10月25日、日本プロ野球(NPB)ドラフト会議が行われた。
メジャーリーグ(MLB)挑戦を表明していた160km/h男の大谷翔平(花巻東高)を日本ハム・ファイターズが強行指名、去年は日本ハム入団を拒否した菅野智之(東海大)は相思相愛の読売ジャイアンツが単独指名、4球団競合となった春夏連覇右腕・藤浪晋太郎(大阪桐蔭高)は阪神タイガースが当たりクジを引き当て、アマチュア№1投手の呼び声が高かった東浜巨(亜細亜大)は3球団競合の末福岡ソフトバンク・ホークスが交渉権を得た。
毎年、ドラフトでは悲喜こもごものドラマが映し出されるが、ドラフト指名された選手たちにとってこれが終わりではない。
これからプロの厳しい戦いが始まり、生き残るのはほんの一握りなのだ。
実際にドラフト1位でプロ入りしながら一度も一軍の試合に出られずに球界を去った選手もいれば、テスト生同然でドラフト6位という無名の高校生から一躍スターダムにのし上がった掛布雅之のような例もある。
つまり、プロで生き残るのは新人の段階での評価よりも、プロに入ってからの精進の方が遥かに大切なのだ。
もちろん中には、豊かな素質に恵まれながら怪我や病気に見舞われ、泣く泣く球界を去った選手も少なくない。
1972年、南海ホークス(現在のソフトバンク)にドラフト1位指名された大伴旭は六大学№1スラッガーと言われ、契約金も当時としては破格の1千万円を提示されていた。
しかし大伴は契約金釣り上げを狙って南海入団を拒否、ノンプロの北大阪電機入りの姿勢を見せるが、その後は改心して南海入りを決意する。
ルーキーイヤーの1973年、大伴は開幕戦からいきなり六番・サードに抜擢され、デビュー戦で3打席連続三振を喫するも、4打席目にプロ初ヒットを2点タイムリー2ベースで飾り、非凡な才能を見せた。
その後も大伴は新人らしからぬバッティングで新人王レースのトップを走り、当時は前後期制だったパシフィック・リーグで南海が見事に優勝を飾って、大伴は打率.280、本塁打10本、打点26で前期優勝に大きく貢献した。
後期も活躍が期待されたが、大伴の成績は目に見えて落ちて行った。
打率は.250まで下がり、上昇の気配はない。
実は大伴の左目は色素変性症にかかってしまったのだ。
原因不明の病気によって、野球選手にとって命とも言える目を患い、しかも色素変性症にとって最も悪いナイトゲームのカクテル光線により、左目はますます悪化していった。
遂に左目は全く見えなくなり、後期途中で球界から去ることを決意する。
入団1年目、僅か半年でのあまりにも早すぎる現役引退だった。
と、ここまで読んだ野球ファンは、
「大伴旭?そんな選手は聞いたことがないぞ」
「こんなエピソードが本当にあるなら、我々マニアが知らないわけがない」
などと言うだろう。
あるいは、
「ハハーン、あのことか。例によってアホなことばかり書きやがって」
なんてピンとくる人もいるに違いない。
そう、実はこれ、本当にあった話ではない。
もちろん、大伴旭というのも架空の人物である。
これは「あぶさん」連載当初の話であり、「あぶさん」の最初に出てきた顔もこの大伴旭だった。
「あぶさん」連載開始の1ページめ、「週刊野球」という雑誌の電車の中吊り広告に、
「ドラフト№1六大学のスラッガー大伴旭―依然南海入団を拒否!!」
という見出しと共に大伴の顔写真(もちろん漫画の中では絵だが)が載っている。
つまり、現在も連載が続く超長寿漫画「あぶさん」の最初に登場したのが、この大伴旭だったのだ。
大伴は引退後、その年のプレーオフ直前に登場したものの、その後は「ほったらかしキャラ」になってしまったが、そもそも大伴がいなければ「あぶさん」こと景浦安武は南海に入団できなかったのである。
つまり、大伴旭というキャラクターがいなければ、「あぶさん」という物語は生まれなかったと言っていい。
大伴が契約金釣り上げを狙って、入社をほのめかした北大阪電機に景浦が在籍していた。
大伴の北大阪電機入社を阻止しようとしていた南海スカウトの岩田鉄五郎(「野球狂の詩」に登場する岩田鉄五郎とは全くの別人だが、顔は同じ)が、同社の野球部に景浦が在籍していることを知る。
岩田は景浦の高校時代の監督で、155mも飛ばしたその長打力に惚れ込んでいたのだ。
ちょうどその頃、酒のトラブルで懲戒免職になっていた景浦は岩田の誘いにより、契約金50万円、年俸100万円で南海にドラフト外入団する。
今から見るとウソみたいに安い年俸だが、翌年にドラフト6位で阪神に入団した掛布の年俸はそれを下回る84万円だった。
岩田と景浦に魅せられた大伴は、契約金釣り上げをやめて南海に入団した。
なお、景浦が契約金で呑み代の借金を返すという話は、景浦のモデルとなった永淵洋三が近鉄バファローズ入団した際のエピソードがモチーフになっている。
それにしても、実際に大伴のようなケースがあったら、球団はたまったものではないだろう。
1千万円もの契約金を払い(現在の価値でいえば1億円ぐらいだろうか)、入団初年度から開幕スタメンに名を連ねるような大器を獲得しながら、たった半年で球団を去ったのだ。
もちろん、目の病気は突発的なものであり、隠していたわけではないので大伴に罪はないし、一番苦しんだのは他でもない大伴自身なのだが……。
球団とすれば、キチンと報告してくれれば手術代だって球団が負担したのにという思いだろうが、ひょっとしたら大伴は医者から治る見込みはない、と宣告されていたのかも知れない。
ちなみに、この年の実際の南海ドラフト1位は石川勝正(東洋紡岩国)という投手だったが入団拒否、その後はどの球団からもドラフト指名されることもなくプロ入りしていない。
この年の南海はドラフト指名8人中、石川を含めて4人が入団拒否(その中には、後に阪急ブレーブスなどで大活躍するドラフト4位指名の簑田浩二がいた)、入団した4人のうちそこそこ試合に出たのは投手から内野手に転向した池之上格だけで、それ以外はほとんど一軍試合出場なしという、まさしくドラフト大惨敗の年だった。
翌年の南海は前述のように前期優勝を果たし、プレーオフでも阪急を破ってパ・リーグ優勝するのだが、これが南海時代における最後の優勝だったのだから、この頃から凋落が始まっていたのだろう。
唯一の大ヒットは、63歳まで現役を続けた景浦安武だけかも知れない……?