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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

審判問題

「審判」を意味する英語に、レフェリー(referee)とアンパイア(umpire)の二種類があるのはご存知だろう。

サッカー、ラグビー、バスケットボール、バレーボール、ボクシング、レスリングなどはレフェリーと呼ばれ、野球、テニスなどはアンパイアという英語が用いられる。

競技によってはレフェリーとアンパイアが混在する場合もあるし、補助的な審判をジャッジ(judge)と呼ぶ競技もある。

 

では、レフェリーとアンパイアの違いはなんなのだろう。

選手と一緒に常に動き回っているのがレフェリー、概ね一ヵ所に留まっているのがアンパイア、という説がある。

確かにサッカーやラグビーのレフェリーはボールを追って常に動いているし、野球やテニスのアンパイアは持ち場が決まっている。

ただ、バレーボールのレフェリーは、テニスのアンパイアと同様一ヵ所にいるので、この説は成り立たなくなる。

いずれにしても、審判がいない競技はゴルフぐらいのもので、どんなスポーツでも審判は必要不可欠な存在といっていいだろう。

しかし、あらゆるスポーツで重要な「審判」という立場の人を、日本のスポーツ界は認識しているのだろうか?

 

先日、関西ラグビー協会の関係者の方に、レフェリーの待遇について訊いてみた。

帰ってきた答えは、トップリーグのレフェリーでも日当が支払われるだけで、その金額も驚くべきほどの安さだった。

どのぐらい安いかといえば、僕が努めた野球独立リーグの公式記録員の日当と同額である。

しかも野球独立リーグの場合は交通費と弁当一食分も支給されたが、ラグビートップリーグはそれすらもなく日当のみというから、野球独立リーグの公式記録員より悪い待遇ということになる。

野球独立リーグのアンパイアは、公式記録員のおよそ二倍の日当だったと記憶しているので、ラグビートップリーグのレフェリーはそれより半分以下の待遇だ。

 

ラグビートップリーグはプロ選手も多くプレーする、日本最高峰のラグビー組織である。

そんなリーグの笛を吹く人物が、野球独立リーグのアンパイアより遥かに悪い待遇なんて、考えられるだろうか。

ラグビーのレフェリーと野球のアンパイアのどちらが難しいかなんて比較はできないが、少なくとも体力的にはラグビーのレフェリーの方が遥かにキツそうである。

野球のアンパイアはフォーメーションによって動く場合もあるが、概ね自分の持ち場に留まっているのに対し、ラグビーのレフェリーはボールの動きと共に選手達と同様、ずっとグラウンドを走り回っている。

 

ラグビートップリーグのレフェリーは45歳で定年ということになっているが、それだけ体力的に厳しいのだろう。

だが、実際には定年を迎えても、レフェリーを辞められない人もいると聞いたことがある。

なぜなら、レフェリーの絶対数が少ないからだ。

こんな待遇で、人材が集まるわけがない。

ラグビーのレフェリーというのは、笛を吹く魔力に取り憑かれるとなかなか辞められないそうだが、誰もがそういう快感を知っているわけではないだろう。

普通はラグビー好きならまず選手になろうとするのが当たり前で、最初からレフェリーを目指すのは稀有の存在である。

多くのレフェリーは、元々はラグビーの競技者で、そこからレフェリーに転向した人がほとんどだろう。

現在の待遇ではレフェリーを職業にはできないのが現実なのだから、レフェリーを目指す人が少ないのは当然である。

中には例えばNTTドコモと契約しているレフェリーもいるらしいが、その人は当然ながらNTTドコモ・レッドハリケーンズの試合の笛は吹けない。

そもそも、一つのチームがレフェリーを雇っているような状態は異常だろう。

ラグビーのプロ化を目指して始まったトップリーグなのに、レフェリーをプロ化できないようでは絵に描いた餅でしかない。

 

ラグビーに限らず日本のスポーツ界は、選手の獲得や育成には金をかけるのに、審判の養成や待遇には金をかけないのはなぜだろう。

あまりにも審判軽視と言わざるを得ない。

その割には、審判には厳格すぎるほどの正確さを求め、ミスジャッジが起こると世紀の大犯罪人に仕立て上げる。

しかも、ミスジャッジに厳しい人に限って、ルール無知であることが多い。

 

例えばプロ野球(NPB)の場合、さすがにアンパイアは年俸制になっていて給料は保証されているが、その待遇は選手より遥かに悪い上、個人事業主のため生活は安定しているとは言えない。

よく言われることだが、アメリカのメジャーリーグ(MLB)には複数の審判学校があるのにNPBにはそれがない、というのは、審判軽視をよく表している事柄だろう。

有望新人やFA選手には莫大な契約金を支払い、場合によっては裏金を使う球団が横行しているのに、NPBは審判養成には全く無頓着なのだ。

そのくせ、アンパイアに対してはミスジャッジを決して許さず、審判団に対するリスペクトすらない。

MLBでは選手同士が殴り合ってもアンパイアに暴力を振るうことは有り得ないが、NPBではアンパイアに対する暴力や暴言が横行している。

日本では「スポーツ」の意味を取り違えているとしか思えない。

 

NPBのアンパイアは、MLBのアンパイアよりも正確なジャッジをする、とよく言われる。

日曜朝の番組で、やたら「喝!」と叫ぶ安打製造機氏はそう声高にのたまっているが、これは正鵠を射てはいない。

NPBのある審判員は、日本のアンパイアは権威によって守られていないため、正確なジャッジをする以外に自分を守る術がない、と説明する。

要するに、日本ではMLBのようにアンパイアがリスペクトされていないから、正確なジャッジだけを心がけている、というわけだ。

そもそも、この安打製造機氏が現役時代にアンパイアをリスペクトしていたとは思えず、単にMLB嫌いだから現在はNPBのアンパイアを持ち上げているだけなのだろう。

 

もちろんジャッジの正確さは大切だが、それ以上にアメリカの審判学校では「ゲームコントロール」を教える。

アンパイアだって人間だからミスジャッジは付き物、それよりも不測の事態にどう対処するか、の方が重要なわけだ。

その反面、例えば二死満塁・3ボール2ストライクでミスジャッジすれば大変なことになる、という場面では、MLBのアンパイアは見事な集中力を発揮してミスジャッジなどしない。

こういう心構えを審判学校で叩き込まれるのである。

NPBのアンパイアは、そういうことは教わらない、というかそもそも権威が確立されていないから、監督や選手から抗議されるといちいち説明するし、抗議が長引いてダレた試合になってしまう。

そういう場合、アンパイアは毅然とした態度で「退場!」と言えば無意味な抗議などなくなるのだが、アンパイアの地位が低いため、なかなかそれもできない。

かつて、当時は監督だった400勝投手がアンパイアを蹴り上げたことがあったが、本来ならこんな暴挙を働いた人物は球界から永久追放されるべきなのに、未だに名球会を主宰しているのがNPBの現状である。

 

ラグビーには「アドバンテージ」というルールがある。

これは、反則が起こった場合、反則された側が不利にならなければそのまま試合を続行する、というルールだ。

従って、反則があってもレフェリーはしばらく試合の行方を見守って、反則された側に不利がなければ反則は不問に付す、というわけである。

もちろん、反則された側が不利になった時点で試合を止めて、反則した側にしかるべきペナルティを与えるが、そうでなければできるだけ試合を続行しよう、という考え方である。

なぜなら、反則をいちいち取り締まって試合がぶつ切りになったら、ゲームが面白くなくなるからだ。

 

あるNPBのアンパイアが、たまたまラグビーの試合をテレビで見ていて、仰天したそうである。

最近のラグビー中継ではレフェリーにマイクが付けられていて、テレビでもレフェリーの声が聞くことができる。

「ボールを離せ!(ボールを離さなければノット・リリース・ザ・ボールという反則)」

「4番、(密集から)離れろ!(離れなければノット・ロール・アウェイという反則)」

「前でプレーするな!(オフサイドという反則)後ろへ戻れ!そう、それでいいよ」

などと、選手に声をかけ続けている。

 

こんなことは野球では考えられないことで、基本的には審判と選手との私語は禁じられている(実際には審判と選手はよく喋っているが、あくまで雑談程度)。

例えば、打者が打順を間違えて打席に立とうとした場合、アンパイアはそれを指摘してはならない。

あくまでも相手チームのアピールを待ち、アピールがあった場合のみ打順間違いというルール違反が成立するのだ。

 

しかしラグビーでは、野球のように「反則を取り締まる」のではなく「反則をさせない」というのが、レフェリーの任務である。

反則がなければゲームはスムーズに動き、面白い試合になる、という考え方だ。

一方の野球では、そもそも反則が起こりにくい競技であり、いちいちアンパイアが事前に防ぐものではない、という考え方なのかも知れない。

そこには、イギリス生まれのラグビーと、アメリカ生まれの野球との違いもあるだろう。

伝統あるイギリスの貴族社会が生み出した「暗黙の了解」たる「慣習法」の「ロー(law)」と、新興国であるアメリカという多民族国家を束ねるために生み出された「確固たる規則」の「ルール(rule)」

そのため、ラグビー競技規則には「Laws of the Game」、公認野球規則には「Official Baseball Rules」という英語が書き記されている。

イギリスとアメリカの違いが、そのままラグビーと野球との違いに現れているのであろう。

ラグビーと野球は、イギリスとアメリカという異なる民主主義から発展したスポーツと言っていい。

 

残念ながら日本では、いやアジア諸国もそうだが、民主主義が発達しないまま欧米からスポーツを輸入してしまった。

日本で言えば、江戸幕府が倒れて西洋文化が押し寄せた、明治維新の頃である。

そもそも、日本人は「ルール」というものを、どのように捉えているのだろうか。

スポーツにおける「ルール」とは本来、試合を円滑かつ安全に運び、選手も観客も楽しめるものにすべきである。

ところが日本人は、21世紀になった現代でも、この大原則をわかっていない人が実に多い。

明治維新から150年近くも経ったのに、スポーツはルールさえ守っていれば何をやっても構わない、と思っている日本人が大多数である。

それは、スポーツの本質がわかっていない、ということに他ならない。

 

例えば、野球にボークというルールがなんのためにあるのか、ということすらわかっていないのである。

ボークとは、投手が走者を欺くための手段であり、卑怯な行為だからルール違反なのだ。

ところが日本の指導者は、どこからどこまでがボークなのか、こういう動作はボークにならないのか、としつこく審判講習会で訊くという。

「その動作はボークになります」と審判員が説明すると、

「それだと走者が引っかからない」

と、ある監督に言われて、審判員は唖然となった、という話を聞いたことがある。

どうやらこの監督は、野球とは相手を騙すスポーツだと思い込んでいるらしい。

本来野球とは、思い切り投げて、思い切り打って、思い切り走って、果敢にボールを捕りに行くスポーツなのに。

その大原則を守るためにルールというものが存在するのだが、そのことがわかっている指導者が日本にどれだけいるのだろうか?

 

NPBで審判学校が設立できないのなら、スポーツ総合の審判学校ができないものか、といつも思う。

NPBやJリーグ、トップリーグなどが資本参加して、あらゆるスポーツの審判学校ができないものか、と。

つまり、審判学校の中に野球部門、サッカー部門、ラグビー部門、バスケットボール部門など、色々なスポーツの審判を目指す人のための学校を設立するのである。

もちろんその学校では、審判の技術や心得はもちろん、ルールとはなんのためにあるのか、ということまで徹底的に叩き込む。

 そしてプロの審判員に巣立っていくための登竜門にするのである。

 

例えば野球では、審判でもアマチュアとプロでは厳格に分かれていて、アマチュアの試合を裁くのはアマチュアの審判であり、アンパイアはボランティアとして参加している。

高校野球の期間中、審判員たちは有給休暇を取って、無償でアンパイアを勤めているのだ。

これはどう考えてもおかしい。

アマチュアの試合だからといって、アマチュアの審判が裁かなければならない、ということはない。

選手はアマチュアであっても、審判はプロでも全然おかしくないのである。

むしろ、審判はボランティアでやってくれているのだから、文句を言ってはいけない、という風潮にもなってしまう。

これは、前述した「審判の権威を守る」とは全く違う意味で、むしろ審判の権威を失墜させるものだ。

試合中は審判の権威は守られても、試合後は審判の巧拙を論議されるべきである。

「アマチュアだから(ボランティアだから)許される」では、そのスポーツの発展はない。

そもそも日本のスポーツ界は、ボランティアに甘えきっている。

雑用はボランティアに任せ、金をかけるのは選手(あるいは監督)だけでよろしい、という考え方だ。

試合で重要な存在である審判でさえも、「雑用」でしかないというのが、日本のスポーツの在り方だと言っていい。

 

4年に1度しか行われないオリンピックのメダル獲得数で大騒ぎする日本では、こうした活動は認められないのかも知れないが、こちらの方がスポーツ文化を根付かせるのには遥かに有意義である。

まあ、日本のメディアや企業は、目先の利益しか頭にはなく、スポーツ文化の育成などには興味がないのだろうが……。