今日から師走、即ち12月に入り、今年も残すところあと1ヵ月となった。
月日が経つのは早いものだが、この12月1日という日付はプロ野球選手にって重大な意味を持つ。
中には12月1日を11月31日だと思い込んで契約更改交渉をすっぽかした選手がいたが、この選手はプロ野球選手としての自覚に欠けていたのだろう(というより、子供でも知っているような常識を知らなかったということか)。
さて、この12月1日とはプロ野球選手にとって、どういう意味があるのか。
この日から1月31日までの2ヵ月間、球団の拘束権が全く及ばなくなるのだ。
つまり、完全オフとなるのである。
だからどうした、と言われるかも知れないが、このことは統一契約書にもちゃんと書いてある、重大な事柄なのだ。
プロ野球選手の年俸は球団との契約更改交渉によって決められるが、文字通りの「年俸」ではなく、契約期間は2月1日~11月30日までの10ヵ月間である。
従って、12月と1月は選手にとって全くのフリー期間なのだ。
だからと言って、他球団と勝手に契約交渉できるわけではないが(それだと「空白の2ヵ月間」である)。
しかし昔は、この完全オフ期間が実に曖昧だった。
12月に入っても冬季練習、1月中旬ぐらいから2月1日に始まる春季キャンプまでの期間を合同自主トレと称して、球団がかりでの事実上のキャンプを行っていたのである。
球団は選手を拘束できないのに、半強制的に選手をチーム練習に参加させていたのだ。
春季や秋季のキャンプと、冬季練習や合同自主トレとの違いは、ユニフォームを着ているか否か、である。
つまり、冬季練習や合同自主トレでは揃いのユニフォームを着ていないので、球団が拘束しているわけではないよ、というわけだ。
しかし、これはおかしいと日本プロ野球選手会から声が上がり、1989年(平成元年)から拘束期間以外(即ち12月と1月)での指導者付きの練習を禁じたのである。
つまり、この奇妙な風習は昭和と共に終わりを告げたわけだ。
前置きが長くなったが、今回はそんな昭和の香りがタップリ残っていた頃のお話。
1980年(昭和55年)12月13日、当時は阪神タイガースの二軍本拠地だった阪神浜田球場で冬季練習が行われていた。
この冬季練習に、当時既にバリバリの主力選手だった掛布雅之が参加していたのである。
いくら球団が半強制的に行う冬季練習と言っても、掛布のような主力選手にまで参加を強制するものではない。
非合法な冬季練習はもちろん、球団が合法的に行う秋季キャンプだって、参加するのは二軍や若手選手のみであり、主力選手やベテランが参加することはほとんどないのだ。
しかし、掛布が二軍選手たちに混じって冬季練習に参加していたのにはわけがあった。
このシーズン、掛布は膝の怪我に悩まされ、出場したのは僅かに70試合と、入団以来最低となっていたのである。
シーズン終盤には二軍落ち、チームを離れて独り南紀・勝浦の温泉病院で膝の治療を受けていた掛布は、オフ・シーズンになった頃には完治に近くなっていた。
そこで、来シーズンに備えて冬季練習に参加させてもらい、膝を動かして元の体に戻そうと画策したのである。
ようやく膝が動くようになり、6,7年ぶりぐらいとなる二軍での練習は、若い連中と一緒だっただけに、掛布にとって新鮮な気持ちで取り組めた。
前年の1979年(昭和54年)には48本塁打を打って初のホームラン王となり、名実ともに阪神の四番打者として歩み始めた頃に起きた故障禍だった。
前年までの阪神甲子園球場では、阪神ファンたちはあらん限りの声で「掛布コール」を贈っていたのに、この年は一転して罵声に変わり、自宅でもいたずら電話や愛車へのいたずら書きなどに悩まされていたのである。
そんな掛布にとって、故障がようやく癒えて体が動かせるようになり、浜田球場で汗を流している時間が最も心が弾んでいた。
そんな矢先に、事件は起こったのである。
「掛布、トレード!」
関西スポーツ新聞5紙のうちの一つ、S紙の一面見出しには大きな文字が躍っていた。
S紙によると、掛布のトレード先は南海ホークス(現:福岡ソフトバンク・ホークス)。
トレード相手は南海の主力打者だった門田博光を含む複数という、超大型トレードである。
もちろん、掛布にとっては寝耳に水の話だった。
ただし、掛布と門田らとのトレードをスッパ抜いたのはS紙だけで、他のスポーツ新聞では全く触れられていない。
S紙の独占スクープなのか、あるいはデマなのか……。
掛布は悶々とした気持ちで浜田球場に向かった。
掛布は家を出るとき、ちょうど結婚1周年を迎えたばかりの安紀子夫人にこう宣言した。
「もしトレードが本当なら、俺は二度と野球はせん」
それより前。
掛布がホームラン王を獲る前年の1978年(昭和53年)オフ、掛布自身はプロ入り以来最高の成績を残したものの、阪神は球団史上初の最下位に沈んでいた。
その責任を取らされたのが、四番打者だった「ミスター・タイガース」田淵幸一である。
田淵はいしいひさいちのギャグ漫画「がんばれ!!タブチくん!!」の題材になった通り、当時は太り過ぎていて、まともな守備や走塁はもうできないと判断され、西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)にトレードされたのだ。
このトレード話が出る前、田淵は掛布らを引き連れて大阪の北新地で呑んでいたが、外を歩いていると運悪く酒癖の悪い阪神ファンに絡まれてしまった。
「コラお前ら!最下位になったくせに、酒なんか呑んどる場合か!」
この時、矢面に立たされたのは田淵で、体の小さな掛布は田淵の大きな体の後ろに隠れていたのである。
しかし、来シーズンからは田淵という大きな風よけはない。
「カケよ、次はお前の番だ。ユニフォームを脱ぐ時は絶対に悔いを残すなよ。俺みたいになったらアカンぞ」
トレードが決まった後、田淵は掛布にそう言った。
まるでテレビ朝日の「しくじり先生」のようなセリフだが、その僅か2年後に掛布自身が田淵と同じ立場に立たされたのである。
1973年(昭和48年)オフ、無名の高校生だった掛布はテスト生同然のドラフト6位で阪神に入団。
翌1974年(昭和49年)オフ、当時阪神の絶対的エースだった江夏豊が南海にトレードされた。
そして入団して5年後の78年には、前述したように四番打者の田淵を放出。
掛布にとって雲の上の大スターだった二人が、いとも簡単にトレードに出されたのだ。
明日は我が身、と思っても不思議ではない。
江夏と田淵、俺も二人の先輩と同じ道を歩むのか、そう思いながら掛布は浜田球場へ車を走らせた。
浜田球場に着いた掛布を待っていたのは案の定、大勢の記者連中だった。
もちろん、質問はS紙のトレード報道について集中した。
しかし、球団からは何も聞かされていない以上、掛布には答えようがない。
掛布は来シーズンに向けて楽しい練習をしたいのに、ブンヤさんたちは練習のことなどそっちのけ。
掛布はやり切れない怒りをやっと抑え、昼過ぎには練習を終えて浜田球場を後にした。
「トレードは本当なんだろうか」
という気持ちと、
「もし本当だったら、球団から連絡があるはず。それがなかったということは……」
という、中途半端な気持ち。
この気持ちを紛らわせるために、掛布は箕面にあった自宅へは向かわず、反対方向の中国自動車道へハンドルを向け、ひたすら西へ高速道路を爆走した。
その日の夕方には自宅に戻り、翌朝の掛布は恐る恐るスポーツ新聞を広げてみた。
「誤報だった掛布のトレード!」
とS紙を除く各紙が一斉に書き立てていた。
当時、阪神の球団社長だった小津正次郎は、
「掛布のトレードは絶対に有り得ない」
とコメントし、南海の広報担当も、
「S紙の報道は誤報です」
と語っている。
前日のS紙の報道もおかしかった。
南海の川勝傳オーナーの談話は載っていたが、阪神側のコメントは一切載っていない。
要するに、南海側からの一方的な情報だったのである。
そして、翌日の報道では、南海の広報担当がキッパリと否定したのだから、デマだったのは間違いない。
おそらく、S紙の記者は南海側からのみコメントを得て、飛ばし記事を書いたのだろう。
しかし、その南海側からの否定コメントが出れば、もはやこの記事の信憑性はない。
こうして、掛布⇔門田という超大型トレード大騒動は、たった2日で終わりを告げた。
では、このトレード話がS紙による全くのデマだったかと言えば、そんなことはなかっただろう。
火のない所に煙は立たぬというが、両球団の間である程度の話し合いは、水面下で行われていたに違いない。
トレードというのは一朝一夕にはできないものだから、シーズン中から深く静かに潜行する。
今回のケースも、S紙の記者がそれを嗅ぎ付けたのに違いない。
しかし、いくらトレード話が進んでも、実現するのはごく一部。
特に、大物同士のトレードが決まるのは稀なことだろう。
しかし、大物同士だからこそニュース・バリューがあるのであって、だからこそS紙の記者は飛ばし記事を書いたものと思われる。
では、門田の方は南海球団から話を聞いていたのかどうか、という点については定かではない。
近年、行われたトークショーで門田は「(掛布とのトレード話は)ありました。でもスポーツ紙に早く出て、消えたんです」と語っていたが、スポーツ紙に出たけど早く消えたという意味なのか、あるいは決まりかけていた話だったけど、スポーツ紙に早くスッパ抜かれたので立ち消えになった、という意味にもとれる。
門田は掛布とは逆に、掛布がホームラン王に輝いた79年にアキレス腱断絶という大怪我によってシーズンを棒に振り、掛布が故障した翌80年には41本塁打を放って見事にカムバック賞を受賞した。
復活した門田を売り時と考え、セ・リーグの大スターだった掛布を南海が獲得しようとしても不思議ではない。
いくら門田が甦っても、南海は観客動員に苦しんでいたのである。
とはいえ、阪神側が掛布1人、南海側は門田を含む複数のトレードというのは、掛布より年上の門田にとって面白くない話だっただろうが……。
一方の阪神は、故障がちだった掛布に代わり、新大砲として門田に興味を持ったとしてもおかしくはない。
ただし、ネックとなったのは門田がアキレス腱断裂により、DH専門になっていた点である。
DH制がないセ・リーグで、門田に守らせるポジションがあるのか。
その後、門田は足に負担がかからないDH専門として「不惑の二冠王」などと呼ばれ、パ・リーグ一筋で長きにわたり大活躍した。
一方の掛布も、阪神の四番打者として見事に甦り、田淵の跡を継ぐ「ミスター・タイガース」と呼ばれるようになって、1985年(昭和60年)には21年ぶりのリーグ優勝と初の日本一に貢献したのだから、結果的にはトレードが実現しなくて良かったのだろう。
もし、このトレードが実行されていたら、門田は阪神で守る場所が無かったかも知れないし、掛布はたとえ南海で復活していたとしても、南海は掛布の高額な年俸を払えずにすぐまた放出していたことも考えられ、あるいはもっと早く身売りしていた可能性もある。
それにしても「トレード話が本当だったら野球を辞める」と妻に言い放った掛布は、南海に対して少々失礼だったかも知れない。
もっとも掛布は、南海が嫌だったというわけではなく、トレードという現実をいきなり突き付けられて、かなり動揺したのだろう。
現在でこそフリー・エージェント(FA)が確立して、他球団でプレーするのは当たり前になったが、当時はまだまだプロ野球でも「終身雇用」の時代。
スター選手はずっと一つの球団でプレーするもの、という考え方が蔓延っていた。
そしてトレードと言えば「そのチームに捨てられた」というイメージが根強かったのである。
掛布にしても、入団以来ずっと中心選手としてチームを引っ張ってきたのに、たった1シーズン怪我のために不調だったからと言ってアッサリ放出されるのは、あまりにも酷いと憤りを感じたのだろう。
ただし、たとえトレード話が本当だったとしても、掛布は南海入りに同意したに違いない。
最初は初志通り「引退する」と言い張っても、阪神および南海が必死に説得しただろう。
何しろ、当時の掛布は弱冠25歳。
引退したとすれば、野球に対する未練が大き過ぎる。
事実、江夏や田淵も最初のうちはトレードに関し「他球団には行きたくない」と主張したが、結局は移籍して、第二の野球人生を大成功させていた。
掛布も、最初のうちはトレード拒否しても、江夏や田淵の成功例を見て心機一転していたに違いない。
もしあの頃、現在のように球団主導による12月の練習が禁止されていたら、どうなっていただろう。
掛布は浜田球場に行くこともなく、自宅で悶々としていたかも知れない。
そして、前年に結婚したばかりの安紀子夫人に当たり散らしていたとなったら……。
それを避けるために、真意を確かめようと球団事務所へ出掛け、思わず感情的になって口論となり、結局は廃案となっていた南海とのトレード話が復活、なんてことになっていたかも。
野球協約で禁止されている冬季練習が妙な形で認められていたため、掛布は練習によってモヤモヤを発散できたので、却って良かったのかも知れない。
その掛布も、1988年(昭和63年)に引退。
昭和の時代、そして冬季練習や合同自主トレの完全禁止と共に、球界から去った。
阪神の二軍本拠地球場だった阪神浜田球場。現在は草野球用のグラウンドになっているが、当時は多くの報道陣が詰め掛けていた。1994年(平成6年)オフに阪神鳴尾浜球場が完成し、その翌年から二軍本拠地球場はそちらに移っている