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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

永遠の四番打者〜清原和博の高校時代(1)

1983年7月、大阪市の住之江公園球場。
梅雨が明けたばかりの空は、鬱陶しかった長い雨が全てを洗い流したように、青く澄み渡っていた。


当時高校一年生だった僕は天王寺駅から地下鉄御堂筋線に乗り込み、大国町駅で四つ橋線に乗り換え、そこから南下して終点の住之江公園駅で下車した。
駅から地上に出ると陽光が容赦なく振りかかり、ただ球場に向かって歩くだけなのに体力のムダな消耗させていた。
駅のすぐ傍には住之江公園があるが、球場までは少し歩かなければならない。
球場に行く途中にはプールがあり、夏休みに入っていたため大勢の子供たちが冷たい水を浴びて大声をあげていた。
僕が住之江球場に行くのはこのときが初めてだったが、以来この球場に行くのが好きになった。
高校野球夏の大阪大会でこの球場に行くたびに、どの球場よりも「夏」が来たことを実感させられる。


この日、住之江球場では夏の大阪大会二回戦、PL学園×大阪学院の試合が行われた。
二回戦、と言っても両チームとも一回戦は不戦勝だったため、事実上の初戦である。
よく誤解されるのだが、PLはシード校だから一回戦は不戦勝、と思っている人が大勢いる。
しかし大阪大会ではシード校制度は採用されておらず、この年のPLが一回戦不戦勝だったのは単なるクジの関係でしかない。
大阪で夏の甲子園に出場するには、一回戦からのフル出場で8回、二回戦からの登場なら7回勝たなければならない、全国でも1,2を争う激戦区である。
つまり、いくら優勝候補と言われているチームでもクジ運が悪ければ一回戦からの登場で、甲子園に出場するには8回も勝たなければならない。
もちろん、一回戦から優勝候補同士の戦いというのもありうる。
PLはたまたま一回戦不戦勝だっただけでシードとは何の関係もなかったわけだが、、一応は優勝候補の一角に挙げられていた。
だが、後年にイメージされるような「あまりにも強いPL」とはほど遠く、また無名校に足元をすくわれるのではないか、という見方さえされていた。


1980年秋、PL学園野球部監督は「関西のドン」と言われた元・南海ホークス監督の鶴岡一人の息子、鶴岡泰(現姓:山本。現シアトル・マリナーズのスカウト)から同校でコーチをしていた中村順司(現・名古屋商科大野球部監督)に受け継がれた。
中村が監督に就任していきなり近畿大会制覇、翌春のセンバツでもPLにとって春初優勝を飾った。
当時のPLはエースが左腕の西川佳明(南海ほか)、三番打者で主将の吉村禎章(巨人)、一番打者が若井基安(南海・ダイエー)などを擁し、西の横綱と呼ばれていたほどの戦力で、鶴岡監督の遺産によるセンバツ制覇とすら言われた。
しかし翌82年は「中村流」とも言えるチーム作りで戦後初のセンバツ二連覇を果たす。
エースが榎田健一郎(阪急)、捕手が森浩之(南海・ダイエー)という好選手がいたが、それ以外にこれといった逸材がいるわけではなく、守備力を徹底的に鍛え上げての甲子園制覇だった。
後の1987年に春夏連覇を果たすが、その時の原型とも言えるのがこの年のチームで、87年と同様に三人の好投手を擁しての優勝である。
現在の高校野球では複数投手制が当たり前になってきているが、当時はまだまだ一人のエースが投げ抜く時代だった。
しかし中村は時代を先取りし、複数の投手でローテーションを組むシステムを既に完成させていた。


だが、それゆえ足元をすくわれることも珍しくなかった。
センバツ初制覇した81年の夏の大阪大会五回戦、当時は無名だった大商大堺に敗れ、ベスト8にも入れずに春夏連覇の夢は潰えた。
戦後初、史上二校目のセンバツ連覇という大偉業を達成した翌年も、準々決勝で府立校の春日丘にまさかの敗退。
中村が就任して以来、春は二回とも甲子園出場していずれも優勝したが、夏の甲子園には一度も出ることができなかった。
そのため、春の甲子園には強いが夏の大阪では弱い中村PL、と揶揄された。
それだけ夏の大阪を勝ち抜くのは難しいということだが、春は甲子園制覇しかしたことがないチームが、夏は甲子園に一度も出られないというのも見事な珍事と言えるだろう。


新チームとなったその年の秋、PLは秋季大阪大会準々決勝で上宮に敗れ、翌春のセンバツ出場及び前人未到のセンバツ三連覇はこの時点で夢となった。
つまり、前の二年間よりも戦力ダウンは否めなかったわけだ。
迎えた夏の大阪大会、前述したようにPLは優勝候補には挙げられていたとはいえ、絶対的な存在ではなかった。
それは他に強力なチームがあったからではなく、この年の大阪はレベルが低い、と言われていたほどである。
センバツに出場した上宮と泉州(現・飛翔館)はいずれもベスト8にも入れず敗退、野球王国・大阪の看板に泥を塗ったとさえ言われた。
PLは春の大阪大会決勝で市立校の桜宮に敗れ、練習試合の成績も決して芳しくはなかった。
この年の大阪はかつての私学七強時代から公立も含めた三十強時代に入ったと言われていた。
これは群雄割拠というよりも、ドングリの背比べとすら言える状況だった。
そんな「レベルの低い」大阪ですら、PLが絶対的な優勝候補ではなかった最大の理由は投手力にあった。
二年前の西川、前年の榎田を含む三人の投手に比べると、明らかに質が劣っていた。
そのせいか、新チームになってからの背番号1は、秋が左腕の東森修、春が酒井徹、そしてこの夏が藤本耕と、かわるがわるエースが交代していた。
これは中村監督得意の複数投手制というよりも、頼りになるエースが不在だった現れだろう。


迎えた住之江球場での初戦、PLのマウンドに立っていたのはこの夏からエースの座に座った藤本。
このとき僕が見た藤本は失礼ながら「噂に違わぬ」平凡な投手で、二回表に大阪学院に先制点を許した。
もちろん、西川や榎田とは比べるべくもなく、あの両投手で夏の大阪大会を勝ち抜けなかったのだから、この藤本が中心の投手陣ではとても甲子園には行けないだろう、そう思わざるを得なかった。
これは相当な打線の奮起が必要だと感じた。
弱体の投手陣に比べて、前年からレギュラーの加藤正樹(近鉄)を中心とした打線は前年よりも上、と言われていた。
だがいささか長打力に欠け、弱体投手陣をどこまで援護できるかが疑問だった。


1点を先制されたPLの二回裏の攻撃は四番からの打順。
大柄の選手がノッシノッシと打席に向かった。
背中を見ると、その数字は「14」。
強打PLの四番打者が背番号14?
僕は我が目を疑った。
当時の僕は目が悪くなりかけていた頃で、眼鏡をまだ持っていなかった。
しかしどう見ても、背番号は二桁だ。
いくら目が悪くてもそれぐらいのことはわかる。
なぜ、背番号14の選手が四番打者だったのか?
ネット裏で観ていた僕には到底理解できなかった。


背番号14の四番打者の初打席の結果は、残念ながら憶えていない。
しかしその選手はこの試合で三塁線を破る二塁打を放ったのを憶えている。
なるほど、補欠とは思えない打球だ。
しかし、守備はヘタクソだった。
その選手はファーストを守っていたが、ファーストゴロを簡単に逸らしてヒットにしてしまう。
内野手からの一塁送球が逸れると簡単に後逸してしまう。
この選手は代打要員で本来なら控えの選手だが、レギュラーが怪我か何かで出場できなかったために先発起用されたのだな、と早合点してしまった。
この試合で背番号3を付けていた神野美津夫はライトを守っており、背番号9の選手(翌年に三番打者となる当時二年生の鈴木英之)は出場していなかった。
試合の結果は後半にPL打線が爆発して8−1の七回コールド勝ちだったが、PLの戦いぶりには不安が残った。
藤本が中心の投手陣に、控え選手を四番に据えなければならない打線では到底甲子園などおぼつかない。


翌日の新聞で、背番号14の四番打者が僕と同じ一年生だということを知った。
甲子園で何度も優勝したチームの四番打者が僕と同い年の男。
当時のPLでは一年生をレギュラーで使うことすら珍しかった。
リトルリーグなどで活躍した好素材を1,2年かけて鍛え上げ、レギュラーとして起用するのがPL野球。
そんな中で、一年生が四番打者になることは異例中の異例だった。


背番号14の、その男の名前は清原和博
僕が住之江球場で観たこの試合は、その後25年間続く彼の四番打者人生での「世の中デビュー」となった一戦だった。


(つづく)