桑田、清原の活躍で大阪大会準決勝まで進出したPL学園は、日本生命球場で茨木東と対戦する。
僕はこの年のPLにとってキーポイントとなる試合が二試合あったと思っているが、そのうちの一試合がこの試合である。
このときの茨木東は創立僅か四年の府立校。
それがこの年の大阪大会で大躍進しベスト4進出、全国にその名を轟かせるPL学園と対戦した。
格が違いすぎるため、PLの完勝が予想された。
PLの先発は三年生の酒井徹。
しかし初回に早々と先制の1点を与え、三年生左腕の東森修にスイッチ。
東森は点を与えなかったが、五回には早くも切り札の桑田を投入してきた。
早すぎる桑田の登板の原因は、茨木東のエース・後に阪急(現・オリックス)に入団する山内嘉弘の存在だった。
山内の投球内容は素晴らしく、PL打線に付け入る隙を与えなかった。
無名の新鋭府立校、茨木東に舞い降りた奇跡のような救世主が山内だったのである。
山内からはそうは点が獲れないと踏んだ中村監督が、早すぎる桑田の投入を決断したのである。
余談だが、山内は高校卒業後、近畿大に進み、全日本大学選手権の近畿地区第一代表決定戦で、この日PLの先発投手だった酒井と投げ合っている。
その試合で山内は、酒井を擁するの大阪経済大を相手になんと完全試合をやってのけた。
プロ入り後は故障に泣かされて大成できなかったが、山内は大阪の名門私立高校でエースとして活躍してもおかしくない投手だったのである。
試合は1−0で茨木東リードのまま山内―桑田の投げ合いが続き、終盤の8回裏を迎えた。
創立四年の府立校が天下の名門・PLを倒すのか?
日生球場は異様な雰囲気に包まれた。
なにしろ7回裏のPLの攻撃、二死満塁でバッターは三番の加藤という絶好のチャンスを迎えたが、山内は加藤を三振に打ち取ったのである。
こういう流れになると、無名校は強い。
負けて元々の無名校は勢いづくし、勝って当たり前の強豪校は「勝たなければいけない」という呪縛に捉われ、そのままズルズルと敗戦の一途を辿ってしまう。
そんな悪い流れを断ち切ったのが清原のバットだった。
清原は山内の球を叩き、レフトオーバーのツーベース。
主将の朝山憲重がヒットで続きさらに盗塁、森上弘之のヒットで二者を迎え入れ逆転に成功したのである。
9回表、桑田はピシャリと締め、PLはなんとか決勝に進出した。
「逆転のPL」の神話がここに出た。
この試合、どう考えてもPL敗戦の流れだった。
そんな試合に勝利したことが、この試合がPLにとって第一回目のキーポイントと考える所以である。
この試合でPLがもし負けていれば、その後の桑田、清原の活躍があったかどうかわからない。
それほどの試合だった。
薄氷の勝利を得たPLが決勝で戦った相手は大阪市立校の桜宮だった。
こちらは公立校とはいえ、大阪の強豪校として名を連ねていた。
当時の公立校としては珍しい体育科コースを設け、前年のセンバツでは大阪の公立校としては18年ぶりに出場し、この年の春季大阪大会ではPLを破り優勝していた。
また、この夏の大会の準決勝ではセンバツ出場の上宮相手に8−2とあわやコールドの大勝を収めている。
試合前の予想では桜宮有利、だった。
PLはこの強敵に対し、「秘密兵器」の一年生、田口を先発マウンドに送った。
ところがこの田口が乱調で初回にいきなりピンチを招き、さらにピッチャーライナーを受けて無死満塁と一死も取れぬまま降板。
急遽リリーフに立った東森は走者一掃の三塁打を打たれ、いきなり3点のリードを許す苦しいスタート。
しかしその後は東森が立ち直り、打線も加藤、朝山のホームランでなど逆転し、9回表を迎えた。
ランナーを出したところでPLはとっておきの切り札、桑田を投入し、桑田は見事にピンチを切り抜けて5−3の勝利、夏の甲子園出場を決めた。
またもや「逆転のPL」のお家芸を披露した試合になったが、これも準決勝での逆転劇があればこそだ。
準決勝で消えていれば、この試合での逆転劇はありえない。
僕が準決勝の茨木東戦を「第一のキーポイント」に挙げるのはそのためである。
また、準決勝でギリギリの勝利を得たからこそ、この日の逆転劇が生まれた。
中村監督はこの年より三年前の1980年の秋にPLの監督に就任。
そしてその年の秋季近畿大会でいきなり優勝し、当然のことながら翌春のセンバツに出場した。
その81年のセンバツでは主将の吉村禎章(元・巨人)、エースの西川佳明(元・南海・ダイエー―阪神)、トップバッターの若井基安(元・南海・ダイエー)らを擁し、見事に優勝した。
さらに翌年のセンバツでは榎田健一郎(元・阪急)と森裕之(元・南海・ダイエー)のバッテリーで戦後初のセンバツ二連覇を達成した。
ところがセンバツ二連覇を果たした二年間、いずれも夏の大阪大会で敗退し、中村監督は夏の甲子園出場を果たせないでいた。
甲子園では負けないが、夏の大阪大会には弱い中村PL。
そう揶揄された。
夏の大阪大会が終わる頃、毎年8月1日にはPL花火大会が催される。
その規模は日本一と言われるが、中村監督はこの壮大な花火を二年間、実に虚しい気持ちで眺めていた。
センバツでは二連覇しても、夏の甲子園には出場できない悔しさ。
壮大なスケールのPL花火が、まるで線香花火のように一瞬に消える、儚い光に見える。
それがこの年、センバツには出場できなかったが、夏の甲子園出場が決まって鮮やかな花火を胸を張って観ることができた。
こうしてPL学園は、1978年の奇跡の逆転初優勝以来、5年ぶりの夏の甲子園出場を決めた。
しかし、全国屈指の名門校であるPLが一年生エースと四番打者を抱えているにもかかわらず、ほとんど注目されることはなかった。
それは、この年の高校野球では圧倒的に注目される高校があったからである。
その高校とは、史上初の夏春夏三連覇の期待が掛かる徳島県立池田高校だった。
1983年の夏の甲子園は池田一色に染まり、PLが一年生エースと四番を擁していても、完全に無視される存在だったのだ。
(つづく)