エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)で行われていた今年(2016年)の大相撲春場所は、横綱・白鵬が14勝1敗により36度目の優勝で幕を閉じた。
自身が持つ最多優勝記録を更新し、さすが横綱は強いとメデタシメデタシ……というわけにはいかない。
なぜなら、千秋楽の結びの一番、横綱・日馬富士との取組で白鵬は立ち合いで変化し、突き落としでアッサリ勝ってしまったからだ。
もちろん、横綱が立ち合いで変わってはいけない、というルールはない。
しかし、仮にも横綱である。
仮にも、どころか史上最多優勝を誇る偉大な横綱なのだ。
ルール違反じゃないからと言って、何をやってもいいというわけではない。
白鵬は昨年の九州場所でも「猫だまし」という、横綱にあるまじき技で勝ったことがあった。
横綱による立ち合いの変化や猫だましがなぜいけないのか、何度もくどくどしく書くのは嫌なので、こちらを参照してもらいたい。
もはや横綱の品格、という言葉が嫌いなら、プライドすらないと言っていい。
優勝がかかった千秋楽の結びの一番、しかも横綱同士の取組で、ファンが期待しないわけがない。
堂々とした横綱相撲で白鵬が勝って優勝した場合はもちろん、敗れて大関・稀勢の里との優勝決定戦にもつれこんでも、ファンは大喜びしたはずだ。
そしてたとえ優勝を逃しても、ファンは復活を遂げた白鵬を祝福したはずである。
しかし結果は、茶番のような立ち合いの変化。
ファンは高い金を払って、横綱のこんな姑息な相撲を見に来ているのではないのだ。
何度でも言うが、ルールを守っていればそれでいい、というものではない。
それを、
「ルール違反ではないのに、何が悪い。勝利への執念の現れではないか」
などと持ち上げる人がいるから、話はややこしくなる。
そんな人は、ハッキリ言ってスポーツというものをわかっていないのだ。
「相撲はスポーツではなく神事だ」という人もいるが、それならなおさらだろう。
どんなスポーツでも「暗黙の了解」というものがある。
「ルールブックに書かれざるルール」ともいうが、要するにルールさえ守っていれば何をやってもいい、というわけではないのだ。
プロ野球でも1982年の最終戦で、横浜大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)が自軍の打者である長崎啓二(現:長崎慶一)に首位打者を獲らせるために、相手チームの中日ドラゴンズの田尾安志を全打席敬遠させたことがある。
この時、中日は優勝がかかっており、勝てば優勝、負ければ読売ジャイアンツが優勝という重要な試合だった。
結局、大洋が採った敬遠策のおかげで中日が勝ち優勝したものの、田尾は首位打者を逃した。
また、優勝を逃した巨人のファンも、大洋の作戦を批判したのである。
この件に関して、プロ野球関係者は「大洋は球団として自軍の選手にタイトルを獲らせようとするのは当たり前」と擁護した。
しかし、これはあまりにファン無視の意見と言わざるを得ない。
こういう時によく持ち出すのが、
「獲ったタイトルはずっと残るが、2位だと何も残らない。無責任なファンが勝手なことを言うな」
という理論である。
だが、果たしてそれは本当か。
実際にあの試合で、印象に残ったのは田尾の抗議による空振りで、長崎の首位打者など全く印象に残っていない。
長崎にまとわり付いたのは、
「試合に出場せず、タイトルに固執した卑怯者」
というレッテルだけである。
もっとも、球団は長崎に温情をかけ、長崎はそれに従っただけなのだが、それでも首位打者というタイトルを得たために、遥かに大きな物を失ったのだ。
高校野球でも、1992年の夏の甲子園で、明徳義塾が星稜の松井秀喜に対して5打席連続敬遠を行った。
結果は3-2で明徳義塾が勝ったが、ファンからは大ブーイングで、社会問題に発展したのである。
「ルール違反ではないから何をやってもいいではないか。この作戦を批判するのは野球を知らない連中だ」
と嘯いた。
しかし、本当にそうだろうか。
敬遠というのは、もちろんルールで認められており、野球では立派な作戦とされている。
だが、この時の明徳義塾は、明らかに野球の作戦から逸脱していた。
1打席目、2打席目、そして甲子園が騒然となった5打席目は塁が空いていたので、敬遠しても仕方がない。
だが、3打席目は2点リードで一死一塁、4打席目は1点リードで二死無走者だったのだ。
この状況で敬遠するのは、ハッキリ言って野球を知らないと言っていい。
どちらの状況でも、無条件で同点の走者を許してしまうのだ。
いくら松井が強打者でも、10割の確率でホームランを打てるわけではないのに、敬遠四球だと10割の確率で出塁を許すのである。
それに、一死一塁なら併殺を狙えるし、二死無走者ならたとえホームランを打たれても1点で済むのだ。
にもかかわらず敬遠するのは、勝負師でもなんでもなく、ただの小心者である。
もし1打席でも勝負していたら、あれほど批判されなかったに違いない。
たしかに明徳義塾は3-2で勝った。
だがそれは、5打席連続敬遠したから勝ったのではなく、5打席連続敬遠をしたにもかかわらず勝ったに過ぎない。
要するに、運が良かっただけだ。
馬淵監督は、敬遠作戦の理由を、
「河野(和洋)は控え投手だったので、松井君を抑えられんやろうと思ったからや」
と説明したが、一人の打者を5回も出塁させて2点で抑えるようなピッチャーが、悪い投手であろうはずがない。
ましてや相手は、センバツ8強の星稜である。
しかもチームメイトによれば、河野投手は事実上のエースだったと証言しているほどだ。
河野投手はたしかにプロへ行けるようなピッチャーではなかったが、高校レベルではコントロールもよく、そこそこの速球や変化球も投げられた。
馬淵監督のこんな言い草は、可愛い教え子の河野投手に対しても失礼ではないか。
唯一の救いは、河野投手は卒業後もずっと野球を続けたことだったが……。
第一、馬淵監督は一人の相手選手から逃げまくるために、選手たちに厳しい練習を課してきたのか。
甲子園という最高の場所で、自分たちの力を発揮させるための練習だったはずなのに、馬淵監督はその権利も選手たちから奪ってしまったのである。
それでも、馬淵監督のことを「真の勝負師であり、それを批判する人は野球を知らない」などと崇め奉る人が多いから、日本のスポーツ文化はいつまで経っても育たない。
野球、そしてスポーツの本質を、全くわかっていないのである。
この時の、馬淵監督の作戦を支持する人は、次の試合で明徳義塾がどうなったかご存知か。
広島工に0-8で惨敗したのである。
明徳義塾ほどの力があるチームが、こんな惨敗を喫したのは、星稜戦で選手たちの心が傷ついたことと無関係ではあるまい。
結局は馬淵監督も、目の前の10円玉に目がくらみ、大切な物を失ったのである。
なにしろこの試合で万人の心に残ったのは、明徳義塾の三回戦進出という偉業(甲子園ベスト16は素晴らしいことだ)ではなく、5打席連続敬遠というバカげた作戦だけだったのだから。
明徳義塾×星稜戦の後、両校の選手が挨拶したが、その後は両校の選手が握手を交わすのが普通なのに、星稜の選手たちはそれを拒否した。
もちろん、明徳義塾はルール違反をしたわけではないので、星稜の選手たちは悔しさを胸に秘めて握手するのが筋だとは思うが、高校生にこんな思いをさせた作戦とは一体なんだったのだろう。
勝負の結果がどうであれ、試合後は敵味方を越えて清々しい気分にさせるのが指導者の務めではないのか。
ちなみに馬淵監督は、社会科の教師である。
話は逸れたが、今回の白鵬も根本的な問題は一緒だと言えよう。
結びの一番が終わった後、場内には激しいブーイングが巻き起こった。
そして表彰式を前に、多くのファンが場内から去ってしまったのである。
NHKのアナウンサーによると、放送できないようなヤジが聞こえてきた、と伝えていた。
それでも表彰式では、涙を浮かべる白鵬に対し、数少ない残ったファンは暖かい拍手を送った。
相撲ファンも、随分優しくなったものである。
昔だったら、抗議の意味の座布団が宙を舞っていただろう。
いや、新日本プロレスのファンだったら、暴動を起こしたに違いない(※注)。
優勝インタビューで白鵬は、
「こんな(立ち合い)変化をして、勝負がアッサリ決まってしまうとは思わなかったが、申し訳ない」
と涙ながらに語った。
だが、「申し訳ない」と思ったのなら、なぜ変化したのだろう。
昨秋の九州場所で物議を醸した「猫だまし」について、何も反省しなかったのだろうか。
涙を流して詫びるぐらいだったら、堂々と横綱相撲を取ればいい。
こんな横綱がたとえ100回優勝したとしても、尊敬する気には全くなれない。
何よりも残念なのは、こんな相撲を容認する、というより褒め称える人が多く存在することである。
「ルールさえ守ればいい」という考え方が、スポーツ文化を破壊し、ひいては我々の社会に害となることが全くわかっていないのだ。
「合法だと何をやってもいい」という考え方が蔓延ると、その社会は間違いなく腐敗する。
今回の白鵬が行ったことがなぜいけないのか、まだわからない方は、しつこいようだがもう一度こちらを読んでいただきたい↓
※注……1984年、第2回IWGP決勝戦でアントニオ猪木が前回王者のハルク・ホーガンと対戦、前年には猪木がホーガンにKO負けしており、ファンは誰もが猪木の雪辱を願った。しかしこの試合で猪木はホーガンに圧倒され、青息吐息。またホーガンの軍門に下るかと思われたが突如として長州力が乱入。どさくさに紛れて猪木がリングアウト勝ち、念願のIWGP王者となったが、この不透明決着にファンは激怒し、暴動が起きて蔵前国技館の施設を壊しまくった。