前回は巨人の黄金期について触れてみたが、今回はもう少し深く掘り下げてみたい。
昭和40年代(1965〜74年)の10年間、巨人が日本一を経験しなかったのはたった1回しかない。
即ち、日本シリーズ9連覇という空前絶後のオバケ記録を達成した時代である。
「巨人、大鵬、卵焼き」と言われた頃で、プロ野球人気=巨人人気と言っても過言ではなかっただろう。
おそらくプロ野球ファンの6割以上は巨人ファンだったのではないか。
巨人V9が終わっても巨人人気は続き、ドラフト制度の効果もあって戦力は均衡化し、ペナントレースはスリリングな展開となってかえってプロ野球人気は爆発した。
1980年代、巨人戦の視聴率は20〜30%を常に稼ぎ出し、それまでテレビ中継開始が午後7時半だったのが午後7時に繰り上げられ、午後9時に打ち切りになっていた放送も30分延長するようになったのである。
その巨人人気の基礎を作ったのはV9時代であることは言うまでもない。
しかし、よく考えれば(いや、それほど考えなくても)異常な現象である。
12球団ある内の1球団に6割の人気が集中し、テレビに登場するのはその球団絡みの試合のみ。
球場が満員になるのも、その球団絡みの試合のみ。
そして何よりも不思議なのは、ほとんどの人がこの異常な事態を当たり前と思っていたことだ。
他球団のファン、特に当時は交流戦がなかったため巨人戦が組めなかったパ・リーグのファンは、いくら我々の贔屓球団の試合をテレビ中継せよ、と訴えたところで所詮はゴマメの歯軋り。
巨人ファンが6割とすれば、1割が阪神ファン、残りの2割をセ・リーグ4球団のファンで分け合い、さらにその残りの1割をパ・リーグ6球団で分け合っていたようなものだから、パ・リーグファンの訴えなど声なき声としてテレビ局からは無視されて当然というもの。
平家物語ではないが、まさしく「巨人でなければプロ野球でない」である。
こんな状態でよくプロ野球が成り立っていたなと感心するが、似たようなプロスポーツ興行があった。
ちょうど巨人V9時代、アメリカに存在したプロレス組織のNWAである。
当時のアメリカにはニューヨークのWWF(現在のWWE)やミネアポリスのAWAというライバル団体があったが、NWAは全米を統括し、NWA世界ヘビー級チャンピオンは最も権威のあるベルト、と言われた。
では、NWAチャンプとはどんな存在か?
最も権威があるチャンピオンなのだから強さが求められるのは当然だが、それだけではNWA王者は務まらない。
アメリカのプロレスには各州にチャンピオンがいて、NWA王者は全米をサーキットして州チャンピオンの挑戦を受けなければならない。
ここで簡単に負けてベルトを明け渡すことは許されないが、州チャンピオンを一撃で倒してしまっては意味がない。
州チャンピオンの地元で戦うNWA王者は、いわばヒール(悪役)である。
州チャンピオンを引き立てて見せ場を作り、地元ファンを熱狂させたうえで、チャンピオンベルトを守り抜く、というテクニックが必要だ。
そのためにはしっかりとしたレスリングの技術が必要で、ファンをハラハラドキドキさせながら相手を仕留め、敵地のファンを納得させる実力がなければ、NWA王者としてはふさわしくなかった。
地元チャンピオンが負けても、あんなNWA王者を我が州から出したい、とファンに思わせるのが真のチャンピオンである。
これはNWA王者の地元でタイトルマッチを行う場合も同じことで、もちろん地元で負けることは許されないが、ベビーフェイス(善玉)としてファンを魅了するレスリングをしなければならない。
ヒールだろうがベビーフェイスだろうが、王者としてのレスリングをできなければNWAチャンピオンとしては認められないのである。
その理想的なNWAチャンピオンだったのが、「20世紀最強の鉄人」と呼ばれたルー・テーズである。
V9時代の巨人がまさしくルー・テーズだった。
当時の巨人の本拠地だった後楽園球場ではもちろん、首都圏の明治神宮球場や川崎球場(当時の大洋ホエールズの本拠地)でさえほとんどが巨人ファンで埋め尽くされ、巨人は堂々と王者としての野球を披露することができた。
いわば本拠地球場が6球場中半分もあったのだから、巨人にとってかなり有利な状況である。
しかし名古屋で中日スタジアム(当時の中日ドラゴンズの本拠地)、大阪(関西)で阪神甲子園球場、広島で広島市民球場(当時の広島東洋カープの本拠地)で戦うときは、完全なヒールとなってしまう。
しかし敵地で巨人が勝ち、時にはファンが暴動することもあったが、基本的には「巨人には敵わない」とファンが納得せざるを得ない強さが巨人にはあった。
その強さとは、決して力任せではなく、味わい深さのある強さである。
そして優勝するのは、いつも巨人だった。
そのあたりも、何度もNWA王座防衛を重ねたルー・テーズに似ている。
もちろん、プロレスと違ってアングル(主催者による筋書き)がないプロ野球では、同列に語ることはできない。
それでも当時の巨人には、9連覇が不自然に感じさせないほどの、天の配分があったのである。
普通なら、どのチームが優勝するかわかっていたら、ファンの興味は半減する。
しかし、巨人は勝ち続けながらもファンを飽きさせなかったのだ。
まずは、王貞治と長嶋茂雄の、いわゆるON砲という不世出のスーパースターが同時に在籍していた点だ。
この二人がいれば、他球団のファンはひれ伏すしかない。
そして阪神でいえば、村山実や江夏豊といった大エースがON砲に真っ向から勝負を挑んだのだから、ファンにとって勝敗を度返しできるほどの対決を堪能できた。
さらに、ON以外でも主力選手がほとんと巨人の生え抜き選手だった点も大きい。
柴田勲、高田繁、土井正三、末次利光、森昌彦といったいぶし銀の野手陣に、堀内恒夫、高橋一三を中心とした投手陣。
いずれも子飼いの選手たちである。
V9時代の前半には、B級14年選手制度(一定期間に球団に所属していれば、球団からボーナスを受け取るか、あるいは他球団移籍を選択できるという、FAに似た制度)により巨人に移籍してきた、国鉄スワローズ時代は353勝を挙げた金田正一がいるが、これは例外と言っていい。
それ以外の他球団から移籍してきた選手は、いわば補助的な存在で、ほとんどが生え抜きの選手でレギュラーを固めていたのである。
それだけでなく、当時の巨人は外国人選手を起用することなく、純血主義を貫いていた(王は台湾籍じゃないか、というツッコミは無視して)。
そんな巨人の特殊性を束ねていたのが、「管理野球の元祖」とも言われる川上哲治監督だった。
川上野球の象徴でもある生え抜き主義、純血主義は、当時の日本人の心情にマッチした。
他球団はトレードや外国人選手に頼って強化を図っているが、球界の盟主たる巨人軍は多摩川(当時の巨人二軍の練習場)で鍛え上げられた者のみが、栄光の後楽園球場に立つ権利がある、と。
安易な外国人助っ人やトレード選手では、巨人は成り立たない、という思想があった。
現在の、FAでなりふり構わず他球団のFA選手を買い漁る巨人の姿勢とは正反対だが。
何を隠そう、僕の父親が川上野球信望者で、川上監督が退陣したあとに長嶋監督が次々に外国人選手を雇ったことに対し「日本のプロ野球は日本人のみでやるべきだ」と嘆いていた。
今のプロスポーツでは全く滑稽な理屈だが、戦時中を生きた僕の父親の年代には、当たり前の思想だとも思える。
しかし、巨人のアドバンテージを失くしたのがドラフト制度だった。
ドラフト制度が始まったのが、巨人の9連覇が始まった最初の年の1965年。
と言っても、当初の巨人の主力選手はドラフト以前に獲得した選手ばかりなので、巨人に影響はなかった。
ドラフト以前は、南海ホークスに決まりかけていた長嶋を強奪し、阪神入団寸前だった王を強引に巨人入団させた。
そんな選手たちがV9時代の巨人の主力選手になったのだから、ドラフトに左右されることはなかったのである。
だが、巨人V9が終わると共に長嶋は引退し、川上監督に代わって監督を務めるようになってから巨人は変質した。
ドラフト制度による戦力均衡の効果が出始めたのが、巨人V9が終わった昭和50年代である。
それまではご法度だったデーブ・ジョンソンなどの外国人選手を入団させ、パ・リーグからは安打製造機と謳われた張本勲をトレードで獲得し、王と並ぶ中心打者に据えたのだ。
こんな戦力補強は、現在では当然のことなのだが、当時の巨人としては驚天動地のことだった。
ドラフト制度により、思うような戦力補強ができなくなったための、苦肉の策だった。
そしてそれが、あの忌々しい「江川卓、空白の一日事件」に繋がるのである。
江川事件により巨人がイメージダウンしたとはいえ、その後の巨人は人気を回復した。
巨人の伝統とは関係なく、個人の主張を押し通すダーティ・ヒーローだった江川も、その生き方に当時の若者たちが共感し、原辰徳や中畑清など、個性的な選手が人気を集めたからだ。
しかしそれは、過去の巨人中心によるビジネスが通用しなくなった序章だったのである。
時を同じくして、アメリカのプロレス界も転換期を迎える。
昔のNWAのような、味わい深いレスリングを主体とした試合はファンに受けなくなり、次第にハルク・ホーガンのような筋骨隆々の、たとえレスリングができなくても相手をパワーで圧倒するような試合がファンの喝采を受けた。
ホーガンはWWF世界ヘビー級のチャンピオンとなり、全米中のスーパースターとなって、伝統あるNWAのプロレスを骨抜きにしてしまったのである。
そして現在のWWEでは、レスリングとは全く関係のないパフォーマンスが主流を占め、全ての試合は台本があるショーであるとカミングアウトして、プロレス人気を保っている。
プロレスとは「プロフェッショナル・レスリング」の略だが、WWEのプロレスには、その根本となる「レスリング」は存在しない。
やがて巨人も、ただ勝つだけではファンを集められない状況になってしまった。
人気回復のために長嶋を巨人に迎えて、さらにカネに任せた大型補強をして、たとえ優勝しても巨人の人気回復には至らなかったのである。
要するに、どうやって巨人という球団がファンに認知されるか、巨人の経営陣は全くわかってなかったわけだ。
それが今回の「清武の乱」に繋がったと言えよう。
つまり、巨人の経営陣(ハッキリ言うと、渡邊恒雄会長)は、「巨人が勝てば読売が儲かり、はたまたプロ野球界全体が儲かる」という、1990年代に崩れてしまったビジネスモデルを未だに信じ込んでいる、としか考えられない。
WWEによるアメリカン・プロレスは、かつてのNWAによるレスリングのムーブメントを排除して、ショーマン・スタイルを推進して今日の栄光を勝ち取った。
だがそれは、プロレスにとって本当にいいことなのかはわからない。
日本プロ野球は、かつての巨人中心のビジネスモデルを否定しつつ、パ・リーグではメジャーリーグのように本拠地を分散して新たなビジネス展開をしようとしている。
札幌のファイターズ、仙台のゴールデンイーグルス、千葉のマリーンズ、福岡のホークスによるファンの熱狂ぶりは、セ・リーグでは大阪のタイガースと広島のカープでしか堪能できない。
東京のスワローズと横浜のベイスターズは所詮は巨人のおひざ元である首都圏球団で、親会社の宣伝効果を考えて本拠地移転の勇気なんてないし、名古屋のドラゴンズはいくら優勝しても落合監督の矮小化野球に地元ファンですらソッポを向かれる始末。
落合竜のセコイ野球がセ・リーグの覇権を握っている間に、パ・リーグのダイナミックな野球に遅れをとってしまったのである。
そして今や「人気のパ、実力のパ」となってしまった。
これはもう、首都圏に球団を集めている弊害以外の何物でもない。
セ・リーグの6球団中、3球団も首都圏に集中する意味があるのだろうか。
かつてのNWAチャンピオン式のビジネスモデルは、日米問わずにとっくに崩れ去っているのである。