カウンター

安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

プロレス中継

先日、日本テレビがプロレス中継「プロレスリング・ノア」を来年の3月で打ち切ると発表した。
日テレのプロレス中継と言えば、力道山時代から担当してきた老舗中の老舗である。
当時は三菱電機という大スポンサーがバックに付き、高視聴率を稼いで日本中を熱狂させた。
「金曜夜8時=プロレスタイム」という認識が定着したのである。
今では考えられないことだが、日本で初めてプロレス番組を放送した1954年(昭和29年)、日テレだけでなくNHKまでもが力道山のプロレスを中継した。
その後は日テレの独占中継が続いたが、1963年(昭和38年)、力道山が急死、人気低下によるプロレス中継打ち切りが噂された。
しかしスポンサーの三菱電機内ではプロレス中継打ち切りなど考えもせず、これからも日本プロレス(当時、日本唯一のプロレス団体)を盛り上げていこうという意見が圧倒的だったそうである。
もしこのとき、三菱電機がスポンサーから撤退していれば、日本のプロレスはこの時点で終わっていたかも知れない。
一時は大ブームを巻き起こしながらテレビ中継が無くなってからは衰退したキックボクシングの例を見てもわかるように、当時の日本ではスポーツとテレビ局は切っても切れない仲だったのである。


力道山の死後、日本プロレスのライバル団体として国際プロレスが生まれ、TBSが中継したが、伝統のある日テレの日本プロレス中継には到底及ばなかった。
日本プロレス力道山に代わるスターとしてジャイアント馬場をエースに就かせ、さらに若手のホープであるアントニオ猪木も大々的に売り出した。
ここに馬場・猪木のBI砲による二大エース時代を迎えるのである。
しかし、両雄並び立たずの格言通り、二大エース時代は長くは続かなかった。
力道山時代以上の人気を誇るようになった日本プロレスに、日本教育テレビ(NETテレビ=現在のテレビ朝日)が中継させてほしいという申し出てきた。
日本プロレスとしては二局から中継料が入ってくるので万々歳の話だったが、日テレは当然の如く反発。
同じ試合を二局でやってはプロレス中継の値打ちはない、というわけである。
そこで妥協案として、馬場の試合は日テレが独占中継し、NETは馬場の試合を中継できない、とした。
NETは猪木をエースとして今も続く「ワールドプロレスリング」の中継を開始、日本プロレスは日テレとNETの二局中継という黄金時代に入った。


しかし好事魔多しとはこのこと。
1971年(昭和46年)、猪木は日本プロレス内でクーデターを起こし、「猪木の日本プロレス乗っ取り事件」として永久追放される。
この事件に関してはあまりにも複雑であり、かつ謎も多いので、今回は割愛する。
日本プロレスを追放された猪木は新日本プロレスという新団体を設立するが、日本人レスラーの層が薄く、有名な外人レスラーもいなかったのでテレビ局もつかず、多難なスタートとなった。
猪木の日本プロレス離脱により、最も困ったのがNETだった。
エースを失ったNETが新日本プロレスの放送をされてはかなわんと、日本プロレスは日テレとの約束を無視して馬場の試合をNETに売ってしまった。
日本プロレスの裏切りに日テレは激怒、なんと日本プロレスの中継を打ち切ってしまう。
だが、プロレス中継を続けたい日テレは、馬場に新団体設立を勧め、馬場は日本プロレスを離脱し、全日本プロレスを立ち上げる。
ここに日テレによる全日本プロレス中継が始まった。
一方、日テレが日本プロレスの中継を打ち切った後、NETはちゃっかり力道山時代からの伝統である金曜夜8時から日本プロレス中継を始めた。


だが、馬場、猪木という二大スターを失った日本プロレスは人気が低迷、NETの視聴率も振るわなかった。
そして猪木は、日本プロレスのエースとなった坂口征二坂口憲二の父親)を引き抜き、新日本プロレスに参加させた。
ここに猪木&坂口のゴールデンコンビが誕生し、NETも日本プロレスの中継を打ち切り、新日本プロレスを中継するようになった。
テレビ局を失った日本プロレスは当然のように崩壊、全日本プロレス(日本テレビ)、新日本プロレス(テレビ朝日)、国際プロレス(TBS)の三団体時代を迎える。


このうち国際プロレスはスターがおらず、TBSの中継を打ち切られて全国ネット数の少ない東京12チャンネル(現・テレビ東京)の中継で細々と活動を続けるが、全日本プロレス新日本プロレスの板挟みで1981年(昭和56年)に崩壊、二団体時代となった。
その後、日本のプロレス界は集合離散を繰り返し、現在ではテレビ中継なしでも活動を続けるプロレス団体がほとんどだが、その中でも日テレとテレ朝だけは昔からのプロレス中継を続けてきた。
日本プロレスでは総帥の馬場が死去、それにより選手の大量離脱によって三沢光晴プロレスリング・ノアを旗揚げ、日本テレビも全日本プロレスからノアに中継を切り替えたが、それも来年の3月に打ち切りとなる。
今ではプロレスよりも総合格闘技が認知されるようになったので、時代の流れとしては仕方ないのだが、やはり寂しい気がする。


僕が初めてプロレス中継を見たのは1981年(昭和56年)、当時はまだ中学生だった。
それまではプロレスのプの字も知らず、知っているレスラーの名前と言えば、ジャイアント馬場アントニオ猪木アブドーラ・ザ・ブッチャーくらいだった。
最初に見たのは日テレの「全日本プロレス中継」で、その時はチャンピオン・カーニバルの真っ最中だった。
当時は土曜日夕方の5時半からの中継だった。
なんて大袈裟なパフォーマンスをするのだろうと呆れたりもしたが、それでもすぐにプロレスの虜になった。
このときは馬場が最終戦でブルーザー・ブロディをローリング・クラッチ・ホールドでピンフォールを奪い、優勝したのを憶えている。
ジャンボ鶴田も当然出場していたが、そんな名前も知らなかったほどプロレス音痴だったのである。


ただ、アントニオ猪木が出場していないのが不思議だった。
そのことをプロレス好きの知り合いの兄ちゃんに話すと、「それは全日本プロレスで、6チャンネル(大阪の朝日放送)では猪木が出ている。新日本プロレスではタイガーマスクが出場してるぞ」と教えてくれた。
その頃、あの佐山タイガーマスクがデビューしていたのである。


兄ちゃんに言われて、6チャンネルの新日本プロレスを見た。
もちろん、金曜夜8時からの放送である。
一目見て、ビックリしてしまった。
同じプロレスでも、全日本プロレスとは全く違うのである。
まず、会場の明るさが違う。
日本プロレスがどんよりと暗いのに対し、新日本プロレスは客席まで明るく輝いていた。
今から考えたら、人気絶頂だった新日本プロレスではこれ見よがしに明るいライトで満員の客席を映し出し、全日本プロレスでは空席が映らないように照明を落としていたのだろう。
スピード感も全く違った。
猪木やタイガーマスク藤波辰巳(現・辰爾)らが繰り出すスピードあふれるファイトは、全日本プロレスの馬場や鶴田の動きがスローモーションに見えたものだ。
それが新日本プロレスの人気につながったのだろう。
当時、直木賞作家になった村松友視は自著「私、プロレスの味方です」では、猪木のプロレス(即ち、新日本プロレス)を「過激なプロレス」と命名し、最大級の賛美を贈っている。
反面、全日本プロレスには新日本プロレスにはない重みがあったとも言え、それが全日本プロレスの伝統ともなった。


僕がプロレス中継を見始めたこの年、偶然にもプロレス界は激動の年でもあった。
まずは前述したとおり、4月には新日本プロレスタイガーマスクが出現、プロレスファン以外にも大センセーションを起こした。
5月、全日本プロレスの看板外人だったブッチャーが突如新日本プロレスに登場、新日マットは騒然となった。
その後、ブッチャーはスタン・ハンセンとタッグを組み、猪木とタッグを組んだ新人の谷津嘉章をボコボコにし、デビュー戦は血の海となった。
この日、全日本プロレスからタイガー戸口が新日本プロレスに移籍、キラー・カーンと戦っている。


引き抜かれっ放しの全日本プロレスは反撃に出た。
長年、猪木のライバルだったタイガー・ジェット・シンが7月、全日本プロレスマットに登場。
馬場による猪木に対する報復手段である。
このレスリング・ウォーに対し身動きが取れなくなった国際プロレスは8月にあえなく崩壊、全日本プロレス新日本プロレスの二団体時代に突入。
国際プロレスの崩壊により、エースのラッシャー木村が猪木に挑戦状を叩き付けた。
9月の田園コロシアムで、猪木に対して木村が吠えた。


「こんばんは」


この日の田園コロシアムで、スタン・ハンセンがアンドレ・ザ・ジャイアントと合計400キロの大肉弾戦。
ハンセンはアンドレの250キロの巨体をボディスラムで投げ捨て、さらに必殺のウエスタン・ラリアートでアンドレを場外まで吹っ飛ばした。
この試合により、ハンセン人気は不動のものになった。


ところが、全日本プロレスのリング上で、ハンセンを巡る大事件が起きた。
12月の暮れの祭典、全日本プロレスのドル箱興行、世界最強タッグ決定リーグ戦最終日のことである。
優勝がかかったこの試合、ドリー・ファンクJr、テリー・ファンクザ・ファンクスが入場したあと、蔵前国技館の観客はブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ組の登場を待った。
ブロディのテーマ曲「移民の歌」が蔵前国技館内に流れ、日テレのテレビカメラがブロディ、スヌーカ組の控室から追う。


(実況)倉持隆夫「さあ、ブロディ、スヌーカ組が登場して参りました。ん?後ろにはウエスタン・ハットを被った大型の男がいますが……。(前からカメラが抜いて)あ、スタン・ハンセンだ!」
(解説)山田隆「ハンセンですよ!」
(実況)倉持隆夫「大ハプニングが起こりました蔵前国技館!ブロディ、スヌーカ組にはスタン・ハンセンという豪華なセコンド!」


このハンセン引き抜きによって全日本プロレスは形勢の不利を一気に巻き返し、馬場はプロモーターとしての底力を見せつけた。
これに対し新日本プロレスは、長州力による下克上により、日本人対決を売り物にしていく。


いずれにしても、全日本プロレス新日本プロレスがシノギを削ったこの時代、プロレス界は最も暑く燃え上がっていた。
やはりそこには、全日本プロレス新日本プロレスという、ライバル関係がお互いを刺激し合い、業界のパワーを増大させたのだろう。


しかし我々を熱狂させてくれたパワーも、現在では風前の灯である。
もはやプロレスが市民権を得るのは不可能なのだろうか。