前回からの続き。
イギリスへ旅立つ
同志社大学を卒業した平尾誠二は、就職せずにイギリスへ旅立った。
大学時代に三連覇を経験し、日本代表としても充分な実績を挙げていた平尾なら、日本の企業から引く手あまたのはずだが、平尾はそれらを蹴ってしまった。
平尾はもう、日本でラグビーを続けるつもりはなかったのである。
平尾は、ラグビー以外の新たな道を模索していた。
そして、インテリア・デザイナーに興味を持ったのである。
ラグビーの母国・イギリスに留学して、好きなラグビーを楽しみながらデザイナーの勉強をしたい、と考えていたのだ。
このあたりの思考も、当時の日本人では考えられないことである。
日本とは全く違う、イギリスのラグビー
平尾は、ロンドンから南へ車で約2時間のブライトンでホームステイをすることになった。
ブライトン。
日本のラグビー・ファンなら、永遠に忘れない地名だろう。
2015年のワールドカップで、日本代表が優勝候補の南アフリカ代表・スプリングボクスから奇跡の勝利を挙げた場所だ。
その30年前に、平尾がホームステイしていたのは、何かの因縁か。
平尾が所属したのはイギリスの名門、リッチモンド・クラブ。
リッチモンドは、ロンドンでは二番目に歴史の古いチームで、百年を超える伝統を誇っていた。
当時のラグビー・ユニオンでは、日本はもちろん海外でもプロが認められておらず、当然リッチモンドもアマチュアのクラブ・チームだった。
しかしその形態は、日本の社会人チームとは大きく異なっていたのである。
たとえば新日鉄釜石(現:釜石シーウェイブス)なら、ラグビー部員の全員が新日鉄釜石の社員であって、仕事終了後に選手全員がグラウンドに集まって、毎日のように練習を行う。
ところがリッチモンドでは、地域のクラブ・チームのため、選手それぞれの職業はみんなバラバラ。
会社員もいれば医者や弁護士、自営業や学生までいる。
当然、仕事が終わる時間もバラバラなので、毎日の練習などできない。
リッチモンドでは、火曜日と木曜日を練習日とし、土曜日に試合をするというスケジュールだった。
練習日の火曜日や木曜日でも、練習開始時間の午後6時半に全員が集まることはまずない。
それでも、集まった選手だけで練習が始まる。
日本みたいに、練習に遅刻した選手が怒鳴られる、なんてことは有り得ない。
練習時間に遅れて来た選手たちは、みんな大急ぎでジャージに着替える。
遅刻したから怒られる、というわけではない。
週にたった2回しかない練習日、少しでも早くラグビーを楽しみたいからだ。
日本では、毎日のように怒鳴られながら練習をし、大雨で練習が中止にでもなれば万々歳だが、イギリスでは練習日が少ない分、ラグビーに対する欲求が深まったのである。
それは、日本のような体育会系とは無縁の世界だった。
初めて体験するWTB
平尾は、リッチモンドではBチームからスタートした。
しかし、たちまち頭角を現してAチームに昇格する。
そこで手渡された背番号は「11番」だった。
いわゆる左ウィング(WTB)、トライ・ゲッターである。
だが、平尾が日本でこなしてきたポジションは10番のスタンドオフ(SO)、あるいは12番のインサイド・センター(CTB)だった。
野球で言えば、セカンドやショートを守っていた選手が、いきなりサードやファーストをやれ、と言われているようなものである。
当然、フォーメーションも違うし、強い打球が飛んで来るサードやファーストは見た目よりも簡単ではない。
もちろん、ラグビーでのWTBも同じである。
司令塔と呼ばれるSO、そして突破力を活かしてチャンスを拡大するCTBとは、WTBは全く職種が違う。
「僕はWTBをやったことはありません」
平尾はコーチにそう言った。
しかし、コーチの答えはこうだった。
「だから?」
コーチは続ける。
「お前をWTBに推したのは、それがチームにとってベストの布陣だと判断したからだ。経験が有る無しは関係ない」
そして、コーチとのWTBのマンツーマン特訓が始まった。
「いいか、セイジ。WTBは外側のスペースを使って抜くことを考えなけらばならない」
それは、平尾にとって初めて体験するプレーだった。
SOやCTBといったフロント・スリーのポジションを担ってきた平尾にとって、内側に切れ込むカット・インこそが最も得意だったプレーである。
しかし、バック・スリーたるWTBはトライを獲らなければならないポジション。
グラウンドの内側で勝負してきた平尾にとって、バックス(BK)としての幅を持たせたことは、WTBは貴重な経験となった。
僅か半年で、イギリスとお別れ
全てが新鮮だったイギリスでのラグビー生活も、僅か半年で別れを告げる時が来た。
理由は、日本の男性ファッション雑誌に載ってしまったことである。
そのファッション雑誌では、単に平尾がインタビューに答えるというだけだったが、平尾がモデルとして掲載されたのだ。
これが、当時の日本ラグビー協会でのアマチュア規定に触れたのである。
このため、平尾は日本代表から外されてしまった。
そして、日本からは電話での取材攻勢。
時差も全くお構いなく、日本のマスコミは平尾のホームステイ先に電話を掛けてくる。
大家さんは、夜中でもひっきりなしに掛かってくる電話に応対しなければならない。
もはやこれ以上、大家さんに迷惑をかけてはいけないと、平尾は思った。
そして、平尾は日本に戻る決意をする。
だが、日本に戻って何をする?
大学卒業時、就職活動は全くしていない。
しかも、日本代表資格を剝奪されて、イメージが悪すぎる。
もはや、平尾を採用しようという会社は皆無に近かった。
平尾はもう、ラグビーを引退しようと思っていたのである。
しかし、ある人から平尾は諭された。
「引退するのは自由だが、お前にはラグビーの楽しさを伝える義務がある」
と。
そして、今の子供たちは、平尾誠二に憧れてラグビーを始めている。
そんな子供たちのために、平尾はラグビーを続けるべきでではないのか?
その言葉に揺り動かされて、平尾は日本でプレーできる会社を探し始めた。
意外にもその企業は、早く見つかった。
それが神戸製鋼(現:神戸製鋼コベルコスティーラーズ)である。
神戸製鋼には、同大の先輩である林敏之や大八木淳史らがいたので、平尾にとっては絶好のチームだった。
イギリス帰りの平尾は、神戸製鋼に三顧の礼で迎えられたのである。
しかし、当時の神戸製鋼はスター軍団と称されながら、大きな弱点を抱えていたのだった。
その件については、次回に書くとしよう。
後に平尾は、こんなインタビューを受けた。
「あなたは大学でラグビーを辞めると決意したそうだけど、今でもラグビーを続けています。ラグビーを続けて良かったと思いますか?」
平尾はこう答えた。
「今では、ラグビーを続けて良かったと思います。でも、ラグビーを辞めて他の道に進んでいたとしたら、ラグビーを辞めて良かったと思うでしょうね」
これが、平尾という人物の全てを現しているのだろう。
後悔したり、嫉妬したりするのは、無駄なことだから――。
(つづく)