第86回選抜高等学校野球大会は、龍谷大平安(京都)が初優勝を成し遂げた。
夏の甲子園では3度の優勝を誇り、センバツでは全国最多の38回出場ながら、センバツはこれまで優勝どころか決勝戦進出すらなかったのだから意外である。
今年の夏の甲子園では龍谷大平安は春夏連覇を目指すわけだが、ハッキリ言ってかなりの難関である。
これまで、春夏連覇を果たした学校は、長い高校野球の歴史の中で僅か7校。
以前「春夏連覇の難易度」という記事を書いて、高校野球の春夏連覇と、他の高校スポーツの同一年度の連覇を調べたが、高校野球の春夏連覇の可能性は他の高校スポーツの連覇に比べて図抜けて低いことがわかった。
4年前の記事だが、極めて興味深いデータなので、ぜひ読んでいただきたい。
そもそも、センバツ優勝校が夏の甲子園に出場すること自体が難しいのだ。
その原因として考えられるのが、センバツ優勝校といえども夏の地方大会で特典があるわけではない、ということだ。
センバツ優勝校でも春季大会で上位進出できなければ、夏の地方大会ではノーシードということも有り得る。
また、大阪のようにシード校制度がない府県もあるのだから、センバツ優勝校の特典など全くないと言っていい。
また、センバツ優勝校はそれだけ他校にマークされる、という面もある。
何しろセンバツでは毎試合、NHKが全国中継してくれて、しかも相手は強豪校ばかりだから、研究材料には事欠かない。
当然、夏の地方大会では包囲網が敷かれるだろう。
さらに、秋季大会の段階でセンバツ出場が絶望となった高校は、冬の練習で夏に昇順を合わせて調整できるというのも大きな強みだ。
センバツ出場校は、当然のことながら春を目標に仕上げるので、夏の大会では不利になる。
そして、野球は番狂わせが起きやすい、偶然性の高いスポーツであることも原因だと思われる。
おまけに、高校野球は裾野が広い、言い換えれば強豪校が多いため、地方大会といえども勝ち抜くことは至難の業なのだ。
だから高校野球では連覇どころか、甲子園連続出場すら難しいのである。
では、具体的にセンバツ優勝校が夏の大会ではどんな戦績を挙げているのだろうか。
86回を数えるセンバツの優勝校が、夏の甲子園に出場できたかどうかのデータを示してみよう。
ただし、戦争で夏の大会が中止になった1941年と、センバツが中止になった1946年は省いている。
出場=41校
不出場=43校
なんと、センバツで全国制覇を果たした学校が、夏の大会では地方大会で敗退しているケースの方が多いのだ。
特に戦前では、出場=4校、不出場=13校と、夏の甲子園に出場できなかった学校の方が圧倒的に多い。
ただし、これにはカラクリがあって、1927~31年の5年間、センバツ優勝校には夏休み中にアメリカ遠征というご褒美が付いていたため、夏の大会には事実上参加できなかったのである。
それでも1927年にセンバツ優勝した和歌山中(現・桐陰)は夏のアメリカ遠征中、留守番部隊の二軍チームが和歌山大会を勝ち抜いて夏の甲子園に出場したという、驚くべき例もある。
だが、そんな諸事情を含めても、やはりセンバツ優勝校が春夏連続出場するよりも、夏の甲子園に出場した学校は少なかったのである。
戦後になると、出場=37校、不出場=30校と、夏の甲子園に出場した学校の方が多くなっている。
とはいえ、やはり半数近くは夏の地方大会の段階で敗退しているのだ。
ちなみに、センバツで2連覇を果たしたのは戦前の第一神港商(現・市神港)と、戦後のPL学園の2校しか例がないが、両校ともセンバツ2連覇中はいずれも夏の甲子園には出場できなかった。
第一神港商は例のアメリカ遠征があったので仕方がないが、PL学園はセンバツ2連覇した年はいずれも夏の大阪大会で敗退している
しかも、翌年のPL学園はセンバツには出場できなかったものの、夏の甲子園では優勝したのだから面白い。
実はこの年、桑田真澄、清原和博のKKコンビが入学したので、夏の甲子園で優勝できたのだ。
では、最近20年間のセンバツ優勝校の夏の戦績を見てみよう。
なお、初戦敗退というのは一回戦敗退と、組み合わせ上二回戦が初戦となった場合の二回戦敗退の場合も含まれる。
それ以外では「敗退」という言葉は省略している。
センバツ優勝校
1994年 智弁和歌山 夏=不出場
1995年 観音寺中央 夏=二回戦
1996年 鹿児島実 夏=準々決勝
1997年 天理 夏=不出場
1998年 横浜 夏=優勝
1999年 沖縄尚学 夏=二回戦
2000年 東海大相模 夏=不出場
2001年 常総学院 夏=二回戦
2002年 報徳学園 夏=初戦敗退
2003年 広陵 夏=二回戦
2004年 済美 夏=準優勝
2005年 愛工大名電 夏=初戦敗退
2006年 横浜 夏=初戦敗退
2007年 常葉菊川 夏=準決勝
2008年 沖縄尚学 夏=不出場
2009年 清峰 夏=不出場
2010年 興南 夏=優勝
2011年 東海大相模 夏=不出場
2012年 大阪桐蔭 夏=優勝
2013年 浦和学院 夏=初戦敗退
2014年 龍谷大平安 夏=?
ここ20年に関しては、出場=14校、不出場=6校と、センバツ優勝校が夏の地方大会でも勝ち抜くケースが多くなっているし、春夏連覇も3校もある。
センバツ出場した時の、夏に向けての調整方法が確立したのかも知れない。
ただし、夏の甲子園に出場できても、準々決勝に進出できなかったことが8回もあり(緑字で記載)、その中で初戦敗退は半分の4回と、春の王者といえども夏の甲子園を勝ち抜くのは容易ではないようだ。
面白いのが20年間で2度もセンバツ制覇を果たしている東海大相模で、その2回とも夏の地方大会で敗退。
そもそも東海大相模は2010年に夏の甲子園に出場するまで、32年間も地方大会で負け続けていたのである。
その間には、2000年のセンバツ優勝もあった。
そして、2010年に33年ぶりの夏の甲子園出場を果たし、翌2011年のセンバツでは優勝したものの、その年の夏の神奈川大会ではベスト8にも入れず五回戦敗退。
では逆に、夏の甲子園優勝校でありながら、その年の春のセンバツに出場していなかった学校は、どれくらいあるのだろうか。
去年、夏の甲子園で優勝した前橋育英もそうだが、センバツは夏に比べて出場校数が少ないので、そんな学校は多いだろうと思っていた。
そこで、夏の甲子園優勝校が、その年の春のセンバツにどれだけ出場していたか調べてみた。
もちろん、前述の1941年および1946年と、センバツが行われてなかった1915~23年のデータは省略している。
出場=51校
不出場=33校
意外なことに、夏の優勝校がその年のセンバツに出場しているケースの方がかなり多い。
不思議に思っていたが、その秘密はどうやら戦前にあるようだ。
戦前では、出場=16校、 不出場=1校と、夏の甲子園優勝校はほとんどがその年のセンバツ出場校なのである。
ちなみに戦後になると、出場=35校 、不出場=32校と、ほぼ半々になる。
その理由は、戦前のセンバツ選考方法にあると思われる。
選抜とは読んで字の如く「選び抜かれた」という意味。
センバツが始まった趣旨はまさしくそれで、夏の大会のように結果主義にはとらわれず、本当に実力のある学校を文字通り「選び抜いて」出場させていたのだ。
そのため、センバツでは実力のある学校しか出場しなかったので、夏の大会よりも中身が濃かったのである。
レベルが高かった愛知からは4校も出場したこともあった。
東海勢がベスト4を独占したこともある。
全国大会で優勝できるような集まりがセンバツだったのだから、夏の優勝校がセンバツ出場していたのも頷ける。
しかし、戦後になると平等主義がセンバツでも採用されるようになったのである。
平等主義といえば聞こえがいいが、要するに結果主義だ。
秋季大会の結果がそのままセンバツ出場に反映され、センバツは夏のミニ大会みたいな様相を呈したのである。
「予選がない」というのがセンバツの特色だったのだが、実際には「重要参考資料」たる秋季大会が、センバツの予選のようになってしまった。
センバツの趣旨から言えば、選考委員が「甲子園で優勝する実力がある」と認定すれば、秋季大会の早い段階で敗れても、勇気を持って選考してもいいと思うのだが。
例えば、昨年の秋季愛媛大会では 早々と敗れた済美など、安樂投手を擁しているのでセンバツに選ばれてもいいのではないか、と思うのだ。
まあ、安楽投手は負傷していたので、センバツでは投げられなかったと思うが、安樂投手が万全ならそんな選考方法があってもいいと思う。
なぜなら、センバツは夏の選手権とは違う「選び抜かれたもの」の大会なのだから。
だが、現実には秋季都道府県大会上位に進出して推薦校にならなければ、21世紀枠を除いてセンバツに出場できない。
戦前と違い、平等主義(結果主義)を唱える人が多くなったのだろう。
話は逸れたが、偶然性が高く、強豪校の裾野が広い高校野球では、たとえ甲子園で優勝できても地方大会で敗れる可能性が非常に高いのである。
そこが高校野球の最大の魅力だとも言えよう。
今春のセンバツを制した龍谷大平安だって、同じ京都にはセンバツ8強の福知山成美がいるし、夏の甲子園に出場できないことも充分に考えられる。