日米の野球の違いは何かと問われた時に必ず出てくるのが「ファーム組織」である。
ファームが二軍しかない日本と違い、アメリカのファーム(マイナーリーグ)は3A、2A、A、ルーキーなど何重ものレベルに分かれており、選手数も日本とは比べ物にならないほど膨大だ。
そしてほとんどのドラフト指名選手がマイナーで経験を積み、実績を認められなければメジャー昇格はできない。
日本のように大学・社会人出の即戦力ルーキーなんて言葉もなく、ましてや清原や松坂のように高卒でいきなり一軍(メジャー)で大活躍、なんてのは不可能だろう。
メジャーリーグのシステムは、日本ではプロ野球よりも大相撲に近い。
大相撲の新弟子はほとんどが中卒か高卒であり、前相撲から序の口、序二段、三段目、幕下と順次上がっていき、十両で関取となって給金をもらえる身分となり、最終的には幕内で活躍することになる。
メジャーリーグで言えば、十両がメジャー登録40人枠、幕内が25人枠ベンチ入りメンバーというところだろうか。
そして大相撲では、大学や社会人で実績を認められた者には前相撲からではなく、いきなり幕下付け出しという地位が与えられる場合もある。
ただし、アマチュア横綱として実績、実力共に充分であっても、最初から十両以上の関取になることはない。
このあたりの厳しさも大相撲とメジャーリーグは似ている。
それでも、アメリカでも大卒ルーキー(アメリカには日本のような社会人野球はない)でたまに即戦力として期待され、マイナー経験なしでメジャーリーグデビューを果たす選手もいる。
有名なのはヤンキースなどで活躍したスーパースターのデーブ・ウィンフィールド。
そしてヤクルトで赤鬼ブームを日本中に巻き起こしたボブ・ホーナーもマイナー経験なしでメジャーデビューした選手だった。
前フリが長くなったが、本題のピート・インカビリアもマイナー経験なしでメジャーデビューを果たした選手である。
ということは要するに、それだけの逸材だったわけだ。
オクラホマ州立大学で活躍し、モントリオール・エクスポス(現・ワシントン・ナショナルズ)からドラフト1位指名されたインカビリアは、カナダの球団は寒くて嫌だと入団を拒否。
しかしシーズン終盤に南部のテキサス・レンジャースとのトレードを条件に入団。
入団して即レンジャースにトレードされるというまるで江川事件、あるいは荒川尭(荒川博の養子)の三角トレードのようなものだった。
逆に言えば、それだけ期待された新人だったということだろう。
こんな選手はアメリカでは珍しい。
1985年秋にレンジャースに入団したインカビリアは翌年の開幕戦でいきなり四番に座った。
海のものとも山のものともわからないド新人にいきなり四番を任せるということ自体、メジャーでは異例中の異例だろうが、それぐらいインカビリアの実力は際立っていたと思われる。
そしてインカビリアはその期待に応え、ルーキーイヤーでいきなり30ホーマーをマークした。
新人王は33ホーマーをマークしたホセ・カンセコ(オジー・カンセコの双子の弟ですね)に奪われたが、ホーナーのルーキーイヤーを越えるホームラン(23本)を打ったことは大いに賞賛される。
マイナー経験なしで30ホーマー打てる選手なんてそうはいない。
しかしその後、成績は年々落ち、自慢の長打力もルーキーイヤーが最高で、打率も一向に上がって来なかった。
結局、インカビリアはレンジャースを解雇され、メジャー球団を転々とするハメになった。
話は変わって1995年、日本プロ野球の千葉ロッテマリーンズは大きな変革を迎えようとしていた。
川崎球場を本拠地としていたロッテオリオンズ時代の「3K球団」のイメージを完全に払拭し、美しい千葉マリンスタジアムの元、スマートで強いチーム作りをして千葉のファンに訴えようとしたのである。
その第一弾が、かつての巨人の名ショート、さらに弱小球団だったヤクルトや西武を日本一に導いた名称、広岡達朗のゼネラル・マネージャー(GM)招聘だった。
当時の日本プロ野球にはGMという概念がなく、野球を知り尽くした広岡が球団フロントに入るということが、メジャーリーグのシステムに一歩近づけるのではないかと期待された。
広岡GMの最初の仕事は、監督の招聘だった。
広岡はメジャー監督の経験があるボビー・バレンタインに目を付け、監督に起用した。
さっそく広岡はバレンタインと外国人獲得について相談し、
「パ・リーグにはいい左投手が多いので、サウスポーに強いホームランを打てる右の大砲が欲しい。(バレンタインが提示したリストを見て)インカビリアはどうだろう?」
と訊いた。
バレンタインは、
「インキー(インカビリア)はサウスポーを打てるが、高めの速球に弱い」
と答えた。
広岡は、多少の欠点は仕方がないと思ったのか、インカビリアをテストしようと日本に呼んだ。
インカビリアは日本でのテストでオーバーフェンスを連発し、広岡をはじめスタッフをビックリさせた。
さすがはマイナー経験なしのメジャーリーガーである。
善は急げとばかり、ロッテは慌ててインカビリアとの契約書を作成した。
しかし、バレンタインには一抹の不安があった。
それはインカビリアの穴の多さもさることながら、実はレンジャース時代にインカビリアを解雇したのが他ならぬバレンタイン監督だったのである。
インカビリアはルーキーイヤーこそ30本のホームランを打ったものの、その後はジリ貧で低打率。
僅か5年で解雇し、インカビリアとはギクシャクとした仲になり、それ以来口を聞いたこともなかった。
だが、プロがそんな私情にこだわるなど許されるはずもなく、チームがインカビリアを必要とするならば、上手くやっていこうとバレンタインは考えた。
しかし、肝心のインカビリアの調子が一向に上がらず、日本の投手のキレのいい変化球の対応に苦しんだ。
打率は1割台、自慢の長打力もなかなか発揮できなかった。
それでもバレンタインはインカビリアを使い続けた。
インカビリアをベンチに置いておくにしては、サラリーが高すぎたのだ。
すると今度は日本人選手から不満の声が上がった。
監督は同国人の選手をエコヒイキして使っている、と。
インキーとはギクシャクしていると思っていたのが、今度は日本人からエコヒイキと思われている……。
もうバレンタインも決断せざるを得なかった。
インカビリアをファームへ落としたのだ。
メジャーリーガーでマイナー経験がなかった男が、皮肉にも極東の日本でマイナー(二軍)落ちを経験したのである。
バリバリのメジャーリーガーにとって、これほどの屈辱はあるまい。
結局日本での成績は1年間で本塁打10本、打率.181に終わった。
ロッテを1年で解雇され、アメリカに戻ったインカビリアはフィラデルフィア・フィリーズとマイナー契約。
自身初のアメリカでのマイナー生活を余儀なくされたが、その後すぐにメジャーに昇格。
シーズン中にボルティモア・オリオールズに移籍したが、この年は18本塁打を放ち、長打力の片鱗を見せた。
インカビリアの場合はダメ外人というより、日本野球の水に合わなかったということだろう。
日本滞在期間1年。出場71試合。本塁打10本。打点31点。打率.181。盗塁1。