今年(2016年)1月3日、フジテレビ系列でドラマ「坊っちゃん」が放送された。
言うまでもなく夏目漱石の小説「坊っちゃん」をドラマ化した番組である。
これまでも何度も「坊っちゃん」は映画化、ドラマ化されてきた。
しかし、そのどれもが成功作とは言えない。
その理由を作家の故・井上ひさしは、
「『坊っちゃん』での文章の面白さは、実写化されると活きて来ない」
と語っている。
では今回の「坊っちゃん」はどうだったのか。
残念ながら、今回もやはり失敗作だったと言えよう。
まず、一番ミスマッチだったのが英語教師のうらなり君(古賀)を演じた山本耕史。
うらなり君と言えば、許嫁のマドンナを赤シャツにアッサリ奪われてしまうような気弱で冴えない男だったが、山本耕史ではあまりにもイケメン過ぎて、うらなり君の悲壮さが伝わって来ない。
そもそも、うらなり君は「うらなりの唐茄子を食い過ぎたような、青く膨れた顔」という設定であり、山本耕史とはイメージがかけ離れている。
そのうらなり君の許嫁であるマドンナ(遠山のお嬢様)役だった松下奈緒は、可もなく不可もなくといったところ。
というよりも、マドンナは美人でありさえすれば誰でもいいのである。
そもそも原作では、マドンナのセリフが一切ない。
そこがマドンナの神秘的なところなのだが、実写化すると、どうしても主人公たる坊っちゃんと絡まざるを得なくなるため、人間的に優れた素晴らしい女性となってしまう。
しかし坊っちゃんは、原作ではマドンナのことを、君子のうらなり君を捨てて奸物の赤シャツになびく「気の知れないおきゃん」と断罪している。
もちろん原作では、坊っちゃんと絡むことはない。
「坊っちゃん」に登場する若い女性はマドンナしかいないのだから、仕方ない面もあるのだが。
だからと言って、今回のドラマでは最終的にうらなり君とマドンナが結ばれてしまったのはいただけなかった。
イケメン俳優と美人女優を起用したために、「いい感じ」で終わらせようとする制作者側の魂胆がミエミエで、すっかり白けてしまった。
清は重要な役どころのため、大女優を起用せざるを得ない部分があるので、これも苦しいところだろう。
ただ、手紙を書くシーンでは、汚い字かつ平仮名ばかりの文面で「教養のないお婆さん」という面を視聴者に示したところには良識が感じられた。
数学主任の山嵐(堀田)を演じた古田新太は、イメージ的にはいい。
本来なら「いがぐり坊主で叡山の悪僧」という風貌の山嵐だが、こればかりはそんな俳優はなかなかいないので仕方あるまい。
でも、坊っちゃんとはいささか歳が離れ過ぎである。
とは言え、一銭五厘のやり取りで、最終的に和解する演出は良かった。
画学の野だいこ(吉川)の八嶋智人も、太鼓持ちという雰囲気ではイメージに合っている。
ただ、赤シャツに対して最後に見切りをつけてしまうのはいかがなものか。
それだと、坊っちゃんのことを「べらんめえで勇み膚の坊っちゃん」と、同じ江戸っ子でありながらバカにしている野だいこのキャラクターから大きく逸脱してしまう。
何よりも、物語のクライマックスとなる場面、赤シャツと野だいこが芸者遊びをして帰るところを、坊っちゃんと山嵐にさんざん殴られてしまうシーンが無かったのは残念だった。
野だいこはあくまでも太鼓持ちでないと、野だいこの意味がない。
生徒たちは、全員が標準語だったのが残念。
やはり「ぞなもし」の語尾でなければ、生徒という感じがしない。
江戸っ子のべらんめえ口調で早口の坊っちゃんと、四国の田舎者でのらりくらりと「ぞなもし」という方言で対抗する生徒とのやり取りが面白いのだ。
実はそれ以上の問題があるのだが、それについては後述する。
校長の狸。
演じたのは岸部一徳だが、何を考えているのかわからない「狸」という設定になっている。
しかし原作では、単なる事なかれ主義者であり、岸部一徳では存在感が有り過ぎた。
というよりも、ほとんどドラマ『相棒』に登場する小野田官房長そのものである。
そして最後に、赤シャツを見切ってしまうのも、なんだかなあという感じだ。
そんな中で、教頭の赤シャツ役を演じた及川光博は秀逸だった。
ドラマ『相棒』では2代目相棒であり、小野田官房長たる岸部一徳(校長の狸)とのやり取りも面白かったが、何よりも赤シャツは一番役どころが難しいのである。
赤シャツは教頭であるがために、どうしても年配者というイメージが強い。
そのため、今まで実写化された作品でも、赤シャツ役にはベテラン俳優があてがわれてきた。
ところが実際には赤シャツは独り者であり、結構若いと思われる。
明治時代で教頭なのに独身となると、相当珍しい存在ではないだろうか。
でも、原作では赤シャツには中学生(旧制、現在では高校生ぐらい)の弟がおり、歳が10歳以上離れていたとしても、せいぜいアラサーである。
そう考えると、赤シャツが30歳前後の独身で(それでも明治時代では珍しいだろうが)、うらなり君の許嫁であるマドンナにちょっかいを出すのも頷ける。
何しろ赤シャツは、この旧制中学校で唯一の文学士であり、しかも帝大(現在の東京大学)出だ。
田舎の中学校では、教頭まで出世するのも容易かっただろう。
しかし、これまでの実写版では、教頭という言葉に惑わされて、赤シャツ役は年配の俳優が演じていた。
そこへ、今回は及川光博を起用したのである。
及川光博自体は既に40代半ばを過ぎているものの、明治という時代背景ならば、その風貌は三十路の独身者でも全く違和感はなく、インテリでイヤミな教育者としてはピッタリだった。
今回のドラマでは最大の当たり役と言えよう。
では、主人公の坊っちゃんはどうか。
二宮和也が演じたが、残念ながら失敗だった。
と言っても、それは二宮和也が悪かったのではない。
制作者が悪かったわけでもない。
「坊っちゃん」とは、それぐらい難しい作品なのである。
まず難しいのは、現代の感覚で「坊っちゃん」という物語を制作しようとすると、どうしても坊っちゃんを「理想の教育者」としてしまう点だ。
「真っ直ぐで、嘘をつくのが大嫌いで、体制には屈しない向こう見ず」という坊っちゃんの性格が読者の心を掴み、さらに坊っちゃん自身が数学の先生ということで、坊っちゃんこそが最高の教師というイメージになっている。
あるいは、青春ドラマで理想の教師役を演じた中村雅俊のようなものだ。
実際に、中村雅俊は映画「坊っちゃん」で、坊っちゃん役を演じている。
しかし原作では、坊っちゃんは理想の教師でもなんでもない。
ただ単純に、自分の主張を曲げなかっただけである。
だから、自分が勤める学校を変えようとするつもりもなければ、生徒を正そうとする気もなかった。
そのため、赴任してから1ヵ月程度で、サッサと辞表を提出している。
僅か1ヵ月で教職を辞していては、とても教職者とは言えない。
全ての実写版を見たわけではないが、大抵は生徒たちが坊っちゃんに対して心を開き、和解するという内容だろう。
だが、原作では坊っちゃんと生徒たちが和解することはなかった。
ハッキリ言って、坊っちゃんは生徒たちに対して、憎しみの感情しか抱いていないのである。
何しろ坊っちゃんは、教職を辞して四国を離れるとき(あらゆる実写作品では愛媛の松山とされているが、原作では松山とは断定されていない)、この土地を「不浄な地」とまで言い切っているのだ。
坊っちゃんが生徒たちと和解する気も全くなく、生徒たちも坊っちゃんに慕うなんて有り得なかったのである。
でも、今までの実写版と同じように、今回のドラマでも坊っちゃんと生徒たちはわかり合うようになる。
金八先生が校内暴力に立ち向かい、中村雅俊が不良生徒たちの心を掴んだように。
だが、「坊っちゃん」は学園ドラマや青春ドラマとは根本的に異なる。
ここを理解しないと「坊っちゃん」の本質は掴めない。
それがわからずに「坊っちゃん」を安易に実写化すると、今回のような失敗作になるのだ。
いや、今までで成功した「坊っちゃん」の実写作品など、これまで一つもないことは冒頭に述べた。
やはり、井上ひさしが言うように、「坊っちゃん」を実写化して成功するのは不可能なのだろうか。
そもそも「坊っちゃん」を、現代の感覚に当てはめるのに無理がある。
坊っちゃんは、清が言うように「真っ直ぐで良いご気性」なのだが、結局は四国での教職生活を僅か1ヵ月で終えてしまった。
時を同じくして、盟友の山嵐も辞職せざるを得なくなっている。
その少し前には、許嫁のマドンナを赤シャツに獲られたうらなり君は、赤シャツの陰謀によって九州の延岡に飛ばされた。
一方、ずる賢い赤シャツと野だいこは、坊っちゃんと山嵐に殴り付けられたとはいえ、のうのうと生き残っている。
もちろん事なかれ主義者の狸だって、何の変わりもなく校長職を続けているだろう。
要するに、正直者の坊っちゃんや山嵐、うらなり君は敗北者だったのだ。
しかし「正直者が馬鹿を見る」ドラマや映画を作ると、現代社会ではどうしても反発を食らってしまう。
だから坊っちゃんを、成功者のように描いてしまうのだ。
そして最終的には、学園ドラマのように坊っちゃんと生徒が分かち合うという、陳腐なラストになる。
しかしそれだけでは「坊っちゃん」という素晴らしい作品が、あまりにももったいない。
ただ、「坊っちゃん」の実写化がことごとく失敗しているとはいえ、「坊っちゃん」という小説に興味を抱く人が増えるのはいいことだろう。
そして、今回のドラマ「坊っちゃん」で興味を持った方は、是非とも夏目漱石原作の「坊っちゃん」をお読みいただきたい。
きっと、明治時代に書かれたとは思えない、軽妙でわかりやすい語り口に魅了されるだろう。