今年(2015年)、開創1200年を迎えた高野山の北麓にある、自然豊かな町だ。
北側には大河・紀の川が流れ、川を渡れば和歌山県北東部の中心都市・橋本市がある。
和歌山と言えば海のイメージが強いが、ここは海とは無縁の山に囲まれた地だ。
橋本市から国道24号線を西へ紀の川沿いを走ると、遥か彼方に県庁所在地の海に面した和歌山市に辿り着く。
また、橋本市から国道371号線を北に走り、すぐ近くの和泉山脈を越えればそこは大阪府の河内長野市だ。
和歌山市に行くよりも、大阪府に行く方が近い、そんな地に橋本市や九度山町が存在する。
さて、大阪から橋本市を抜け、九度山町に来ると、真田幸村一色になる。
九度山町とは、戦国武将として圧倒的な人気を誇る真田幸村の根拠地なのだ。
だが、真田幸村はこの地の出身ではなく、1567年に信濃国(現在の長野県)で生まれた。
昌幸は武田信玄に仕えていたが、信玄は死亡、さらに跡を継いだ息子の武田勝頼も長篠の合戦で織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、武田家は滅亡した。
絶体絶命となった昌幸、さらに上田城へ逃げ帰る途中に四万の北条軍に遭遇し、もはや万事休すかと思われた。
何しろ真田軍は僅か三百である。
ところが、ここで弱冠15歳の幸村が、
「父上、私に紋の無い旗をお与えください」
と申し出た。
幸村は6本の旗に、北条方の武将・松田尾張守の旗印である永楽通宝の模様を描き、6隊に分かれて北条軍に奇襲をかけたのである。
北条軍は、松田が謀反を起こしたと勘違いして大混乱。
それに乗じて真田軍は何とか上田城へ引き返すことに成功した。
見事な幸村の初陣に父の昌幸は感心し、旗印に六つの文銭を描くように勧めたのである。
しかし、時は戦国時代。
真田一家は奇妙な運命の糸に操られ、1600年に起こった関ケ原の合戦では、昌幸・幸村の親子は故・豊臣秀吉に恩がある西軍の石田三成に、幸村の兄である真田信幸は東軍の徳川家康に就いた。
一家の中で敵味方に分かれてしまったのである。
西軍に就いた昌幸・幸村親子はよく戦い、徳川家康の息子である徳川秀忠を上田城に足止めすることに成功した。
家康が、関ケ原の合戦に間に合わなかった秀忠に対して激怒したのは有名な話である。
しかし、関ケ原の合戦では徳川家康の東軍が勝利し、昌幸・幸村の親子は死罪となるところだった。
だが、長男の信幸が徳川家康に嘆願し、なんとか死罪は免れたのである。
そして、徳川家康が昌幸・幸村に命じたのは「所領の没収、ならびに高野山蟄居」だった。
昌幸・幸村は紀伊国(現在の和歌山県)の高野山に蟄居したものの、やがて妻子との生活を許され、高野山の麓にあった九度山に根を下ろしたのである。
その後、父の昌幸は九度山の地で没したが、幸村は九度山の人々に慕われながら14年間も過ごした。
そんな幸村の元に、運命を一変させる申し出があったのである。
1603年に徳川家康は江戸幕府を開き、間もなく二代将軍の座を息子の秀忠に継がせ、天下を獲った徳川家は我が世を謳歌していた。
しかし関ケ原の合戦以来、没落していた豊臣家が決起し、豊臣秀吉の子である豊臣秀頼が徳川家に反抗することを決意したのだ。
そして、豊臣軍の切り札として白羽の矢が立ったのが真田幸村だったのである。
九度山にやって来た秀頼の使者に対し、幸村は二つ返事で引き受け、14年間も慣れ親しんだ九度山を後にした。
そして決戦の場、大坂城に赴くのである。
1614年の「大坂冬の陣」では、幸村は大坂城の南側に出丸を築き空堀を巡らせ、徳川軍を迎え撃ったのだ。
これが有名な「真田丸」である。
現在でも大阪市天王寺区に空堀町という地名があるが、これは真田丸の空堀が由来だ。
しかし、和睦の条件だった「大坂城の外堀を埋める」はずが、徳川方の謀略によって二の丸・三の丸まで埋められてしまい、大坂城は丸裸になってしまったのである。
豊臣軍が圧倒的不利の中、翌1615年には「大坂夏の陣」が勃発し、それでも幸村は果敢に戦って、徳川家康をあと一歩まで追い詰めた。
家康は死を覚悟したというが、すんでのところで危機を回避し、幸村を退けたのである。
無念の幸村は茶臼山で壮絶な戦死を遂げた。
しかし、幸村の見事な戦いぶりは、狸オヤジと呼ばれた徳川家康をして「敵ながら天晴」と言わしめたのである。
現在の九度山は、武神と謳われた真田幸村の根拠地とは思えないほど、のどかな町だ。
大都会の大阪から車や電車で1時間ほどで着くにもかかわらず、実にノンビリした時間が漂っている。
もし大坂の陣が起こらなければ、真田幸村はここを生涯の地としてゆったりと余生を楽しんだのではないか。
この地には、真田昌幸・幸村の親子が過ごしたという「真田庵」がある。
善名称院とも呼ばれる寺だ。
ひっそりとした寺だが、真田親子に対する地元の人たちの親愛の情が伝わってくる。
真田庵のすぐ近くに幸村庵という、紛らわしい名前の建物がある。
こちらは寺などではなく、古民家を改装したお蕎麦屋さん。
当然、信州そばの本拠地である。
真田幸村は徳川家康によって高野山に飛ばされたのだが、そのおかげで本場の信州そばが紀州にもたらされたのだ。
その意味では、九度山の人は徳川家康に感謝しなければならないのかも知れない。
蕎麦処「幸村庵」。隣りの倉には六文銭の模様がある
中に入ってみると既に満員で、出入り口近くにあるテーブル席しか空いてなかった。
やむなくテーブル席で待っていると、中の座敷席が空いたというので、そちらに移った。
古民家でテーブル席というのは、やはり味気ない。
座敷席と言っても、畳に座るのではなく、椅子があったのだが。
それでも、入り口近くの味気ないテーブル席よりはずっといい。
座敷からは、窓越しに庭園を見ることもできた。
窓越しに見た幸村庵の庭園
本当はざるそばを注文したかったのだが、この日はあまりにも寒すぎた。
よって、暖かいたぬきそばを注文したのである。
ちなみに値段は、たぬきそばで800円。
かけそばやざるそばなら700円。
にしんそばで900円、天ぷらそばで1100円、そばを中心とした様々なおかずが付いた「幸村御膳」なら2100円である。
麺は二八蕎麦で、汁は濃厚な味付けという、いかにも信州そばだった。
関西ではあまり味わえないかも知れない。
でも、かけそばは関西風の薄味らしい。
200円をプラスすれば、名物の柿の葉寿司も付いてくる。
何かを注文すれば、サービスで蕎麦を揚げた物が付いてくるのも嬉しい。
注文した蕎麦を待つ間、それをポリポリ食べることができる。
筆者が注文したたぬきそば。関西なので油揚げが乗っている。汁はかなりコクがあって旨い
無料で付いてくる、蕎麦を揚げた物。香ばしくて実に美味しい
真田庵や幸村庵には駐車場はないが、すぐ近くの道沿いに町営の無料駐車場がある。
車で来られた方は、この駐車場を利用するとよい。
さらに、車で西に走ればすぐ近くには「道の駅・柿の郷くどやま」がある。
ここには「産直市場よってって」があり、地元で採れた野菜や果物が安い値段で売られているのだ。
その名の通り、九度山や橋本は柿の名産地でもある。
特に、秋になれば安くて美味しい柿が売られているので、ぜひとも立ち寄ってみるが良い。
柿と言えば柿の葉寿司。
柿の葉寿司と言えば奈良が有名だが、奈良県と隣接している九度山や橋本もまた、柿の葉寿司の名産地なのだ。
もちろん「道の駅・柿の郷くどやま」にも柿の葉寿司は売られている。
また、和歌山県と言えばミカンの産地としても有名で、「道の駅・柿の郷くどやま」では有田ミカンなどを試食できるコーナーまであるのだ。
真田幸村の地を訪れた方は、ぜひとも「道の駅・柿の郷くどやま」に立ち寄ることをお勧めする。
さらに、国道370号線を西に行くと、世界遺産の慈尊院もある。
慈尊院とは「女人高野」とも呼ばれ、弘法大師(空海)の母君が過ごしていた寺だ。
弘法大師の母君が、我が息子を訪ねて高野山へ行ったものの、高野山は女人禁制という理由で弘法大師は母君の入山を禁じ、母君は泣く泣く麓の慈尊院に隠居したという。
そんな母君の身を案じ、弘法大師は月に九度、慈尊院に通ったことから、この地は「九度山」と呼ばれるようになった。
来年(2016年)の1月10日から、真田幸村を主人公としたNHKの大河ドラマ「真田丸」が放送されるという。
そうなれば、九度山には大勢の人が訪れるだろう。
こんな田舎町に、現在でも幸村庵は満員になるぐらいである。
来年はおそらく、人でごった返すに違いない。
九度山町には、今のうちに訪れることをお勧めする。
今だったら、落ち着いて九度山探索ができるだろう。
【九度山へのルート】
車だったら、大阪方面から国道310号線、もしくは国道170号線で河内長野に入り、国道371号線で橋本に抜け、国道370号線を西に行けば九度山に到達する。