ゲーリー・トマソン(巨人)
記念すべき第1回目は、リクエストが多かったトマソン。
何しろこの男、巨人ファンからは「トマ損」と呼ばれ、ムダな建築物を意味する「超芸術トマソン現象」という言葉を生み出した(命名・赤瀬川原平)。
現在でも「巨人のダメ外人」と言えばトマソンを連想する人が多くいる。
しかし、記録を調べてみると、1年目は打率こそ低いが、ホームランは20本とそこそこの活躍をしている。
ハッキリ言って、後年のマントやカステヤーノに比べると遥かにマシな成績である。
ではなぜ、トマソンに対する風当たりはこれほど強かったのか?
それは当時の時代風景が関与していたと思われる。
昭和40年代、日本野球は巨人の独壇場だった。
前人未到のV9を果たし、「巨人、大鵬、卵焼き」の時代だった。
「日本プロ野球=巨人」のイメージが定着し、「巨人は球界の盟主たれ」が実現した時代だと言える。
それだけではない。
V9時代、巨人は外人選手に頼らず、日本人のみの純血主義を貫いた(王は日本人じゃない、というヤボな意見はさておいて)。
しかしV9時代も終焉を迎え、昭和50年に巨人をずっと引っ張ってきた川上監督から長嶋監督に引き継がれたときに、長嶋は自分の後釜としてメジャーリーガーのデーブ・ジョンソンを引き抜いたのである。
巨人が伝統ある純血主義を放棄した瞬間だ。
それまで巨人は、ウォーリー与那嶺やエンディ宮本などのハワイ出身の日系人が外国人選手として活躍したことはあったが、完全な「ガイジン」は初めてだった。
この巨人初の外人選手の起用にアレルギーを感じる巨人ファンは結構多く(筆者の父親がそうだった)、また初年度のジョンソンの成績が振るわなかったことで「ジョン損」と揶揄された。
その後、巨人は他球団並みに外人枠二人を使うようになったが、ほとんどがハズレ外人だった。
そんなときにやってきたのがこのトマソン。
間の悪いことに、リンドのようにほとんど出番が無ければさほど目立たなかったのだろうが、130試合中120試合も出場した上に、巨人に在籍したこともあって毎試合が全国中継。
従って、20ホーマーよりも、当時のセ・リーグ記録に迫る132三振の方が目立ち、新記録を作らせないために巨人がトマソンを残り試合に出場させなかったという噂が立ったほどだった。
そして2年目はメジャーリーガーのプライドと球界の盟主のプライドがぶつかり合い、両者は衝突。
試合出場は47試合にとどまり、ホームランは0本。
淋しく日本を去った。
このように「ダメ外人」の代名詞のように語られるトマソンだったが、1年目の働きを高く評価する人も多い。
「トマソンはダメ外人の典型のように言われているけど、ええところで打ってるで。ガンちゃん(藤田監督)の1年目の優勝は、トマソンの働きが大きいんやないかな」と語っていたのは故・青田昇である。
時代背景によりトマソンをダメ外人の代表のように言われているが、本人も日本野球に順応しようという努力をすれば、優良助っ人になれた人材かも知れない。
日本滞在期間2年。出場167試合。本塁打20本。打点55点。打率.249。盗塁5。