今日、関西ローカル番組で「虎の赤ちゃんを育てる犬」という特集をしていた。
内容は、動物園にいる母親の虎が赤ちゃんを産んだが子育てをしようとせず、その赤ちゃんが瀕死の状態になっていたところ、死産したばかりのメスのフレンチブルドックが虎の赤ちゃんに近付き、お乳を飲ませたというもの。
その後、虎の赤ちゃんはメス犬の育児によって順調に育ち、犬より大きくなった虎はそれでも「育ての母親」たるこの犬に甘え、じゃれあっている姿が映し出されていた。
この映像を見て思い出したのが、小学校のときの国語の教科書だった。
詳しいことは憶えていないが、やはり動物園にいる虎が出産しても子育てをしようとせず、やむなく犬に育てさせたというお話。
今日のテレビと違うのは、今日の放送で取り上げられたのは、犬が勝手に虎の育児を始めたのだが、教科書に載っていた話は、人間が犬に育てさせようとした点である。
どういうことかというと、動物園の人が虎用の濃いミルク(牛乳では虎にとって薄すぎるらしい)を作って育てようとしたが、それよりは虎に近いお乳が出る犬に育ててもらおうということだった。
この動物園側の作戦は成功し、犬は母親として見事に虎を一人前に育て上げた。
その後この二匹は引き離されて別々の人生(犬生、あるいは虎生?)を歩んだが、「母親」よりも大きくなった虎と犬が再会した時、虎はちゃんと「母親」を憶えていて、犬に甘えていたという。
しかしよくぞ小学校時代の教科書の話を憶えていたものだと、我ながら感心する。
数日前にも英語の教科書のことを書いた。↓
http://d.hatena.ne.jp/aigawa2007/20071001
実はこのネタを書いたきっかけは、あるラグビー専門のSNSで、我が国のベ・タント事務総長と同一人物ではないかと疑われている者が、小学校の教科書で「関西弁での『ほかす』が、他の地方では『保管』と誤解された」と書かれていた、と書いていた。
僕もこの話は憶えている。
事務総長と思われる人物が通っていた小学校では、恐らく国王の小学校と同じく、国語の教科書は「光村図書」を使用していたのだろう。
これ以外で「光村図書」の国語教科書で憶えている話といえば、アフリカ人のハーミシさんの話。
ある日本人がアフリカ(ケニアだと思う)に行って、運転手のハーミシさんとアフリカの道を車で走った。
ところが通れない道があり、身動きがとれなくなってしまったところ、日本人がハーミシさんに「こうしてみてはどうか」と提案した。
するとハーミシさんは「やってみましょう」と答えた。
「やってみましょう」アフリカ人がよく使う言葉です、と教科書には書かれていた。
つまり、日本人みたいにわざと反論したり、もったいぶったりはせずに、とにかく実行してみよう、それでダメなら別の方法を考える、というのがアフリカ人だ、と教科書には書いていた。
今から考えると、「アフリカ人」ってメチャメチャ範囲が広いぞ、とか、「やってみましょう」なんて日本語をアフリカ人がよく使うのか、なんていう、どーでもいいツッコミが思い浮かぶが、読み物として面白かったからこそ歳をとっても憶えているのだろう。
だから、子供の記憶をバカにはできないのである。
よく親が成長した我が子に「あんた、そんな何年も前のこと、よう憶えてるなあ」なんて言うことがあるが、これは大人の感覚である。
子供は、幼少期に経験したことや、見聞きしたことは実によく憶えている。
自分のことを振り返ってみれば、それくらいのことはわかるだろう。
しかし、そのことを理解せず、子供を一人の人間とみなしていない大人は実に多い。
子供は大人が考えている以上に、実にさまざまなことを考え、経験をしたことに対して多大なる影響を受けているのである。
虎だって、自分を産んでもいない犬のことを「母親」と認識しているではないか。
虎にとってみれば、実際に自分を産んだ母虎よりも、実際に育ててくれた他人(?)の犬の記憶の方がずっと大事なのである。
ところで国王は、最近物忘れがかなりひどい。
実に困ったものだ。
ぜひとも小学生時代の記憶力を取り戻したいものである。
小学生時代の記憶力を「我ながら感心」している場合ではない。