前回からの続き。
8連覇ならず
1995年度のシーズン前、平尾は同志社大学の同期で、ライバルであるサントリー(現:サントリー・サンゴリアス)の土田雅人に相談を受けていた。
震災直後に、土田は平尾に会うためにわざわざ東京から大阪にやって来たのだ。
「俺は今、サントリーからヘッドコーチ就任の打診を受けとる。お前の返事で受諾するかどうか決めたい。キャプテンは誰にしたらええと思う?」
「お前、敵に何を相談しとんねん」
平尾は苦笑しながらも答えた。
「でもまあ、永友(洋司)がええんとちゃうか」
すると、東京に帰った土田はヘッドコーチ就任を受諾し、本当に入社3年目の永友をキャプテンにしてしまった。
「おいおい、ホンマにええんかいな」
平尾は土田の決断に驚いた。
そして、平尾の助言が日本ラグビー界を変えることになる。
第3回ワールドカップでは、日本代表は3戦全敗、しかもニュージーランド(オールブラックス)には17-145という大敗を喫した。
さらに、この大会を機にラグビー・ユニオンは、それまで守り続けてきたアマチュアリズムを撤廃、プロ化容認の方向に進んだのである。
ラグビー先進国のレベルアップが加速することは、火を見るよりも明らかだった。
日本ラグビー協会も、社会人大会をそれまでのノックアウト式トーナメントをやめ、予選プールを採り入れたワールドカップ方式に改めたのである。
阪神・淡路大震災によりチーム作りが遅れたものの関西リーグを制し、予選プールも勝ち抜いた神戸製鋼(現:神戸製鋼コベルコ・スティーラーズ)は、決勝トーナメントの準々決勝でサントリーと対戦した。
試合は一進一退の好ゲームとなり、神鋼が3点リードのまま後半ロスタイムを迎えた。
そのまま逃げ切れば準決勝進出だが、神鋼は自陣で痛い反則を犯してしまう。
ペナルティ・ゴール(PG)を狙うのは、新キャプテンに就任したSHの永友。
永友は正面からのPGを難なく決め、同点で試合終了。
トライ数の差で、サントリーが準決勝進出を決めたのである。
神鋼の8連覇が途絶えた瞬間だった。
平尾は、敵に塩を贈った形になる。
サントリーは社会人大会を勝ち抜き、さらに日本選手権も制した。
そして平尾は、1997-88年のシーズンをもって引退することとなる。
日本代表監督就任へ
1997年2月、平尾は日本代表監督に就任した。
弱冠34歳、史上最年少の日本代表監督である。
平尾は代表強化を目的として「平尾プロジェクト」を発足、ラグビーのみならず他のスポーツからも人材を募った。
そして同年のパシフィック・リム選手権ではカナダに歴史的な逆転勝ち。
1998年、日本代表として初の外国人主将としてアンドリュー・マコーミックを指名、さらなる強化を図った。
そして強豪のアルゼンチン(ロス・プーマス)に快勝、さらにアジア予選も突破して1999年に行われる第4回ワールドカップ出場も決める。
1999年のワールドカップ・イヤーではパシフィック・リム選手権で優勝、平尾ジャパンに対する期待が否が応でも上がる。
しかし、現状のままではワールドカップで勝てないと平尾は判断、オールブラックス出身の外国人選手を多く起用した(当時の規約では、他国の代表経験者でも条件さえ満たせば代表選手になれた)。
そのため、海外メディアからは「チェリー・ブラックス」などと揶揄され、さらに本戦でも日本らしいプレーを見せられずに3戦全敗でワールドカップを終えたのである。
ワールドカップが行われたウェールズの風は、平尾ジャパンにとって厳しいものとなった。
さらに、翌2000年のシーズンでは、パシフィック・リム選手権で全敗の最下位。
テストマッチでも負け続け、平尾は遂に辞任へと追い込まれたのである。
平尾は代表監督として、残念ながら結果を残すことはできなかった。
その後の平尾は、日本代表や神鋼を裏から支える存在となった。
しかし2016年10月20日、志半ばの53歳という若さで、平尾はこの世を去ったのである。
平尾の現役時代から指導者に至る時期は、ちょうど世界のラグビー界にとっても大きな転換期だった。
日本代表としてプレーした頃の1987年には、ラグビー・ユニオンとして初めてのワールドカップ開催。
日本代表が大惨敗した1995年のワールドカップを境に、ラグビー・ユニオンはプロ化容認。
プロ化が遅れた日本は、世界に大きく水を開けられることになった。
そんな状態で平尾は、代表監督を任されたのである。
そして、平尾のキャプテン時代に日本代表の監督だった宿沢広朗も若くして亡くなった。
平尾や宿沢が日本代表の中枢として活躍していれば、日本代表の姿も今とは違った形になっていたかも知れない。
それでも日本代表は2015年のワールドカップで、南アフリカ(スプリングボクス)を破るなど3勝1敗の好成績を挙げた。
この大会を、平尾が見届けることができたのがせめてもの救いだ。
そして2019年は、いよいよ日本でワールドカップが行われる。
平尾には、やはりこの時まで生きていて欲しかった。
高校時代の恩師である山口良治は、こう語る。
「賢い子やったけど、俺を置いて先に逝くなんて、最後にこんな間違いを犯すとは……」。
-完-
【参考文献】
「知のスピードが壁を破る」平尾誠二(PHP)
「ラガーメン列伝」末冨鞆音・編(文春文庫)
「勇気の中に」大八木淳史(アリス館)
「楕円球の詩」林敏之(ベースボール・マガジン社)
「奇跡への疾走」イアン・ウィリアムス(講談社)
「戦闘集団の心理学」大西一平(クレスト社)
「PLAY ON!日本ラグビーのゆくえ」日本ラグビー狂会(双葉社)
「ラグビーワールド」(ワールド出版)
「Number」(文藝春秋社)
-文中敬称略-