明日、2月1日から日本プロ野球の各球団が一斉にキャンプ・インとなる。
今年はWBCイヤーということで、代表候補選手の仕上がり具合が注目されるところだ。
さらに今季は、藤浪晋太郎(阪神)、菅野智之(巨人)、東浜巨(ソフトバンク)、それに二軍スタートながら大谷翔平(日本ハム)といったゴールデン・ルーキー達が目白押しなので、キャンプ中の話題も沸騰するだろう。
ルーキーといえば今から44年前、史上空前の新人当たり年と言われたシーズンがあった。
前年オフの1968年(昭和43年)に行われた第4回ドラフトは、まさしく黄金世代。
何しろ、後に名球会入りした選手が7人もいたのだ。
【投手】
山田久志(阪急1位)284勝
【打者】
福本豊(阪急7位)2543安打 208本塁打(注:1065盗塁)
特に阪急は3人もの新人が後に名球会入りを果たしている。
しかもこの年、阪急は12位で門田博光(2566安打 567本塁打)も指名していたのだ。
結局、門田は入団拒否し、翌年南海に入団したものの、もし門田が阪急に入団していれば名球会メンバーが4人もいたわけである。
即ち、この年にドラフト指名された選手には、後に名球会入りする選手が8人もいたということだ。
さらに、後の名球会メンバー以外でも、この年の新人は大物揃いである。
この年のドラフトは、入札前に各球団で指名順位をクジ引きで決める方式だったが、1番クジを引いた東映が指名したのは東都大学リーグで21本塁打を放った亜細亜大の大橋穣だった。
プロ入り後は長打力こそ鳴りを潜めたものの、その守備力は史上最高の遊撃手と言われ、名球会メンバーを押しのけていの一番指名を受けた実力はダテではなかった。
大橋は後に阪急へ移籍、山田、加藤、福本らと共に阪急黄金時代を築いている。
なお、中日12位で入団した島谷金二も後に阪急へ移籍し、阪急黄金期のメンバーとなった。
即ち、昭和50代の阪急黄金時代は、ほとんどがこの年のドラフト選手で占められていたわけである。
それ以外でのドラフト1位組では、中日のエースとなった通算146勝の星野仙一(中日1位)、最多勝経験もあり史上初めて全球団から勝ち星を挙げた野村收(大洋1位)、ドラフト4位ながら通算128勝で400勝投手・金田正一の弟である金田留広(東映4位)など、実に多士済々。
蛇足ながら、巨人に1位指名されると信じていた星野だったが、蓋を開けると巨人が1位指名したのは島野修で、星野による「”島”と”星”の間違いではないのか」という名言を生み出した。
その島野は通算1勝4敗と、この年のドラフト組では珍しく大失敗になるが、引退後は日本球界初のマスコット「ブレービー君」になったので、ある意味では大成功組だと言えよう。
この黄金世代のドラフトで、最も注目を集めたのは法政三羽ガラスだっただろう。
法政大で主力打者だった山本浩司、田淵幸一、富田勝の3人である。
前述したように山本浩司は名球会入りしたが、ドラフトで最も注目されたのは田淵だった。
田淵は東京六大学で22本塁打を放ち、それまで長嶋茂雄が保持していた8本塁打を大きく上回り、東京六大学新記録となったのである。
中距離打者の山本浩司や富田よりも、長距離砲である田淵のスケールの大きさが高く評価されたのだ。
東京出身の田淵は巨人、広島出身の山本浩司は広島、大阪出身の富田は阪神を志望、3人とも相思相愛と思われた。
ドラフトで各球団が引いたクジ順を8位まで列挙すると、
となった。
このクジ順により、広島=山本浩司、阪神=富田は間違いない、と思われた。
ただ、田淵熱愛の巨人が8位と低い順位だったので、波乱があるかも知れない。
田淵を指名できなかった時を考えて、巨人は星野に対して「その場合は君を指名する」と約束していたのだ。
結局、巨人は田淵を指名できなかったのだが、それは全く思わぬ形だった。
1番クジの東映は前述の通り大橋を指名、2番クジの広島は相思相愛で山本浩司。
3番クジの阪神は当然、富田を指名すると思われたが、ここで大波乱が起きた。
なんと阪神は巨人熱愛の田淵を指名したのである。
会場が騒然となったのは言うまでもない。
阪神はもちろん、富田を指名するつもりだったが、阪神球団の中でただ一人、田淵を狙っている男がいた。
敏腕スカウトと言われた佐川直行である。
ドラフト制度がなかった頃、佐川が熱心にスカウトしていた王貞治の阪神入りがほぼ決まっていながら、巨人にさらわれてしまった。
佐川はその晩、酒が呑めないのに生まれて初めてビールを呑み、ヤケ酒を煽ったのである。
その恨みが、田淵強行指名に向かわせた。
田淵指名は、佐川と球団上層部しか知らない極秘事項だったのである。
阪神の田淵指名により、4番クジを引いた南海は富田指名に向かった。
南海とて在阪球団、大阪出身の富田に狙いを付けたのは当然である。
つまり、阪神の強行指名は田淵のみならず、富田、星野、島野の運命を変えた。
最初は阪神入団を拒否し、巨人の柴田勲および堀内恒夫との三角トレードまで画策されたものの(これが後の、空白の一日事件による江川卓―小林繁の三角トレードの原型)、マスコミに発覚されたためこのトレードは断念、田淵は阪神に入団することとなった。
田淵は1年目に22本塁打を放って新人王、その後も阪神の四番打者として大活躍し、1975年(昭和50年)には王を破って初の本塁打王に輝き、ミスタータイガースの称号を欲しいままにした。
早々と阪神のスターになった田淵に比べ、山本浩司のプロ生活は地味だった。
一応はレギュラーポジションを獲ったものの所詮は弱小の広島、注目される存在ではない。
そんな山本浩司がブレイクしたのは、田淵が初めてホームラン王を獲得した1975年(昭和50年)だった。
山本浩二(「浩司」から「浩二」に改名)は打率.319で首位打者に輝き初タイトルを獲得、主力打者として広島の初優勝に大きく貢献すると共に「ミスター赤ヘル」の称号を得た。
ずっと後塵を拝していた田淵に追い付いただけでなく、田淵ですら経験したことのない優勝を弱小広島で味わったのである。
この頃を境に、田淵と山本浩二の立場は逆転した。
1978年(昭和53年)に山本浩二は44本塁打を放ち初のホームラン王を獲得、田淵を上回ると共に、それまでの中距離打者から長距離砲への脱皮に成功した。
一方の田淵は、この年のシーズン終了後に西武へ放出され、「ミスタータイガース」としての田淵は消えたのである。
西武に移籍した田淵は初めて優勝を経験したものの、タイトルには無縁だった。
結局、田淵の通算成績は1532安打で名球会入り資格なし、通算474本塁打は山本浩二の536本を下回っている。
さらに三大タイトルでも、田淵は本塁打王1回のみに対して、山本浩二は首位打者1回、本塁打王4回、打点王3回と大きく水を開けられた。
安打数はともかく、ホームラン部門で山本浩二に負けたことは、田淵にとって大いに悔しいだろう。
そして今年のWBCでは、山本浩二は日本代表の監督に抜擢されている。
山本浩二と田淵は目立つ存在だったが、同じ法政三羽ガラスの富田はかなり地味な存在だった。
入団した南海というチームが地味だったせいもあるが、特に目立った活躍もしていない。
もし阪神に入団していれば、当時はサードが手薄だっただけに、スターダムに乗れたかも知れない。
だが南海入団から僅か4年後、富田は放出されることになる。
当時、南海の監督兼捕手だった野村克也は投手不足に悩んでいた。
そこで、東京六大学のスター選手だった富田と引き換えに、巨人から二軍でくすぶっていた山内新一と松原明夫(後に福士敬章と改名)を獲得。
ドラフト1位(富田)と、無名の二投手による、前代未聞のトレードである。
結局、山内はいきなり20勝を挙げ、松原も先発ローテーションに入ったのだから、野村監督にとってはウハウハだっただろう。
一方の富田は、巨人に移ってもサードには長島というスーパースターがいたのだから、控えに甘んじるしかなかった。
だが1975年(昭和50年)長島が引退して監督になったため、富田にチャンスが回ってきた。
ところが長島は、巨人が守り通してきた日本人のみの「純血主義」を捨て、サードにメジャーリーガーのデーブ・ジョンソンを自分の後釜として招いたため、富田の出番はなくなった。
だがジョンソンは全く活躍できず、巨人は史上初の最下位に沈んだため、翌年こそ巨人のホットコーナーを守れると思った富田だったが、長島は「安打製造機」張本勲を獲得するために富田と左腕エース・高橋一三を日本ハムに放出してしまった。
田淵を獲得するために阪神に入団できなかった富田は、南海に捨てられ、巨人にも捨てられ、日本ハムに流れ着いたのである。
それでも日本ハムではレギュラーポジションを掴むことができた。
富田にとって、ようやく安住の地を得たというところだろう。
と言っても、田淵や山本浩二に比べればずっと地味で、タイトルには無縁の選手だった。
通算成績1087安打、107本塁打はプロ野球選手としては成功した部類に入るが、印象に残る選手だったとは言い難い。
むしろ、引退後に出演していたテレビ番組の「たけしのスポーツ大将」で、草野球の助っ人として出場していた姿を憶えている人の方が多いのではないか。
それでも、富田にはプロ野球選手として光り輝いた瞬間がある。
1973年(昭和48年)10月11日、後楽園球場。
この年、前人未到のV9を目指す巨人と、それを阻止せんとする阪神との激しい首位攻防戦がくり広げられていた。
巨人は堀内、阪神は江夏豊という両エースが先発したこの試合、阪神打線は早々と堀内を掴まえて7点を奪いノックアウト。
もはや阪神の勝利を誰もが確信した。
ところが巨人打線は江夏に襲いかかり、こちらもノックアウト。
追いつ追われつの大熱戦となったこの勝負は、結局10-10の引き分け。
後世に残る名勝負だった。
批判が多い日本プロ野球の引き分け制度で、掛け値なしの名勝負だったのはこの日の後楽園決戦と、1988年(昭和63年)10.19の川崎球場「ロッテ×近鉄」戦だろう。
この「10.11」後楽園決戦の名勝負を生み出したのは、富田の一打だった。
2回表、サードの長島がゴロの処理を誤って指を骨折、退場を余儀なくされた。
序盤から0-7で長島を欠いた布陣の巨人は絶望的な状況だったが、それを救ったのが富田だったのである。
長島の代役で四番・サードに入った富田は、江夏からスリーランを放ち、反撃の狼煙を上げた。
江夏にコンプレックスを持っていた巨人打線は、富田の一発により火が着き、江夏をKOしてしまったのである。
絶対不利だった試合を、巨人は10-10の引き分けに持ち込んだ。
10月22日、公式戦最終日。
阪神×巨人の甲子園決戦で、優勝の行方が決する。
阪神が勝つか引き分ければ9年ぶりの優勝、巨人が勝てばV9の達成である。
結局は、9-0で巨人が圧勝して、前人未到の9連覇を成し遂げた。
勝負事にタラレバは禁物だが、富田が10.11後楽園決戦で江夏から放ったスリーランがなければ、巨人のV9はなかっただろう、
巨人9連覇阻止の野望に燃えていた阪神を沈めたのが、阪神入りを熱望していた富田の一発だった。
そして富田のホームランを、呆然とキャッチャーマスク越しに見ていたのが、富田と大学時代の同期であり、巨人入りを熱望していた阪神の田淵だったのは何かの因縁だろうか。