メジャー・リーグ・ベースボール(MLB)編②
ナショナル・リーグ(8球団:1876年-)~現在(15球団)
アメリカン・アソシエーション(6球団:1882年-1891年)~消滅(最大12球団)
ユニオン・アソシエーション(12球団:1884年)~消滅
プレイヤーズ・リーグ(8球団:1890年)~消滅
アメリカン・リーグ(8球団:1901年-)~現在(15球団)
フェデラル・リーグ(8球団:1914年-1915年)~消滅
アメリカには過去にメジャー・リーグを名乗る組織が6つあったということは前回に述べた。
しかし、多くのリーグは淘汰され、現在のメジャー・リーグ・ベースボール(MLB)はナショナル・リーグとアメリカン・リーグの2リーグになっているのは周知の通り。
1901年に二大リーグ制になって以降のMLBには「消えた球団」は1つもない。
しかし、本拠地移転は頻繁にあって、その度に球団名も代わったりしているので、奇妙な点も結構多いのだ。
今回はそんなMLB球団を紹介していこう。
なんだ、今でもある球団じゃん、などと言うなかれ。
こちらのボルチモア・オリオールズは、アメリカン・リーグが発足した1901年に創設された球団であり、現存する同名球団とは別組織だ。
ちなみに、それ以前には1882年に創立された同名球団があり、このボルチモア・オリオールズはアメリカン・アソシエーションに所属していた。
しかし、アメリカン・アソシエーションは1991年を最後に解体され、その後はナショナル・リーグに所属することになったが、1899年に解散している。
即ち、今回紹介するボルチモア・オリオールズは二代目だ。
さて、二代目ボルチモア・オリオールズは創立してから僅か2年後の1903年にはニューヨークに移転、ニューヨーク・ハイランダーズとなった。
翌1904年にニューヨーク・ハイランダーズはア・リーグで優勝争いを演じたが、ナ・リーグの覇者ニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)は「マイナー球団とは戦えない」とワールド・シリーズでの対戦を拒否。
実際にア・リーグを制したのはボストン・アメリカンズ(現:ボストン・レッドソックス)だったが、やはりワールド・シリーズは行われなかった。
当時はまだワールド・シリーズがルール化されてなかったので、こんなワガママが通ったのだ。
と同時に、当時のナ・リーグが、後発リーグであるア・リーグを見下していたことがわかる。
この年のことを反省し、翌1905年から両リーグを統括するナショナル・コミッションがワールド・シリーズを管轄することになり、このようなことが起こることはなくなった。
従って、ワールド・シリーズが行われなかったのはこの年と、90年後のストライキが起きた1994年の2回のみである。
同じニューヨークを本拠地とするハイランダーズとジャイアンツは、商売敵ということもあって反目する仲だったが、1911年にジャイアンツの本拠地であるポロ・グラウンズが火事で焼失すると、ハイランダーズが本拠地のヒルトップ・パークを貸し出し、ジャイアンツの危機を救った。
それ以来、両球団の間には友好ムードが生まれ、1913年からは新装なったポロ・グラウンズをジャイアンツとハイランダーズで共有するようになる。
日本で言えば、読売ジャイアンツと日本ハム・ファイターズが共に後楽園球場や東京ドームを本拠地球場としていたようなものだ。
ポロ・グラウンズを本拠地とすると、もう「ハイランダーズ」と呼ぶ理由がなくなった。
元々この愛称は、マンハッタンで一番高い丘であるワシントン・ハイツに本拠地球場があったために付いたもので(だからこの球場はヒルトップ・パークと呼ばれた)、ポロ・グラウンズではこのチーム名は似合わない。
実はこのハイランダーズ、ライバルのボストン・アメリカンズに対して、北東アメリカ白人を意味する「ヤンキース」とマスコミでは呼ばれていた。
そのため、球場移転した1913年からニューヨーク・ハイランダーズはニューヨーク・ヤンキースと改称する。
そう、二代目ボルチモア・オリオールズとは後のニューヨーク・ヤンキースのことだったのだ。
なお、ニューヨーク・ヤンキースが「ベーブ・ルースが建てた家」ことブロンクスのヤンキー・スタジアムに移転するのは10年後の1923年のことである。
現在ではニューヨーク・ヤンキースとボルチモア・オリオールズは、同じア・リーグ東地区のライバルとなった。
ある意味、ニューヨーク・ヤンキースはナ・リーグの老舗球団に比べると新興球団だが、現在ではMLB最高の名門球団となっている。
NPBでは現存する最古の球団であり、しかも球界の盟主となっている読売ジャイアンツとは対照的だ。
これも同名球団が現存しているが、やはりアメリカン・リーグの創設時に加盟した1901年創立の球団である。
このミルウォーキー・ブルワーズも初代ではなく、最初の球団は1891年に1年間だけ存在したアメリカン・アソシエーション所属球団だった。
二代目は1884年にユニオン・アソシエーションで1年間だけ活動し、翌1885年はマイナー・リーグに移管したが1年間で消滅している。
三代目が今回紹介する球団で、四代目は1902年~1952年までマイナ・リーグの球団だ。
つまり、三代目ミルウォーキー・ブルワーズがこのチーム名だったのは1年だけで、翌1902年にはセントルイスに移転し、セントルイス・ブラウンズと改称している。
しかし、セントルイスには老舗球団であるナショナル・リーグのセントルイス・カージナルスがあったため、人気は常に後塵を拝していた。
そして第二次世界大戦後の1954年、セントルイス・ブラウンズは本拠地移転を決意する。
1903年にナショナル・コミッションが設立されて以来、ア・リーグで都市間での本拠地移転が行われたのは初めてだった。
移転先はボルチモア。
新球団名はボルチモア・オリオールズである。
なんと、ミルウォーキー・ブルワーズはボルチモア・オリオールズになってしまったのだ。
上記の「ボルチモア・オリオールズ」の項も合わせて見ればわかるように、ボルチモア・オリオールズがニューヨーク・ヤンキースになり、ミルウォーキー・ブルワーズがボルチモア・オリオールズになり、そしてミルウォーキー・ブルワーズも現存している。
ややこしいことこの上ない。
なお、現存する五代目ミルウォーキー・ブルワーズの前身球団は、1969年に設立されたア・リーグ所属のシアトル・パイロッツであり、翌1970年には早くも本拠地移転してミルウォーキー・ブルワーズとなった。
そして1997年には球団拡張(エクスパンション)により、ナ・リーグに移管している。
つまりアメリカにとって最重要都市にもにもかかわらず、メジャー球団には何度も逃げられた過去がある。
ここで紹介するのは二つのワシントン・セネタースだ。
1901年、アメリカン・リーグ創設と同時にワシントン・セネタースが発足した。
これには裏があって、僅か2年前にはワシントンD.C.にナショナル・リーグ所属の同名球団が存在したのだ。
こちらが初代ワシントン・セネタースで、球団発足は1891年、当時はアメリカン・アソシエーションに所属し球団名はワシントン・ステイツメンだったが、同リーグがその年に崩壊すると、翌1892年からナ・リーグ所属となり、球団名もワシントン・セネタースと改める。
しかし、1899年にはナ・リーグのリーグ縮小策によりワシントン・セネタースは削減対象になって、解散を余儀なくされた。
ところが、中西部のマイナー・リーグに過ぎなかったウエスタン・リーグがこれをチャンスと見て、球団がなくなったワシントンD.C.に新球団を設立、さらにリーグ全体をアメリカ東部に移し、アメリカン・リーグと改称して1901年にメジャー・リーグ宣言した。
この時に誕生したのが二代目ワシントン・セネタースである。
しかし、二代目ワシントン・セネタースは弱いチームで、強豪球団となっていたニューヨーク・ヤンキースにはいつも苛められていた。
そのため、生まれたのが「くたばれ!ヤンキース」というブロードウェイ・ミュージカルで、弱かった頃の二代目ワシントン・セネタースが題材となっている。
チームは弱く観客減に歯止めがかからず、球団創立60年目にして遂に本拠地移転を決断する。
1961年、ミネアポリス近郊に移転した球団名は、現在も続くミネソタ・ツインズとなった。
なお、州名を球団名にしたのはミネソタ・ツインズが初めてである。
これで首府ワシントンD.C.から野球が消えた……、とはならなかったのだからMLBは面白い。
二代目ワシントン・セネタースがミネソタに移転した同じ年の1961年、新球団として三代目ワシントン・セネタースが誕生する。
なんとワシントンD.C.市民は、前年までとは全く違う球団を応援するハメになったのだ。
しかもチーム名は全く同じなのだからややこしい。
それでも地元住民は、球団企業そのものではなく、地元球団を応援したいのだろう。
この年のア・リーグは、MLBが二大リーグ制になってから初めての球団拡張(エクスパンション)を行い、それまでの8球団制から2球団増えて10球団制になったのだ。
だったら最初からミネアポリスに新球団を作ればいいだけの話だったのだが、二代目ワシントン・セネタースのオーナーは、本拠地移転以外に経営再建の道なしと考えたのだろう。
こうしてワシントンD.C.から球団が消えたかに思われたが、球団存続を望む市民の要望は強く、新球団として三代目ワシントン・セネタースが設立されたわけだ。
しかし、三代目ワシントン・セネタースは長くは続かなかった。
チームの弱さは相変わらずで、初年度から4年連続で100敗以上という体たらく。
当然、観客動員もままならず、チーム結成から僅か10年で球団移転せざるを得なかった。
1972年、三代目ワシントン・セネタースはアーリントンに移転した。
球団名は、現在も続くテキサス・レンジャーズとなったのである。
元はワシントン・セネタースだった球団が、いずれも本拠地移転して州名を球団名にしたのは何かの因縁か。
二度までもMLB球団に逃げられたワシントンD.C.は、2005年にワシントン・ナショナルズ(ナ・リーグ)が誕生するまでの33年間、MLB空白都市となってしまったのである。
現在、アメリカにMLB球団はいくつあるか?という問いに対して、多くの人は「30球団」と答えるだろう。
しかし、これは間違いだ。
なぜなら、クイズ冒頭の「アメリカに」という言葉が曲者で、MLBはたしかに30球団だが、アメリカ国内だと29球団になってしまう。
つまり、アメリカ国外のカナダにトロント・ブルージェイズがあるので、正解は「29球団」となる。
ところで、トロント・ブルージェイズがカナダ初のMLB球団ではない。
カナダ初、そしてアメリカ国外初のMLB球団は、1969年に発足したモントリオール・エクスポズだ。
この年は大幅なエクスパンションが行われ、ナショナル・リーグ、アメリカン・リーグ共に2球団ずつ、即ちMLBとして4球団も一気に増えたのである(モントリオール・エクスポズはナ・リーグに所属)。
アメリカ国内に留まっていたMLBは、いよいよ国際的な野球組織になったのだ。
ちなみに、この年の7月にはアメリカのアポロ11号が月面に着陸、史上初めて人類が地球以外の星に降り立っている。
だが、モントリオールといえばフランス語圏の都市、さらにアイスホッケー(NHL)の人気が高くて野球は隅に追いやられ、モントリオール・エクスポズの観客動員は頭打ちとなった。
一度もリーグ優勝を果たせぬまま経営は悪化し、2001年オフに球団削減対象となり、2002年には遂にオーナー不在となってしまう。
エクスパンションを続けてきたMLBが、縮小の方向に向かうのかと思われた。
日本プロ野球(NPB)ならサッサと他球団との合併を企てるだろうが、ここでMLBはウルトラCを出した。
なんとMLB機構が、モントリオール・エクスポズを所有することになったのである。
しかし経営状態は好転せず、これ以上モントリオールで球団を維持するのは困難な状況に追い込まれた。
ところが、モントリオール・エクスポズを引き取ろうという都市が現れた。
ワシントンD.C.はワシントン・セネタース(現:テキサス・レンジャーズ)に逃げられて以来33年間、MLB球団を持たなかったが、市民は野球を熱望していた。
そして2005年、モントリオール・エクスポズの球団移転が成立し、ワシントン・ナショナルズが誕生する。
セネタース(上院議員)といいナショナルズ(国)といい、さすがに政治都市ワシントンD.C.らしいネーミングだ。
なお、過去にワシントン・ナショナルズと名乗った球団は1872年(NAPBBP)、1875年(NAPBBP)、1884年(アメリカン・アソシエーション)、1884年(ユニオン・アソシエーション)、1886年~1889年(ナ・リーグ)と5つもあり、現存するワシントン・ナショナルズは六代目ということになる。
特に1884年などは、リーグが違うとは言え2つの同名球団があったのだから、当時のアメリカのプロ野球がいかに無秩序だったかがわかるだろう。
ワシントン・セネタースもこれまで3球団あり、他にもワシントンD.C.には球団があったのだから、6つのワシントン・ナショナルズと合わせると、ワシントンD.C.にはいかに多くの球団が入れ代わり立ち代わりしていたことか。
さて、21世紀になってやっとMLB球団を取り戻したワシントンD.C.だが、その喜びが大きかったのかワシントン・ナショナルズはモントリオール時代に比べると大幅に観客動員をアップさせた。
移転当初はエクスポズと同じくMLB機構が所有していたが、経営が軌道に乗り始めるとようやく買い手が見つかり、2006年にはワシントン・ナショナルズにオーナーが就任することになる。
晩年はオーナー不在となり、そのまま移転してしまったモントリオール・エクスポズは、ある意味「消えた球団」と言えるかも知れない。
なお、2001年オフに球団削減対象となったのはモントリオール・エクスポズだけではなく、ミネソタ・ツインズも候補に上がっていた。
そう、元はワシントン・セネタース(二代目)だった球団である。
ワシントンD.C.から移転した球団が削減対象候補となり、もう一つの削減対象球団がワシントンD.C.に移転する――。
世の中のなんと不条理なことか。
しかしミネソタ・ツインズの方は、削減はもちろん移転すらせず、なんとか経営を持ち直して現在に至っている。
ニューヨーク市にあるブルックリン区は、全米でも最も野球熱の高い土地と言われる。
それもそのはず、このブルックリンは、ベースボールの黎明期に大きく関わっているのだ。
アメリカにベースボールが誕生したのは1845年、ニューヨークのマンハッタンが発祥の地とされる。
その3年前、1842年にアレクサンダー・カートライトという人物がマンハッタンにニッカーボッカーズというチームを結成した。
ニッカーボッカーズは、ベースボールの原型とされるタウンボールというスポーツを行うチームである。
しかし、タウンボールとはスポーツというより、子供の遊びに毛が生えたようなもので、元々はイギリスで行われているラウンダーズという遊びだった。
大の大人が集まったクラブなのだから、いつまでも遊びというわけにはいかず、カートライトを中心にちゃんとしたルールを制定したのが1845年、ここにベースボールの基礎が出来上がったのである。
しかし、マンハッタンは急速に都市化が進んだために広い場所がなくなり、ニッカーボッカーズはハドソン川を挟んだ対岸にあったニュージャージー州のホーボーケンに移転した。
そして1846年、史上初めてベースボールの試合がホーボーケンで行われたのである。
ベースボールは瞬く間に、ニューヨーク近郊に広まった。
当時はまだニューヨーク市の一部ではなかったとはいえ、ブルックリン市も例外ではなかったのである。
イギリスからの移民者はクリケットを嗜んでいたが、イギリス以外の移民労働者が多かったブルックリンではベースボールが愛好された。
ブルックリンの労働者にとって、イギリスが生んだ上品なクリケットよりも、新興国のアメリカで生まれた大衆的なベースボールの方が親しみやすかったのである。
そんなブルックリンにプロ球団が現れるのは歴史的必然だった。
1870年、史上初のプロ球団であり、84連勝とも言われる大型連勝中だったシンシナティ・レッドストッキングスに初めて土を付けたのは、ブルックリンにあったアトランティック・ベースボール・クラブである。
1884年、アメリカン・アソシエーションに所属するブルックリン・アトランティックスという球団が誕生した。
その後、ブルックリン・グレイス、ブルックリン・ブライドグルームスなどと改称したが、1890年からはより安定した基盤のナショナル・リーグにちゃっかり鞍替え。
翌1891年、アメリカン・アソシエーションは崩壊したのだから、この移籍は大正解だった。
1898年にブルックリン市はニューヨーク市に併合されたものの、ブルックリンのチーム名はそのまま残り、1899年にブルックリン・スーパーバスと改称。
1900年、ナ・リーグの球団削減策によって誕生したクラシック・エイトの一員となった。
1901年にはアメリカン・リーグが発足して、二大リーグ時代が始まる。
1911年にはブルックリン・トロリードジャースとチーム名を変えた。
トロリーとは路面電車のことで、ドジャースは「避ける人」という意味。
当時のブルックリンは狭い路地を路面電車が我が物顔で走っており、住民はそれを避けて歩く必要があった。
ドジャース(Dodgers)の原型のドッジ(dodge)とは、ドッジボール(dodgeball)の、あのドッジである。
1913年にはブルックリン・ドジャースと改称する。
これではただの「避ける人」で、まるで弱虫みたいだが、トロリードジャースでは長すぎたのだろう。
この年は重要な年でもあった。
本拠地球場となるエベッツ・フィールドが完成したのである。
以降、エベッツ・フィールドはブルックリン住民に長らく親しまれることになった。
翌1914年、ドジャースの名称は1年で終わり、ブルックリン・ロビンスと名前を変える。
1932年には再びブルックリン・ドジャースに名称を戻し、ドジャースは「避ける人」が集うブルックリンにとっての象徴となる。
時代は下って第二次世界大戦後の1947年、ブルックリン・ドジャースはMLBに大革命を起こした。
1901年に二大リーグ制になって以来、MLB球団で初めて黒人選手を入団させたのである。
その黒人選手の名はジャッキー・ロビンソン。
人種差別が残る当時のMLBは白人だけの世界で、黒人たちはニグロ・リーグ(ニグロ・ナショナル・リーグとニグロ・アメリカン・リーグの2リーグ制)でプレーしていた。
しかし、そのレベルは恐ろしく高く、実力ではMLBを上回っていただろうと言われる。
伝説の名投手サチェル・ペイジや「黒いベーブ・ルース」と言われたジョシュ・ギブソンなど、MLBに移籍すれば大活躍間違いなしという逸材の宝庫だった。
実力ある黒人選手を獲得すれば優勝を望めるというだけでなく、ブルックリンには黒人も多くいるので、彼らを球場に呼び込めば大きなビジネスチャンスになる、と考えたのだ。
しかし、ドジャースのゼネラル・マネージャーだったブランチ・リッキーは、ニグロ・リーグの大スターではなく、無名の若者だったジャッキー・ロビンソンに白羽の矢を立てたのである。
理由は、プライドの高い大スターだとMLBで巻き起こるだろう人種差別に耐えられないか、反乱を起こすことが考えられたためだ。
そこで、たとえ無名でも実力はもちろん、人格に優れた若者を選んだのである。
ちなみに、ジャッキー・ロビンソンを推薦したのは、当時ドジャースのスカウトだったジョージ・シスラーだ。
この名前を聞いてピンと来る人もいるだろうが、2004年に当時シアトル・マリナーズのイチロー(鈴木一朗)に破られるまで、年間最多安打の記録保持者だった男である。
メジャーに昇格したジャッキー・ロビンソンは人種差別に耐えながら大活躍を続け、新人王を獲得すると共にドジャースの優勝に貢献したのだ。
ジャッキー・ロビンソンの活躍は他球団にも影響を与え、我先にと黒人選手を積極的に獲得し、ブルックリン・ドジャースはMLBにあったカラー・バリアを見事に打ち破ったのである。
その反面、かつては栄華を誇ったニグロ・リーグはスター選手を失い、1960年には完全に消滅した。
サチェル・ペイジも後にメジャー入りしたが、ジョシュ・ギブソンはジャッキー・ロビンソンが自分より先にメジャー・リーガーになったことにショックを受け、その年に酒浸りにより35歳の若さで死亡する。
なお、ジャッキー・ロビンソンの背番号42は現在、MLB全球団の永久欠番となっている。
ブルックリン・ドジャースは、さらにもう一つの革命を仕掛けた。
戦後になってアメリカは本格的な航空旅客機時代に入り、長距離の移動も可能になった。
さらに、本拠地のエベッツ・フィールドが老朽化し、駐車場も手狭になったこともあって、新球場の建設をニューヨーク市に打診していたのだ。
しかしニューヨーク市側はこれに応えず、それならば狭いブルックリン地区にいる必要はないと、オーナーのウォルター・オマリーは大胆な本拠地移転を模索した。
そして1958年、ブルックリン・ドジャースは西海岸に移転し、現在も続くロサンゼルス・ドジャースとして生まれ変わった。
アメリカ東部に集中してたMLBに、初めて西海岸に球団が誕生したのである。
この際、1球団だけ西海岸にあったのでは移動が大変だと考え、同じナ・リーグでしかもニューヨークにあったニューヨーク・ジャイアンツを誘った。
ジャイアンツはロサンゼルスと同じカリフォルニア州のサンフランシスコに移転し、サンフランシスコ・ジャイアンツとなって現在に至っている。
こうして、3球団あったニューヨーク市は2球団も一気に失い、全米一の大都市ニューヨークはア・リーグのニューヨーク・ヤンキースただ1球団だけになってしまった。
ニューヨークに新たな球団が出来るのはそれから4年後の1962年、ナ・リーグにニューヨーク・メッツが発足した時である。
ところで、なぜロサンゼルスでも「ドジャース」と名乗り続けたのかは不明だが、ブルックリン時代の思い出だけは消せなかったのかも知れない。
今やロサンゼルス・ドジャースは人気球団となり、移転は大成功だったと言えるが、その反面ベースボール第二の故郷とも言えるブルックリンから野球が消えてしまった。
今ではニューヨーク市の一部になっているとはいえ、ブルックリン住民はニューヨーク・ヤンキースを応援する気にはなれないだろう。
そのため、ブルックリンの人たちは未だにドジャース移転を実行したウォルター・オマリーのことを「ヒトラー、スターリンと並ぶ、20世紀の三大悪人」と呼んでいる。
日本で言えば1979年、埼玉県所沢市に移転し、ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)を失った福岡の人たちのような心境か。
福岡には10年後の1989年に福岡ダイエー・ホークス(現:福岡ソフトバンク・ホークス)がやってきたが、ブルックリンには2015年現在で57年間もMLB球団はない。
同じニューヨーク市と言っても元々は別の市で、ヤンキースがあるブロンクスや、メッツのクイーンズとは明らかに違う。
映画「フィールド・オブ・ドリームズ」に登場する黒人作家のテレンス・マンは、若い頃にエベッツ・フィールドがなくなったことを悲しんでいた。
ブルックリン住民にとって、ブルックリン・ドジャースは間違いなく「消えた球団」と言えるだろう。
今回はMLB版「消えた球団」を紹介したが、球団移転等に関することは、日米球団変遷史を参照していただきたい。
(完)