記録には残らないが記憶には残る選手、と呼ばれる人がいる。
例として引き合いに出されるのが長嶋茂雄だ。
しかし、長嶋の場合は通算本塁打444本をはじめ数々のタイトルを手中に収めており、決して「記録に残らない選手」ではない。
にもかかわらず長嶋がそう呼ばれるのは、同僚だった王貞治と比較してのことだ。
王は通算本塁打868本という世界記録保持者であり、それに比べると長嶋は約半分だが、それでも長嶋のプレーの鮮烈さは王をも凌ぐ、という意味合いのものである。
もちろん、王が「記憶に残らない選手」というわけがあるはずもない。
本当の意味での「記録には残らないが記憶には残る選手」とは、例えば川藤幸三のような選手だろう。
通算安打211本は、マット・マートンが1年間で打った安打数(214本)にも劣る。
にもかかわらず、野球ファンなら誰もが「川藤幸三」の名前を知っている。
何よりも川藤が凄いところは、一度もレギュラーポジションを獲ったことがないにもかかわらず、19年間もの長きにわたって現役生活を続け、オールスター戦にまで出場したことだ。
現役引退して26年経った今でも、その存在感は抜群である。
ところが、長い間主軸を張って、かなりの成績を収めたにもかかわらず、さほど印象には残っていない選手もいる。
川藤の現役時代、阪神タイガースで同じ釜のメシを食ってきた佐野仙好などがその選手の典型だろう。
通算安打1316本、通算本塁打は144本と川藤を大きく上回り、プロ野球選手としては大成功と呼べる数字だ。
ところが、筆者の手許に2008年発行の「阪神タイガース猛虎列伝(双葉社)」という本があり、野手だけで45人の阪神歴代の選手が紹介されているが、川藤はもちろん掲載されているものの佐野の名前はなかった。
かといって佐野が「記憶に残らない選手」というわけではなく、「佐野仙好」の名前を見ればオールドファンなら誰もが言い知れぬ思いが胸に込み上げてくるだろう。
佐野の現役時代を知っている他球団のファンも、佐野という名前を聞けば「勝負強い打者だったなあ」と思い出すのではないか。
チームメイトや阪神ファンからは「センコウ」「佐野のセンちゃん」と呼ばれ、親しまれていた。
サンテレビの阪神戦中継で、岡田実アナが「サノセンコウ」と連発していたのを思い出す。
佐野はプロ入り前、中央大ではサードを守り、主軸を張っていて「東都のスラッガー」と呼ばれていた。
1973年のドラフトで佐野は阪神から1位指名を受けて入団。
阪神のサードと言えば、かつては初代ミスター・タイガースの藤村富美男、その後は守備の名手と言われた三宅秀史がいたが、三宅の引退後はエアポケット状態になっていた。
そこへ東都のスラッガー・佐野が入団してきたのだから、トラのホットコーナーは佐野で決まり、と思われていた。
ところが、佐野の前に思いもよらぬ大敵が現れた。
この大敵の出現により、佐野の野球人生が大きく変わったのである。
佐野が阪神からドラフト1位指名を受けた時、阪神は6位で全く無名の選手を指名していた。
習志野高校の掛布雅之である。
ポジションは同じサードだったが、佐野は掛布のことを敵などとは思いもしなかったはずだ。
掛布は別に阪神のスカウトが見つけてきたわけではなく、掛布の父親がツテを辿ってなんとか阪神のテストを受けさせてもらい、阪神側も「まあ、獲っておくか」ぐらいの軽い気持ちでドラフト6位に指名した。
年俸は僅か84万円で、月給に直すと7万円というウソみたいな安さだった。
もし当時、小関順二がアマチュア野球に目を光らせていても、掛布はノーマークだっただろう。
当時の大学の野球部では「一年奴隷、二年ジャリ、三年天皇、四年神様」という言葉があった。
もし掛布が中大に進学していれば、その年の掛布は「奴隷」で四年生が「神様」だから、卒業してしかもドラ1でプロ入りした佐野などは神様以上の存在、ドラゴンボールで言えば界王神のようなものだ。
大卒のスター選手にとって、プロでは同じ新人とはいえテスト生同然の高校ポッと出など鼻クソ程度でしかない。
掛布も佐野のことを羨望の眼差しで見つめていたことだろう。
ところが両者が新人の年の1974年、オープン戦で早くも両者の地位は逆転した。
掛布は4打数4安打を記録するなど大活躍し、「藤田(平)二世」などと騒がれ、開幕一軍切符を手にしたのである。
「○○二世」などと呼ばれて、”本家”を超えた選手など、掛布以外には見当たらない。
高卒新人で開幕一軍も難しいのに、ましてやテスト生同然のドラ6選手がそれを成し遂げるのは異例中の異例である。
サードのポジションが約束されていると思っていた佐野にとって、目標は4歳年下の掛布となった。
佐野にとって屈辱だっただろうが、プロはアマチュアの実績など関係なく実力の世界である。
佐野と掛布によるホットコーナー争いは、文字通り加熱していった。
しかし、日の出の勢いの掛布は次第に佐野を引き離し、1976年に掛布は打率.325、本塁打27本でベストナインを獲得、若トラブームを巻き起こしてホットコーナーの座を完全に奪い去った。
掛布とのサード争いに敗れた佐野は、レフトにコンバートされ1977年に遂にレギュラーに抜擢された。
しかしこのレフトコンバートが、佐野に思わぬ大惨事を与えてしまう。
同年4月29日の川崎球場、レフトへの大飛球を追った佐野はフェンスに激突しながら好捕したが、そのまま動けなくなった。
センターを守っていた池辺巌は佐野の様子を見た途端に尋常ではないことがわかり、インプレー中にもかかわらずボールそっちのけですぐに担架を要請した。
そのせいで一塁走者はタッチアップからホームインしたが、池辺にとってそれどころではなかった。
佐野はすぐに病院へ運ばれ、頭蓋骨陥没骨折という生命に関わる重傷を負った。
川崎球場に限らず、当時の球場のフェンスはコンクリートが剥き出しになっていたのである。
復帰が危ぶまれた佐野だったが、シーズン終盤に奇跡のカムバックを果たし、代打ホームランを放ってトラキチの涙を誘った。
佐野の事故をきっかけにして、安全対策として各球場のフェンスにはラバーが貼られ、また生命に関わる重大な事故が起きた時はインプレー中でも審判の判断でタイムがかけられるようになった。
佐野の闘志溢れるプレーは、野球場の構造と、野球規則まで変えてしまったのである。
大怪我から復帰して再びレフトの定位置を手にした佐野は、東都のスラッガーらしく打撃にも磨きをかけ、阪神の中軸を任されるようになった。
掛布は1979年に本塁打48本を放って初のホームラン王に輝き、阪神の四番打者としてミスター・タイガースの地位を揺るぎないものにしていが、佐野は掛布の後ろを打つ五番に座ることが多かった。
数字的には両者の間には差があったが、佐野は「カケには負けられない」と心に誓い、掛布は「佐野さんの前では拙いプレーはできない」と心を奮い立たせ、ドラフト同期の陰のライバルとしてお互いに切磋琢磨していった。
掛布にとって打順(四番)でも佐野(五番)の前、守備位置(サード)でも佐野(レフト)の前だった。
やがて阪神には岡田彰布が育ち、「史上最強の助っ人」ランディ・バースが入団したため、佐野は下位の六番を担うことが多くなった。
それでも佐野の存在感が薄れることはなく、いぶし銀のような勝負強いバッティングでトラキチを唸らせた。
そして1985年、佐野にとっても、同期入団の掛布にとっても至福の時がやってきた。
阪神タイガース、21年ぶりのセントラル・リーグ優勝。
佐野にとっても、もちろん掛布にとっても初めて味わう勝利の美酒だった。
お互いにビールを掛け合い、喜びを爆発させた。
ところで優勝を決めた10月16日の明治神宮球場でのヤクルト・スワローズ(現在の東京ヤクルト・スワローズ)戦、佐野は先発出場していない。
阪神が勝つか引き分ければ優勝というこの日、阪神は苦戦して9回表まで3−5とリードを許し、この日の胴上げはお預けかと思われた。
しかし9回に先頭の掛布がレフトへソロホームランを放って1点差に詰め寄り、俄然優勝ムードが高まった。
なおも一死三塁と一打同点のチャンスを作り、阪神ベンチはとっておきの代打・佐野を送った。
佐野は見事にセンターへ犠牲フライを放ち、阪神は同点に追い付いた。
結局は延長10回、引き分けで阪神の優勝が決まった。
73年ドラフト組の佐野と掛布が優勝を呼び込んだのだ。
思えば73年ドラフトの目玉と言えば、掛布と同い年の江川卓だった。
この年の最大のハイライトと言えば、なんと言っても4月17日の阪神甲子園球場での読売ジャイアンツ戦、伝説となったバース、掛布、岡田によるバックスクリーン3連発だろう。
この”被害者”となったのがこの日巨人の先発だった槇原寛己だが、実はこの年の阪神戦で槇原はもう一つの屈辱を味わっていることはあまり知られていない。
槇原にとっては悪夢のバックスクリーン3連発から約1ヵ月後の5月20日の後楽園球場、阪神戦で再び槇原が先発し、6回まで無失点の好投を続けていた。
しかし7回表に満塁のピンチを迎え、阪神は佐野を代打に送った。
佐野は見事にレフトへ代打満塁ホームランを放ち、阪神は1点差に詰め寄る。
その後阪神は真弓明信の2ランで逆転勝ち、槇原に引導を渡す一戦となった。
この試合、評論家たちは「7回満塁の場面まで佐野をとっておいた阪神の勝利」と評した。
阪神が優勝を決める重要なポイントでの働きが、いずれも代打というのがいかにも佐野らしい。
実はこの年、横浜大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)から首位打者経験者の左打者である長崎啓二が移籍しており、佐野と長崎はツープラトンで起用されていた。
つまり佐野は、六番打者と右の代打という両方の役目を任されていたわけだ。
佐野の勝負強さが右の代打で活きたのである。
掛布が引退した翌年の1989年、佐野は現役引退した。
ここでも掛布が前で、佐野は後だった。
佐野は引退の際、「カケがいたから、自分はここまでやれた」としみじみと語った。
もし佐野が最初からサードのレギュラーが約束されていれば16年もの長い野球生活は送れなかったかも知れないし、掛布にとっても新人の頃から佐野を目標としたからこそミスター・タイガースの地位を築いたとも言える。
掛布がいればこその佐野、佐野がいればこその掛布だったのである。
佐野はプロ生活16年で、人気チームである阪神の主軸をずっと担っていたにもかかわらず、オールスター戦出場は1回もなし。
レギュラーを取れなかった川藤ですらオールスターを経験しているのに、である。
また、首位打者、本塁打王、打点王といった主要タイトルやベストナインにも縁がなかった。
しかし、佐野の勝負強さを示すタイトルを1度だけ獲得している。
1981年から制定された勝利打点のタイトル、佐野は15を獲得してセ・リーグの初代勝利打点王に輝いた。
ちなみにこの年の佐野の打点は僅かに48で、同年セ・リーグ打点王である山本浩二の103打点の半分以下である。
それでも山本浩二以上の勝利打点を挙げたのだから、いかに勝負強い打者だったかわかるだろう。
48打点で最多勝利打点というのは、打点数最少記録である。
現在では勝利打点というタイトルは消滅しているが、セ・リーグ初代勝利打点王としての佐野の名前は永遠に残るのだ。
現在の佐野は、阪神のスカウトを務めている。
いぶし銀の男は、アマチュア選手を見て回って未来の若トラの選考(センコウ)をしているわけだ。
ところで、佐野仙好の「仙好」とは「センコウ」ではなく、正式には「ノリヨシ」と読む。
【おまけ】
「センコウ」と読む熟語がどれだけあるか、広辞苑で調べてみた。
(1)占考=占い考えること。
(2)先公=先代の君主(筆者注:「先生」の蔑視語ではないらしい)。
(3)先后=先帝の皇后。
(4)先考=死亡した父。
(5)先行=さきだつこと。
(6)先攻=野球で先に攻撃すること。
(7)先後=時のさきとあと。
(8)先皇=先代の天皇。
(9)専行=専断で行うこと。
(10)専攻=専門的に修め極めること。
(11)浅紅=薄い紅色。
(12)浅香=沈香の木の、まだ若くて白いもの。
(13)浅黄=薄黄色。
(14)染工=染め物をする職人。
(15)穿孔=孔をあけること。
(16)扇工=扇を製造する職人。
(17)栓孔=栓をさす孔。
(18)閃光=瞬間的に発する光。
(19)船工=船大工。
(20)戦功=戦争でたてた手柄。
(21)践工=実地に行うこと。
(22)跣行=裸足で行くこと。
(23)選考=採用などに際し、人物・才能などをつまびらかに調べ考えること。
(24)銓衡=同上
(25)潜考=深く考えること。
(26)潜行=水中をもぐって進むこと。
(27)潜幸=ひそかに行幸すること。
(28)潜航=ひそかに航海すること。
(29)線香=火を点じて仏前に供えるもの。
(30)選鉱=採掘した鉱石を選り分けること。
(31)遷幸=天皇が都を移すこと。
(32)繊巧=細かで巧みなこと。
(33)鮮好=鮮やかでよいこと。
(34)鮮紅=鮮やかな紅。