1982年1月2日、東京・国立競技場で「事件」は起こった。
第18回全国大学ラグビーフットボール選手権大会準決勝、明治大×同志社大でのことである。
同志社は「打倒!関東」に燃えていた。
関西では無敵を誇っていた同志社も所詮それは井の中の蛙で、全国選手権になるといつも関東勢の厚い壁に阻まれていた。
それがこの2年ほど前から関東勢に負けぬ力をつけ始め、初の決勝進出で明治に敗れたとはいえ、3−6と双方ノートライの大接戦を演じた。
そして悲願を達成したのがその翌年、つまり「事件」があった前年のことである。
このときの同志社はLO陣の林敏之、大八木淳史を揃えてFW戦で明治の重戦車を圧倒、11−6で遂に初優勝、関東勢の高い牙城を切り崩した。
明治は屈辱の同志社戦から1年、今度は早明戦で屈辱を味わう。
伝説の名将・大西鐡之祐が早稲田大の監督に復帰、大西マジックにより復活した早稲田は、かつて見たことのない重戦車に対するスクラムトライなどで逆転勝ち、明治は5年ぶりに早明戦で苦杯をなめた。
年が明けて国立競技場、本来なら明治は決勝で同志社に雪辱を果たそうと意気込んでいたが、早稲田に敗れて対抗戦2位だったため準決勝で同志社戦を迎えた。
前年と同じくエンジに黄色いラインの入ったセカンドジャージの同志社と、やはりセカンドジャージで胸に「M」のイニシャルが入った白いジャージの明治。
事実上の決勝戦と言われたが、下馬評では同志社有利で、初めて明治に対して受けて立つ立場になっていた。
試合は下馬評通り同志社ペースで進みリードを奪ったが、後半20分頃に「事件」は起こった。
レフェリー・高森秀蔵の笛が高らかに鳴った。
高森は同志社のWTB大島真也を指さして、さらにその指を競技場の外へ向けた。
退場宣告である。
大島は唖然とした。
同志社フィフティーンも同様である。
高森は「大島がラックの中で故意に相手を踏みつけた」と退場の理由を説明したが、大島は当然これを否定し、また明治にもラフプレーに対して抗議する選手はいなかった。
選手たちも、首脳陣も、観客も放送席もみんな、何が起こったのか理解できなかった。
これが世にいう「大島退場事件」であり、大学選手権史上最大の謎と言われている。
まだシンビンなどない時代である。
今風でいうならば「一発レッド」というところか。
14人で戦わざるを得なくなった同志社は後半、完全に劣勢に立ち7−20で完敗、二連覇の夢は準決勝で潰えた。
スポーツにタラレバはタブーだが、もしこの「事件」がなくて同志社が優勝していれば、翌年から史上最多の三連覇を果たしていたので、もしかしたら前年と合わせて大学選手権五連覇というアンタッチャブルな大記録を作っていたかも知れないのである。
そういう意味でも、まさしく歴史的な笛の音だったと言えよう。
同志社フィフティーンは失意のまま宿舎に戻り、労をねぎらうために残念会を開いたが、大島は部屋に引きこもって宴会場に降りてこようとしなかった。
後輩の大八木と白川佳朗が大島を迎えに行ったが、大島は部屋から出ようとせず、やむなく大八木が冷蔵庫からビール瓶を取り出し、三人でビールを呑み干したという。
大島はこの試合を最後に大学生活を終え、卒業後は近鉄でラグビーを続けるも僅か1年で退社してしまった。
ラグビーを辞めた後、大島は競輪選手を目指すことになる。
ラグビーは自分のせいでみんなに迷惑をかける、競輪なら一人でできるからいい、と考えたのかも知れない。
高森も、あの試合を最後にレフェリーを辞めた。
なぜ辞めたのか、その理由を大島は知らない。
辞めたということは、あの笛はミスジャッジだったと認めたということなのか。
あるいは、自分に対する笛のためにレフェリーを辞めざるを得なくなったのか。
あの笛は、大島にラグビーを、そして高森にレフェリーを辞めさせるために鳴った音だったのか。
しかし、大島はグラウンドに戻ってきた。
選手としてではなく、指導者としてである。
競輪の体力作りのために、母校の京都・花園高校でラグビー部の選手とトレーニングしているうちに、再びラグビーに対する情熱が湧いてきたのだ。
あの笛は、大島からラグビーを取り上げるためのものではなかった。
そのことに気付かず、大島はラグビーから逃げようとしていた。
選手たちと接しているうちに、それがわかったのである。
指導者として再びラグビーに関わり始めた大島は、コーチの資格を得るために講習会に参加した。
その時、ある人から突然「大島」と声をかけられた。
振り返ったその声の主は、あの高森だったのである。
高森はレフェリーを辞めた後、筑波大の監督を務めていて、この講習会にも講師として参加していた。
一つの笛の音を巡り、袂を分かった二人が立場を変えて偶然に再会する――。
高森がどんな気持ちで大島に声をかけたのかはわからない。
おそらく、内心ではかなりの葛藤があったのではないか。
大島が、自分を受け入れてくれるのかという不安はあっただろう。
それでも、高森は自然体で大島に語りかけた。
「あのジャッジが妥当だったかどうかなんて、愚問ですよ」
後年、大島はそう語った。
この言葉が何を意味しているのかはわからない。
ただひとつ言えることは、大島と高森にとってはもう「ノーサイド」の笛が鳴ったということなのだろう。