サンテレビボックス席の阪神タイガース戦中継が3000全試合に達した。
サンテレビとは兵庫県にある独立地上波テレビ局で(大阪府でも視聴可能)、兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場を本拠地とする阪神戦を中心とするプロ野球中継を売り物にしている。
阪神戦だけでなく、かつての阪急ブレーブスや現在のオリックス・バファローズの中継もあるが、地上波には珍しい「試合開始から試合終了までノーカットの完全中継」がモットーだ。
1969年から始まったサンテレビボックス席の阪神戦中継は今年(2013年)の4月25日、ナゴヤドームでの中日ドラゴンズ戦で3000試合を迎え、29日にその記念番組を放送した。
記念番組では阪神戦の名場面が流れたが、意外なことに1985年4月17日の「バックスクリーン3連発」と、同年10月16日の「21年ぶり優勝試合」のVTRは残っていなかった。
なぜなら、この年の4月17日と10月16日は水曜日だったからである。
現在でもそうだが、一部のビジターゲームを除いてサンテレビに阪神戦の放映権はない。
水曜日と日曜日における阪神主催ゲームの放映権は朝日放送(ABC)が持っていて、4月17日の甲子園での「バックスクリーン3連発」はABCが放送した。
ABCの植草貞夫アナの「こ~れも行くのか!?」というアナウンスは名実況として残っている。
現在ならABCとサンテレビのリレー中継を行うところだが、当時の読売ジャイアンツ戦はテレビ朝日系列の全国ネット「ゴールデンナイター」として放送していたから、さすがのサンテレビも手出しできなかった。
なお、水曜日や日曜日の阪神主催ゲームでも、ABC制作ながらサンテレビで放送するようになったのはこの年からである。
21年ぶりの優勝を決めた10月16日は明治神宮球場でのヤクルト・スワローズ主催ゲームで、フジテレビが放映権を持っていた。
当然、フジテレビ系列で全国中継され、サンテレビは21年ぶり優勝、というよりも、サンテレビ開局以来初めての優勝を中継できなかった。
サンテレビボックス席の関係者は、さぞかし無念だっただろう。
なお、サンテレビでは優勝を決めた翌日の神宮でのゲームを放送している。
さて、前置きが長くなったが、阪神史上最強のクリーンアップ・トリオとは?という問いに、この85年の打線を挙げない人はいないだろう。
即ち、三番ランディ・バース、四番・掛布雅之、五番・岡田彰布である。
4月17日にはバックスクリーン3連発を放ち、「ダメ虎」と言われ続けたチームを一気に優勝戦線へ押し上げた。
そして21年ぶりの優勝を決める試合でも、バースと掛布がホームランを放ち、岡田も9回に同点に追い付くきっかけとなる二塁打を打っている。
阪神史上最強というよりも、日本プロ野球史上最強のクリーンアップ・トリオと言っても過言ではない。
ところで、この年より3年前、即ち1982年10月16日の阪神は、どんなクリーンアップ・トリオを組んでいたかご存知だろうか。
この頃にはまだバースはいなかったものの、掛布はこの年に本塁打王と打点王の二冠王に輝き、岡田はプロ入り初の3割をマークしている。
つまり、3年後の「最強のクリーンアップ・トリオ」の土台が出来つつあった。
ところが、1982年10月16日のクリーンアップ・トリオを見て、我が目を疑った。
というクリーンアップ・トリオである。
平田と吉竹は85年のV1メンバーでもあり、阪神ファンなら知っているだろうが、それでもクリーンアップ・トリオを任されるような選手ではない。
ハッキリ言って、いずれも打撃では期待されていない守備の人である。
ましてやこの年、平田も吉竹もレギュラーではなかった。
さらに、四番の藤倉って誰だ?
よほどのトラキチでなければ、フジクラなんて名前は知らないだろう。
僕が憶えている藤倉といえば、ジュニア・オールスター戦(現在のフレッシュ・オールスター戦で、要するに二軍のオールスター戦。ファームで「スター」というのもヘンであるが)でサヨナラヒットを放ち、MVPの100万円を手にしたこと(調べてみると、前年の1981年のことだった)ぐらいである。
あ、もう一つあった。
ドラフト外入団でありながら、背番号3という一桁番号をもらっていたこと。
いや、それだけならどうってことないのだが、要するに阪神球団における、
「江川卓の次に背番号3を背負った選手」
ということだ。
1978年のオフシーズン、江川は「空白の一日事件」を起こし、翌年に巨人にゴリ押し入団した際、1日だけ阪神に入団したのだが、その時に江川に充てがわれた背番号が「3」だったのである。
江川がたった1日だけ付けた背番号3が、翌年にはドラフト外入団の藤倉に受け継がれたのだ。
当時の阪神にとって背番号「3」は、あまりいい番号ではなかったのかも知れない。
と言っても、この日のスターティング・メンバーが平田、藤倉、吉竹というクリーンアップ・トリオだったわけではない。
スタメンでは三番・佐野仙好、四番・掛布雅之、五番・吉竹春樹であり、既に3割を確定していた岡田は欠場していた(この年の岡田の打率は3割ジャスト)。
ベテランの佐野と、2年連続全試合出場(当時は130試合制)を果たした掛布は序盤早々にお役御免とベンチに引っ込み、三番・平田、四番・藤倉、五番・吉竹というクリーンアップ・トリオが形成されたわけだ。
先発メンバーではないとはいえ、試合序盤早々にこのクリーンアップ・トリオが形成されたのだから、「試合終盤に選手交代により、、偶然できあがったクリーンアップ・トリオ」とは言えないだろう。
この試合が行われたのは、広島市民球場での広島東洋カープ戦の第26回戦。
阪神にとっても、広島にとってもシーズン最終戦だった。
既に阪神の3位と広島の4位は確定しており、要するに消化試合である。
これがAクラスが懸かった試合とか、甲子園での最終ゲームだったら(3割ジャストの岡田は別として)ベストメンバーを組んだだろうし、二冠王が確定していた掛布も序盤早々に引っ込みはしないだろう。
しかし、敵地での消化試合ということで、阪神は二軍クラス主体の明らかなメンバー落としをした。
「二番・引間克幸、五番・吉竹春樹、六番・北村照文、七番・田中昌宏、八番・渡辺長助、九番(先発投手)・大町定夫」
という、松村邦洋のような超ド級トラキチでなければ知らない名前が並んでいる。
今の阪神ファンでせいぜい知っているといえば、吉竹と北村ぐらいか。
そもそも、スタメンで五番・吉竹というのがファンをナメきっている。
試合序盤早々に、三番の佐野は平田と、四番の掛布は藤倉と交代した。
そして、この三番・平田、四番・藤倉、五番・吉竹というクリーンアップ・トリオが伝説を生んだ。
5回表に登板した広島のリリーフ投手、渡辺秀武のワンマンショーが始まったのである。
渡辺は三番の平田と四番の藤倉に対し、徹底的な内角攻めをした。
そして、平田と藤倉を打ち取った。
だがなぜか、マウンド上の渡辺は不満そうである。
二死無走者で迎えた打者は五番・吉竹。
その初球、渡辺が内角に投じた球は吉竹を直撃、死球となった。
ハッキリ言ってこれはビーンボール、今風に言えばブラッシュバック・ピッチである。
渡辺は危険球退場になっても仕方がないし、乱闘すら起こりかねない。
ところが、渡辺にはお咎めなし、乱闘も起こらずに、渡辺は次打者の北村を打ち取って意気揚々とベンチに引き上げた。
広島ベンチでは、古葉竹識監督がベンチで渡辺を迎え入れた。
「よくやった。おめでとう!」
なにがおめでたいのか?
古葉監督は、渡辺が吉竹に死球を与えたことに対して、
「おめでとう」
と言ったのである。
80年近く続く日本プロ野球の中で、死球を与えて監督に祝福されたのは渡辺秀武以外にはいない。
渡辺秀武といえば、アンダースローの投手。
「メリーちゃん」
の愛称で知られている。
とても野球選手とは思えない、実に可愛いニックネームだ。
そんな「メリーちゃん」が、なぜ吉竹にビーンボールを放ったのか。
1982年10月16日。
阪神が21年ぶりの優勝を果たす、3年前のその日である。
この日、広島はこのシーズンの最終戦を迎えていた。
と同時に、「メリーちゃん」こと渡辺の引退試合でもある。
渡辺は、古葉監督に1イニングだけ投げさせてくれ、と懇願した。
古葉監督にも、その意味がわかっていた。
そして、阪神戦の5回表に、渡辺を投入したのである。
この時点で渡辺は、坂井勝二および米田哲也(通算350勝投手)と、通算与死球「143個」でこの記録に並んでいた。
渡辺にとって、「与死球日本新記録」を達成する、最後のチャンスである。
渡辺は古葉監督にこの旨を伝え、古葉監督も了承し、
「よし、与死球日本新記録を達成してこい!」
と、渡辺をマウンドに送り出したのだ。
ただし、渡辺に許されたのは5回表のたった1イニング。
この間に、渡辺は打者に当てなければならない。
渡辺は、相手打者に怪我をさせないように、スローボールで内角を攻めた。
だが、阪神の三番・平田と四番・藤倉はこのボールを避け、しかも凡打した。
残るは五番・吉竹だけである。
その初球、渡辺は左打者の吉竹に対し、インコースへスローカーブを投げた。
渡辺の思惑どおり、スローカーブは吉竹の体に当たり、吉竹は痛くもない死球で一塁に歩いた。
渡辺は、心の中で、
「やった!」
とガッツポーズした。
もちろん、それは心の中だけであって、実際にガッツポーズしたわけではない。
それでも、渡辺の胸の中では喜びに満ち溢れていただろう。
「与死球王」という不名誉なタイトルとはいえ、350勝投手の米田哲也を超えたのである。
もっとも、現在では「通算与死球王」の称号は、東尾修に奪われているが。
それでも「メリーちゃん」は、球界に名を残す大投手になったのだ。
もしこのとき、対峙したラインアップが掛布や岡田だったら、新記録が懸かった渡辺といえども、そう簡単に死球を与えることはできなかっただろう。
しかし、失礼を承知で言えば、緩い球なら当ててもいいと思われる平田、藤倉、吉竹というクリーンアップ・トリオだったからこそ、思い切った内角攻めをできたのではないか。
つまり、掛布や岡田がいないクリーンアップ・トリオと対戦したおかげで、渡辺は350勝投手・米田をも超えるレコード保持者になったとも言える。
ちなみに、85年の阪神クリーンアップ・トリオの本塁打数は以下のとおりである。
掛布雅之 40本塁打 セ・リーグ本塁打数2位
岡田彰布 35本塁打 セ・リーグ打率2位
そして、1982年10月16日、5回表にクリーンアップ・トリオを組んだ3人の本塁打数。
平田勝男 0本塁打(通算23本塁打)
藤倉一雅 2本塁打(通算3本塁打)
吉竹春樹 0本塁打(通算34本塁打)
平田・藤倉・吉竹のクリーンアップ・トリオは通算本塁打数でも、85年のバース・掛布・岡田の1年にも及ばない。
阪神が21年ぶりの優勝を果たす3年前、10月16日にはこんなショボいクリーンアップ・トリオを組んでいたのだ。
この平田・藤倉・吉竹と続く打線こそ、日本プロ野球史上最弱とも言える、伝説のクリーンアップ・トリオかも知れない。