<前回からのつづき>
ラグビー界から引退した1年後の1977年11月29日、原進は国際プロレスに入団した。
当時のプロレス界は、国際プロレスの他にジャイアント馬場率いる全日本プロレスと、アントニオ猪木が発足させた新日本プロレスがしのぎを削る3団体時代。
その頃の国際プロレスは、エースだったストロング小林を新日本プロレスに引き抜かれ(この半年後には若手のホープ剛竜馬も新日本プロレスに引き抜かれる)、さらにテレビ中継も当時は全国ネット網のない東京12チャンネル(現:テレビ東京)と、人気面で他の2団体に大きく水をあけられていたのである。
そんな中で、ラグビー選手として充分な実績を誇る原の入団は、スター不在の国際プロレスにとってまさしく救世主だった。
懸念材料といえば、プロレス転向時の年齢である。
国際プロレスに入門したとき、原は既に30歳10ヵ月だった。
しかも、ラグビーを引退してから1年間のブランクがある。
しかし原は、抜群の身体能力で年齢のハンディをカバーした。
20代前半のレスラーと50m走を競っても、原がダントツで速かったのだ。
走るのが本職ではなかったプロップ(PR)の原は、鍛え抜かれた若手レスラーすら問題にしなかったのである。
実はラグビーを引退してからの原は、母校の東洋大でラグビー部のコーチをしていたので、1年間のブランクも関係なかった。
原のプロレス・デビュー戦は翌1978年6月26日、社会人時代に多くの時間を過ごした大阪の大阪府立体育会館での寺西勇戦だった。
入門して僅か半年という、異例のスピード・デビューである。
それだけ原の身体能力の高さが成せる技だが、国際プロレスの原に対する期待の大きさの現れでもあった。
デビューして間もない7月3日には、早くもカナダ・カルガリーへ海外修行に旅立つ。
その僅か5日後の7月8日には、英連邦ジュニア・ヘビー級のチャンピオンに輝いた。
入門して8ヵ月、デビューして1ヵ月半という超スピードでの初載冠を、なんと敵地でやってのけたのだ。
12月に凱旋帰国した原は、12月27日にラグビー・ファンである作家の野坂昭如からリング・ネームを「阿修羅・原」と命名される。
横文字が多かった当時のリング・ネームで、漢字の名前は野暮ったくも感じられたが、これほど原に似合ったリング・ネームはないだろう。
翌1979年5月6日には、WWU認定世界ジュニア・ヘビー級王座を奪還した。
デビューして1年足らずで、世界チャンピオンにまで登り詰めたのである。
その後、原はジュニア・ヘビー級戦線で戦い続け、2年後にデビューする初代タイガーマスク(佐山聡)の好敵手だったダイナマイト・キッドやマーク・ロコ(初代ブラックタイガー)らにも勝っている。
その頃、レフェリーとして原の試合を裁いていた「20世紀最強の鉄人」ルー・テーズは、
「ハラは本当にデビューして1年ほどなのか?凄い素材だな」
と驚いていたという。
テーズはレスリングができない選手には手厳しいが、アマチュア・レスリング経験のないレスラーを褒めるのは珍しい。
しかし、原の胸中は満たされなかった。
ハッキリ言うと、プロレスのことをとても「スポーツ」とは思えなかったのである。
他の世界で頂点に立ってからプロレスラーに転向した者の多くは、プロレスのことを無意識にでも馬鹿にするものだ。
原とてそれは例外ではなかった。
ラグビーを不完全燃焼のまま引退し、半ばヤケクソのような気持ちでプロレス界に転向して来たのである。
しかも、原の成長と反比例するかのように、国際プロレスの業績は悪化。
ちょうどその頃、全日本プロレスと新日本プロレスの興行戦争が激化し、国際プロレスは板挟みのような状態になって、両団体との差はますます広がったのである。
そして1981年3月いっぱいでテレビ中継は打ち切られ、同年8月の興行を最後に国際プロレスは崩壊した。
国際プロレスの面々は、日本でレスラーを続けるには全日本プロレスか新日本プロレスに移籍するしかなかった。
原はマイティ井上や冬木弘道らと共に、全日本プロレスを主戦場にするようになる。
この時、エースのラッシャー木村やアニマル浜口、寺西勇は新日本プロレスに移った。
もし国際プロレスが存続していれば、原はスターとして育てられてだろうが、プロレス人生の歯車が狂い始めてしまったのである。
それでも、全日本プロレスのリング上で、原は一人の男と運命的な出会いを果たした。
当時「全日本プロレス第三の男」と呼ばれていた天龍源一郎である。
当時はまだフリーだった原は、同年10月2日の後楽園ホールで天龍とシングル戦を行ったあと、その試合がジャイアント馬場に認められて正式に全日本プロレス入団を果たす。
その年の暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦では天龍と組んで出場した。
しかし、優勝戦線からは程遠く、1勝7敗という惨憺たる成績だった。
外国人レスラーの質が落ちていた国際プロレスに比べて、超一流外国人レスラーが中心の全日本プロレスは、原にとって壁があまりにも厚かったのだ。
それでも原は、それ以上のものを得た。
もちろん、天龍のことだ。
ラガーマンだった頃の原にとって大切な存在だったのが大西鐡之祐だとすれば、プロレスラー・原にとっての天龍はかけがえのない盟友だった。
しかしそうなるのは、後のことである。
天龍にとっても原は特別な存在だった。
大相撲で前頭筆頭まで登り詰めながら挫折してしまった天龍にとって、違う世界(ラグビー)で頂点を極めながら都落ちのようにプロレスラーとなった原は、同じ穴のムジナのように感じたのである。
天龍もプロレスの世界に馴染めず、伸び悩んでいた。
しかし、この時の原は生まれ育った団体を失った家なき子、全日本プロレスでは外様として扱われるのは目に見えていた。
全日本プロレス生え抜きの天龍とは、明らかに立場が違っていたのである。
この頃の天龍は「第三の男」などとカッコ良く呼ばれていたが、要は三番手だ。
ジャイアント馬場の後を継ぐ次期エースと目されていた、一つ歳下のジャンボ鶴田には明らかに遅れを取っており、しかもタイガー戸口が新日本プロレスに引き抜かれたため、天龍が自動的に繰り上がったようなものだった。
それでも会社は天龍を育てようと、それまで鶴田が保持していたユナイテッド・ナショナル(UN)のヘビー級王座を空位にし、天龍をチャンピオンに仕立て上げたのである(鶴田はUNより格上のインターナショナル・ヘビー級チャンピオンとなった)。
しかも、当時は世界最高峰と言われたNWA世界ヘビー級のチャンピオン、リック・フレアーに挑戦するというビッグ・チャンスを、天龍は与えられたこともあったのだ。
自分とは全く扱いが違う天龍を、原は複雑な思いで見ていた。
翌1982年1月15日の木更津市倉方スポーツセンターでは、新日本プロレスから引き抜いた超人気レスラーであるスタン・ハンセンの、全日本プロレスでの第一戦を迎えていた。
その相手として白羽の矢が立ったのが、他ならぬ原である。
試合はハンセンの一方的なペースで、ハンセンの必殺技ウエスタン・ラリアットが火を噴き、僅か2分25秒で原は轟沈した。
原は頚椎を捻挫して翌日の試合は欠場を余儀なくされるほど、ハンセンの強さが目立った試合だったのだ。
しかし原にとって、評価を下げる試合ではなかった。
なぜなら、ハンセンの強さを印象づけるのに、原は最適な相手だったからである。
ハンセンはこの試合について、
「オール・ジャパンでの初戦の相手だったハラは完璧なレスラーだった。私のタックルやラリアットを真正面から受けることができるレスラーは、ザラにはいまい。相手がハラだったからこそ、短い試合で全てを凝縮した、最高の試合となったのだ」
と語っている。
ラグビーで鍛え、世界の名ラガーマンと体をぶつけてきた原だからこそ、ハンセンの相手が務まったのだ。
2年後の1984年4月11日、大分県荷揚町体育館で天龍が保持するUNヘビー級王座に挑戦するも引き分け。
タイトルマッチとはいえ、田舎の会場だったので観客はガラガラ、テレビ中継もなし。
しかもチャンピオンになれなかったという、歴史に埋もれてしまうような試合だ。
にも関わらず、この日のファイトは原にとって後に大きな意味を持つことになる。
だが、原が天龍とタッグを組む機会は激減した。
ジャイアント馬場とジャンボ鶴田の師弟コンビを解体し、今後はインター王者の鶴田とUN王者の天龍という同年代の「鶴龍コンビ」で売り出そうとしたからである。
それは鶴田に新エースとしての自覚を促す措置であり、全日本プロレスにとって目玉となるタッグ・チームの誕生だった。
そんな天龍を見る原の心境は、いかばかりだっただろう。
同年10月、精神的な問題を抱えていた原は、突然消息を絶つ。
阿修羅・原の名前がプロレス界から消えた。
原が再びリング上に姿を現すのは翌1985年4月のことである。
この頃のプロレス界は、状況が一変していた。
前年にライバル団体の新日本プロレスでクーデターが勃発、超人気レスラーとなっていた長州力がジャパン・プロレスを設立し、新日本プロレスを離れてこの年の1月から全日本プロレスを主戦場としたのである。
1985年の全日本プロレスは、全日軍×ジャパン軍の抗争が大きな注目を集めていた。
特に天龍と長州のライバル関係が、全日マットを熱くしていたのである。
同年4月3日の山形県体育館、長州力×石川敬士の試合で原が突如乱入、場内は騒然となった。
原は長州を血祭りに上げ、長州への挑戦をアピールしたのである。
4月24日、横浜文化体育館では久しぶりに天龍とタッグを組み、長州力&アニマル浜口組と対戦する。
しかしこのタッグ・マッチで、原は天龍と突然の仲間割れ。
天龍を椅子で叩き付けたあと、原は「俺は独りで戦う!」と宣言した。
この頃から原は「ヒットマン」と呼ばれるようになる。
その後、原はラッシャー木村ら旧・国際プロレス勢による国際血盟軍に加わることになる。
しかし、一匹狼として戦うはずだった原のこの行動には疑問符が付き、中途半端な印象があったことは否めない。
それでも、ハンセンのウエスタン・ラリアットを真正面から体で受け続けた感覚を活かし、必殺技となるヒットマン・ラリアットを開発するなど、この期間に原のファイトは確立されていった。
しかし1987年、今度は全日本プロレスに激震が走る。
長州らジャパン・プロレスの主力メンバーが、谷津嘉章を除いて全日本プロレスを離脱、新日本プロレスにUターンした。
激震のあとに残ったのは、全日本プロレスの無風状態。
特に長州力という最大のライバルを失った天龍は意欲を失うと共に、非常な危機感を抱いた。
元々は「ぬるま湯体質」と呼ばれた全日本プロレスが、長州らが来たことによって激しいファイトになったのに、また元の木阿弥に戻ってしまう。
天龍の落ち込みようは激しかった。
そんな天龍に声を掛けたのが原だった。
「源ちゃん、最近元気ないよ……」
原は三つ歳下の天龍のことを「源ちゃん」と呼び、天龍は原のことを「阿修羅」と呼んでいた。
かつての仲間割れしたわだかまりは、既になくなっている。
「源ちゃんが何かやる気だったら、俺も協力するよ。源ちゃんが燃えてくれなきゃ、俺も目標を失ってしまう」
と、原は続けた。
この時、天龍の腹が決まった。
「阿修羅と組ませてください!」
天龍はジャイアント馬場にそう直訴した。
当時の全日本プロレスでは、馬場の承認なしに勝手な行動は起こせない。
天龍は、タッグを組むなら全日本プロレス生え抜きの選手よりも、外様の原の方がカラーを出せると考えたのだ。
秩序を重んじる馬場の心中は定かではないが、ともかくOKを出した。
原と天龍はじっくり話し合い、そして原が言った。
「ラグビーをやっていた頃、無心でボールを追っていた試合が一度だけあった。プロレスラーになって、同じような感覚にとらわれたのが、源ちゃんとのあの大分での試合なんだ。もう一度、あの感覚を味わいたい。もう俺も時間がないし、これからは源ちゃんと組みながら競い合っていくという方法もあると思う」
原が言う「ラグビーで無心になれた試合」というのは、あの秩父宮ラグビー場でのイングランド戦である。
そして天龍との大分での試合とは、ガラガラの観客の中で戦ったUN戦のことだった。
以前は「スポーツとは思えない」と半ば自虐していたプロレスで、天龍との試合だけは夢中になれたのだ。
天龍と組めば、プロレスは決して馬鹿にされるようなものにはならない。
原と天龍はガッチリと握手を交わした。
天龍は報道陣の前で宣言した。
「俺と阿修羅で、全日マットを熱く活性化させてやる。そして俺たちの最終目標は、新日本プロレスのリングに上がることだ!」
こうして、原と天龍によるたった二人の革命がスタートした。
それは、全日本プロレスのみならず、日本プロレス界の風景を激変させる、長い長い旅の第一歩だった――。
<つづく>
■文中敬称略