたが、川崎球場が空いたのをこれ幸いと正式な本拠地として移ってきた。
当時のロッテには地域密着という概念がなく、仙台に定着してファンを獲得するよりも、親会社の宣伝に有利な首都圏の方が魅力的だったのだろう。
球団経営のやる気の無さが窺える。
大洋に逃げられた川崎市にとって、ジプシー球団・ロッテの存在はまさしく救世主だった。
球団を誘致したい川崎市と、首都圏に本拠地球場が欲しいロッテ球団との思惑が合致したのである。
球場の狭さについて、当時ロッテの監督だった金田正一は、
「そう簡単にホームランは出させへんでぇ!」
と豪語していたが、その方法とは外野の金網フェンスを継ぎ足して高くするという実に安直なもの。
そりゃ、ちょっとはホームランが出にくくなるだろうが、広さは変わらないのだから、フラフラと上がった平凡なフライがそのままスタンドに飛び込むことは何度もあった。
大洋時代は巨人戦では客が入っていたものの、パ・リーグの不人気球団のロッテがホームチームになったということで、客離れが加速していった。
1980年、横浜高校のエースとして甲子園優勝投手となった愛甲猛をロッテがドラフト1位指名したが、
「ロッテには行きたくありません」
とハッキリ入団拒否した。
結局は周りに説得されてロッテに入団するが、神奈川生まれで神奈川育ちの高校生に、神奈川県を保護地域とする球団が嫌われたのだ。
1990年のドラフトでは、8球団競合の末、亜細亜大学の小池秀郎を1位指名するが、在京球団志望にも関わらず「ロッテは最も行きたくない球団」として入団拒否された。
小池は卒業後に大阪の社会人チームの松下電器(現・パナソニック)に入社し、その後ドラフト1位でやはり大阪の近鉄バファローズに入団するが、あの在京球団志望は一体なんだったのだろう。
「ロッテは東京ではなく神奈川県のチームだから在京球団ではない」という言い訳も成り立つが、小池は埼玉県の西武ライオンズなら入団すると言っていたのだから、これは理由にならない。
でもこれは小池だけではなく、「在京球団志望だけど、ロッテだけはイヤ」というアマチュア選手が結構多かったのだ。
この頃にはロッテは完全に3K(暗い、汚い、ケチ)球団というイメージが出来上がっていた。
実はこの時代、ロッテには魅力的な選手が目白押しだった。
巨人から移籍してきた安打製造機の張本勲、生え抜きではマサカリ投法の村田兆治、ミスター・オリオンズの有藤道世(現・通世)、通算3度の三冠王に輝いた落合博満、助っ人外人ではリー、レオンのリー兄弟と、千両役者ぞろいである。
これだけのスーパースターが揃っていて、なぜ川崎球場には閑古鳥が鳴いていたのか、全く理解できない。
川崎球場には客を寄せ付けないオーラでもあったのだろうか。
主力選手たちは引退し、レオンや落合は他球団に放出、ますます球場には客が来なくなった。
世はバブル真っ只中の1988年、遂にロッテ球団が本気を出した。
引退したリーの後釜として、メジャー通算4度の首位打者を獲得したというバリバリのメジャーリーガー、ビル・マドロックを獲得した。
前年、やはりバリバリのメジャーリーガー、ボブ・ホーナーがヤクルト・スワローズに入団し、日本中に大ブームを巻き起こしたので、川崎球場にもマドロックを見たいという客がワンサカ押し寄せるだろうと期待したのである。
ところが、来日して川崎球場を見たマドロックはビックリ仰天。
「なんだ、この汚くて狭い球場は?こんなところで本当にプロ野球が行われるのか?」
メジャーの豪華なスタジアムを見慣れたマドロックにとって、大きなカルチャーショックだっただろう。
それでもロッテ球団はマドロックのために、300万円を掛けて川崎球場にマドロック専用スペシャルルームを設置した。
マドロックはDHのみの起用という契約だったので、自分の打席以外ではスペシャルルームでずっと音楽を聴いていたという。
しかも高齢のためロクに働けず、僅か1年で解雇となり、高い年俸とスペシャルルームによって大金をドブに捨てたことになった。。
この年、川崎球場にはマドロックの応援歌「サザエさん」が虚しく響き渡っていた。
いくらなんでも、首位打者4度のメジャーリーガーに「サザエさん」はないだろう。
それはともかく、メジャーリーガーに金を掛けるなら、プロ球団にふさわしい本拠地球場を獲得するのが先決だったのではないか。
1984年秋、前年度ワールドシリーズ・チャンピオンとしてボルティモア・オリオールズが来日した。
このメンバーの中には後に連続試合出場世界記録を達成するカル・リプケンjr.がいたが、川崎球場でも日米野球が予定されていた。
しかし結局雨で流れ、予備日もなかったので川崎球場では日米野球は行われなかった。
だが、関係者は雨天中止となってホッとしたという。
「こんな球場を一流のメジャーリーガーに見られたら、日本の恥だったよ」
だったら最初から予定を組まなかったらいいのに。
川崎球場は長らく内野は土、外野は芝生だったが、内野の水はけは異様に悪かった。
少し雨が降ればたちまち試合は中止。
雨天中止よりも、グラウンドコンディション不良による中止がやたら多かった。
外野の芝生は剥げ放題、外野手が転びはしないかと心配になるほどだった。
スタンドはセピア色という表現がピッタリ。
ホーム応援団が陣取るはずのライトスタンドがなぜか削れていて、レフトスタンドに比べるとかなり低くなっていた。
そのため、リーあたりがライトにホームランを打つとすぐに場外に消えていった。
もっとも、ボールが外に飛び出さないように防護ネットが張られていたが。
ロッカールームはジメジメしていて、マッサージ室では今でいうアスベストがドカッと落ちてきたこともあったという。
しかし、ロッテ球団がこれではマズいと新たな本拠地球場を探し始めると、川崎市は慌てて14億円も掛けて川崎球場の改修工事を始めた。
1991年、手書きスコアボードを電光掲示板にし、グラウンドは全面人工芝を敷いて、川崎球場は見違えるほどになった。
さらに、「テレビじゃ見れない川崎劇場」というPRなのか自虐なのかわからないCMが大ヒット、川崎球場は一躍注目を集める存在となった。
しかし、それとこれとは別。
まず何よりも、プロ野球にふさわしい本拠地球場が必要だった。
いくら見違えるようになったとは言っても、所詮は表面上だけのこと。
本拠地移転の流れは変えられず、翌年にロッテは千葉市の千葉マリンスタジアムに移転、「千葉ロッテマリーンズ」として生まれ変わった。
ロッテもまた、大洋のようにわざわざ都市名の「千葉」を頭に付けている。
よほど川崎時代の歴史を消し去りたいのだろうか。
大金を掛けた途端に逃げられたので、川崎市は激怒したそうだが、これは自業自得というべきだろう。
ロッテが居座っている時はロクな改修をしようとはせず(あるいは代替球場建設案もなく)、移転の動きを見せた途端に慌てて全面改修(しかも表面上のみ)をするなんて、みっともないと言わざるを得ない。
ロッテに逃げられた川崎球場にもうプロ球団が来るはずもなく、その後はプロレス団体FMWの大仁田厚による電流爆破デスマッチが目玉興行となった。
だが、もう老朽化を止めることはできなかった。
現在は大幅改修され、両翼70m、中堅90mと硬式野球は不可能となり、スタンドも収容人員2,700人と大幅に縮小された。
現在ではアメリカンフットボールのワールドカップ会場になるなど、アメフト専用場という感が強くなり、かつての面影はない。
プロ野球本拠地球場としてはお粗末だった川崎球場だが、その狭さ故にドラマチックなシーンの多い球場でもあった。
王が700号ホームランを打ったのが川崎球場だった。
ちなみに、王が一本足打法で初めてホームランを打ったのも川崎球場である。
張本が史上初の3,000本安打をホームランで飾ったのも川崎球場だった。
落合は川崎球場に育てられ、この球場で3度の三冠王を獲得した。
狭い球場に悩まされた村田は肘を壊して投げられなくなったが、肘にメスを入れてまで「サンデー兆治」として1,073日ぶりに川崎球場で復活した。
やはり日本のプロ野球シーンにおいて、無くてはならぬ球場だったのである。
そして何よりもあの10.19、日本プロ野球史上最高の名勝負と言われた1988年10月19日、ロッテ×近鉄ダブルヘッダーで川崎球場は極上のドラマを演出した。
この日、川崎球場は「日本中がテレビで見ている川崎劇場」となった。