阪神甲子園球場で行われている第99回全国高等学校野球選手権大会もたけなわである。
日本全国から甲子園に集まってきた高校球児たちが、日本一を目指して戦っているわけだ。
当然、遠くからやって来た球児が自宅から甲子園に通う、なんてことはできない。
全ての高校球児たちは、甲子園の近くにある宿舎に寝泊まりしているわけである。
現在発売中の「Number933号(文藝春秋社)」では、それに関する記事が掲載されているので、興味がある人は読んでみるといい。
球児たちが利用する宿舎は、当然のことながら甲子園球場がある兵庫県西宮市を中心に、神戸市や宝塚市、大阪空港がある伊丹市辺りに集中している。
もちろん、兵庫県に近い大阪市や、大阪府の豊中市、池田市、吹田市、守口市などに泊まる高校も多い。
甲子園から一番遠い所にあるのは大阪府堺市で、南海本線の堺駅に直結するホテル・アゴーラリージェンシー堺に泊まる高校もあって、「あんな高級ホテルに高校球児が泊まるのかよ」と驚いたものだ。
現在、多少の例外はあるが、各都道府県代表の宿泊施設は日本高等学校野球連盟(高野連)によって決められている。
前述の「Number」にも書かれているが、以前はそういう取り決めもなく、地方大会の段階で上位進出した高校は、宿の確保に苦労したという。
なにしろ夏休み、しかもお盆の季節が重なるので、部屋が空いている宿舎があるとは限らない。
しかも、地方大会で敗れてしまえばキャンセルしなければならないのだ。
さらに、初戦敗退ならすぐに宿を引き払うことになるが、勝ち進んだ時に備えてその分の部屋を確保しておかなければならない。
宿にとっては、お盆の時期の書き入れ時に部屋を確保しておきながら、早々と敗退されては商売上がったりになるのだ。
そういう問題も鑑みて、高野連が間に入って確実に宿を確保できるようにしたという。
そのあたりの事情を利用したのが、漫画家の水島新司。
甲子園の時期になると、水島新司は初戦敗退した高校の宿に飛び込みで部屋を確保するのだ。
当然、部屋が空いているのは計算済みである。
そのため、甲子園周辺の宿をわざわざ予約する必要はない。
高校野球には興味がなくても、たとえば春休みや夏休みにUSJなどへ遊びに行きたい人は、大阪のホテルが満室でもこの手を使えるだろう。
水島新司が描いた漫画「ドカベン」では、主人公の山田太郎が通う明訓高校と、ライバル校である土佐丸高校が甲子園では一緒の宿舎になっていた。
ライバル校同士が同じ宿舎に寝泊まりしながら、お互いの動きを牽制し合っていたのが、この漫画の大きな魅力となっていたのである。
もっとも、この頃にはまだ「この県の代表校はこの宿舎」という取り決めはなかった。
桑田真澄や清原和博などが甲子園で大活躍していた1980年代、PL学園が甲子園に出場した時には、PLでは宿舎を取らずに大阪府富田林市にある野球部寮から甲子園に通っていた。
富田林は堺よりも遥かに甲子園から遠かったのだが、それでも野球部寮から通うメリットの方が大きかったのである。
寮に住んでいると普段と変わらない生活ができるのだから、いつもと同じような実力を発揮しやすい。
しかも、グラウンドは目の前にあるのだから、普段と同じ練習はいつでもできる。
他の高校は、高野連からあてがわれたグラウンドで練習できるものの、自由に時間を選択できるわけではない。
つまり、甲子園入りすることによって、いつものリズムが狂ってしまうのだ。
その点、PLは普段と同じリズムで野球ができる。
もっとも、他校のように修学旅行的な気分を味わうことが出来ず、いつもと同じ単調な生活で選手たちには退屈だっただろうが……。
上宮も富田林市の隣りにある太子町に野球部寮があって、甲子園に出場してもそこから甲子園に通っていた。
理由はPLと同じである。
ただし、現在ではそういう特例は認められず、PLや上宮(上宮太子も)は大阪代表校が宿泊する大阪市内のホテルに泊まるようになった。
このように、宿泊施設によって不公平が生じたり、あるいは宿泊料が高騰することを懸念して、オリンピックのような選手村を造ればいいのではないか、という機運が高まったことがあった。
それが、1985年にオープンした西宮市の兵庫県立総合体育館、通称「球児村」である。
兵庫県立総合体育館は阪神タイガース二軍の本拠地である阪神鳴尾浜球場の隣りにあり(当時はまだ鳴尾浜球場はなかったが、近くに高野連指定の練習用球場があった)、甲子園へは車で約10分と実に便利な場所に立地している。
そして何よりも料金がリーズナブル、他のホテルや旅館に比べて半分程度の料金で宿泊できたのだ。
さらに、体育館だけあって投球練習やティー打撃程度なら可能、そして有料ながら器具が揃ったトレーニング施設も充実していたのである。
甲子園出場校にとって、これほど有り難い施設はあるまい。
事実、「球児村」がオープンした当初は、春夏問わずに1大会5校程度の学校が兵庫県立総合体育館を宿泊施設として利用していたのだ。
しかし、現在ではこの「球児村」を利用している高校はない。
いつの間にか、兵庫県立総合体育館は「球児村」としての機能を失ったのだ。
その理由はよくわからない。
ただ、甲子園周辺の宿泊施設から「球児村」の設立に反対があったのは事実である。
いくら先の読めない甲子園球児の受け入れとはいえ、ホテルや旅館にとっては有り難い団体客であり、しかも宣伝にもなる。
それに兵庫県立総合体育館も、49校もの甲子園球児を宿泊させるのは困難だったのだろう。
そして、何よりも大きかったのは「球児村」が球児にとって不評だったということだ。
選手が泊まる部屋は、僅か8畳に2段ベッドが3つも並ぶ6人部屋。
まさしく、ベッド以外は何もないわけで、試合や練習で疲れて帰って来ても、くつろげる空間は全くない。
部屋にはテレビもなく、さらに「寝るだけの部屋」にもかかわらず、消灯時間になるとエアコンまで切られてしまうので、暑苦しくて寝られたもんじゃない。
大広間でくつろいだり、涼しい部屋で安眠できるホテルや旅館とは大違いだ。
それ以上に大きかったのが、食事面での不満。
食事は全てセルフサービス、5校もいるので(当時では75人)お盆を持って長い時間を並ばなければならない。
その間に料理は冷えてしまい、しかも味気ないオカズばかり。
1人当たりの食事量は決められているので、食欲旺盛な球児たちにはとても物足りない。
他校の選手たちは、ホテルや旅館側も採算を度外視してステーキだスキヤキだと豪勢な料理をふるまうので、そんな話を聞くたびに「羨ましい。なんで俺たちは甲子園まで来て、こんな不味い物を食わなきゃいけないんだ」と気持ちが萎えてしまう。
こういうこともあったせいか、「球児村」は僅か数年でその幕を閉じることとなってしまった。