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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

”永遠の学園”PL学園・甲子園優勝物語②~深紅から紫紺へ・センバツ初制覇編

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PL大平和祈念塔とPL桜(大阪府富田林市)

 

★1981年春(阪神甲子園球場
 第53回選抜高等学校野球大会

●一回戦

岡山理大付 000 000 000=0
P   L 000 000 23X=5

 

●二回戦

P  L 000 000 001=1
東海大工 000 000 000=0

 

●準々決勝

日立工 000 000 020=2
P L 301 003 01X=8

 

●準決勝

倉吉北 000 000 000=0
P L 000 001 21X=4

 

●決勝

印旛 000 001 000=1
PL 000 000 002x=2

 

◎中村新監督誕生

1978年夏、甲子園初制覇を果たしたPL学園(大阪)は、翌79年にも春のセンバツ出場し、春としては初のベスト4入りしたが、同年夏、翌80年春夏と3季連続で甲子園出場を逃した。

不振の責任を取り(当時のPLでは3季連続で甲子園不出場だと”不振”だった)、PLを甲子園初制覇に導いた鶴岡泰(現姓:山本)監督が辞任したのである。

代わって新監督に就任したのが、鶴岡監督の下でコーチを務めていた、同校OBの中村順司だった。

1980年秋、新チームになって弱冠34歳の中村監督が初采配を振るうことになったのだ。

 

中村監督が気にかかっていたのは、旧チームから二年生ながらエースだった左腕・西川佳明(元:南海ほか)のことだった。

いい球を持っているのに、後半になると崩れる。

顔色も、どことなく悪いように見えた。

本人に問い質しても、体調は悪くない、という答え。

そこで中村監督は、西川をPL病院に連れて行った。

 

西川の診断結果は、貧血症。

原因は極度の偏食で、西川はニンジンやピーマンなどの野菜をほとんど食べなかったのだ。

PLは全寮制ながら、野球部としては健康面はほとんどノータッチだったのである。

これではいけないと、中村監督は定期的に選手たちをPL病院へ連れて行き、健康診断を受けさせた。

結果、西川の偏食は直り、終盤に乱れる悪癖も解消したのである。

 

中村監督が着手した改革は、健康面だけではなかった。

選手たちとの交換日記を始めたのである。

これによって、選手たちが何を考えているか、どんな悩みを持っているのかを把握できるようになったのだ。

しかし、中村監督の狙いは、それだけではなかった。

選手たちが社会に出ると、文章を書かなければならない場面が必ず出てくる。

その時に備えて、文章を書く訓練をさせていたのである。

 

さらに、鶴岡監督時代は特別カリキュラムを組み、授業は午前中のみで午後から練習だったが、中村監督になってからは一般生徒と同じく授業は6時限目まで、練習開始時間も他校と変わらない午後3時からとなった。

野球だけやらせるのではなく、学力も身に付けさせてバランスの取れた人間に育てようとしたのである。

練習時間が減った分、効率化が図られた。

 

そして、高校生には将来性があることを踏まえ、欠点を矯正するよりも、長所を見つけてそれを伸ばすように指導した。

それだけでなく、目先の勝利を狙った奇策は好まず、あくまで正攻法で試合に臨んだのである。

小手先で勝っても、選手は成長しない。

それが中村監督の信念だった。

そのため、選手たちには野球の基礎を徹底的に叩き込み、「30歳過ぎまで野球を友としてプレーできる選手」に育てようとしたのだ。

そのため、中村監督は自らを「技術屋」と呼んでいた。

 

◎西の横綱

中村新監督となったPLは、80年の秋季大阪大会で優勝した。

近畿大会では、翌年夏にエースで四番の金村義明(元:近鉄ほか)を擁して甲子園制覇を果たす報徳学園(兵庫)を西川が完封するなど、圧倒的な力で勝ち進んで優勝した。

もちろん、翌1981年春のセンバツには、文句なしで選ばれたのである。

 

この年のセンバツで優勝候補に挙げられたのは、前年夏の甲子園で一年生エースの荒木大輔(元:ヤクルトほか)を擁して準優勝に輝いた早稲田実業(東京)。

そして、エース西川の他に主将で三番の吉村禎章(元:巨人)一塁手、リード・オフ・マンの若井基安(元:南海・ダイエー右翼手など、タレントを揃えていたPLも「西の横綱」と呼ばれ、早実と並ぶ優勝候補に数えられていた。

さらに、捕手で四番打者だったのが田淵幸一(元:阪神ほか)の遠縁という田淵哲也、そしてセンバツではベンチ入りしなかったものの前年秋の近畿大会に出場した植草裕樹朝日放送(ABC)アナウンサーである植草貞夫の息子だった。

この年のPLは、近親者が有名人という選手がなぜか多かったのである。

 

やがて開幕した春のセンバツは、大波乱の幕開けだった。

「東の横綱早実が東山(京都)に不覚を取り、初戦敗退したのである。

さらに報徳学園も、剛腕・槙原寛己(元:巨人)を擁する大府(愛知)に敗れ、一回戦で姿を消した。

 

PLも対岸の火事ではなく、初戦は病気によってエースを欠く岡山理大付(岡山)に大苦戦、序盤は無得点も終盤にようやく打線が繋がり、5-0でなんとか中村監督に甲子園初勝利をプレゼントした。

二回戦は東海大工(現:東海大静岡翔洋に統合、静岡)のエース成田仁弘が好投、PL自慢の強力打線が沈黙したが、9回表の二死無走者から吉村がソロ・ホームラン、西川が虎の子の1点を守り切って1-0でなんとかベスト8に駒を進める。

準々決勝の日立工(茨城)戦では打線がようやく爆発、西川は今大会初めて失点したものの8-2で完勝、2年ぶりにセンバツ4強に進出した。

準決勝では山陰の強豪・倉吉北(鳥取)に苦戦しながらも、またもや西川が完封、PLは春のセンバツでは初の決勝進出を果たしたのである。

 

◎「逆転のPL」を再現

決勝の相手は、センバツ2回目の出場で決勝に進出してきた印旛(現:印旛明誠、千葉)。

実は、PLと印旛には浅からぬ因縁があった。

この年から3年前のセンバツに初出場した印旛のエースは、後に社会人野球で活躍しソウル・オリンピックにも出場した菊池総。

大会屈指の剛腕と言われ、一回戦でPLと対戦、初戦の好カードと注目されながら0-4で完敗を喫した。

PLはその年の夏に全国制覇するので仕方はなかったのだが、印旛にとって打倒・PLが目標となったのである。

 

そして前年秋の関東大会では見事に優勝を果たし、堂々とセンバツにも選ばれ、その強力打線で早実、PLに次ぐ優勝候補の一角にも挙げられていた。

エースは佐藤文男(元:阪神ほか)、強打の三番打者が月山栄珠(元:阪神)という、高校卒業後には共にプロ入りするバッテリー。

また、一番打者の村上信一(元:阪急・オリックス)もプロ入りしており、3人もの選手が高卒でプロに進むという、県立校とは思えないほどの有力選手が集まっていた。

エースの菊池に頼っていた3年前と違い、投打のバランスが取れた総合力で決勝に進出したのである。

2017年のセンバツでは、履正社×大阪桐蔭という史上初の大阪決勝対決が話題となったが、実はこの年も上宮(大阪)が準決勝に進出しており、印旛を破っていれば36年前に大阪決戦が実現していたが、印旛がそれを阻止していたのだ。

 

夏の次は春の初優勝を狙う「西の横綱」PLと、3年前の雪辱を誓った「関東の暴れん坊」印旛が激突した。

試合は、4試合中3試合を完封で飾ってきたPLの西川と、大会前はさほど注目されなかったものの今大会に入って調子を上げてきた印旛の佐藤との、息詰まる投手戦となる。

 

試合が動いたのは6回表、印旛の攻撃。

先頭打者を一塁に出した印旛は、準決勝の上宮戦でホームランを打った月山に送りバントを指示、月山がこれを決めて一死二塁のチャンスとなった。

四番の白川恵三は見事なピッチャー返し、ゴロがセンター前に抜けて二塁走者がホームイン、印旛が待望の先制点を挙げる。

 

その後、印旛のエース佐藤による淡々としたピッチングを、PLの強力打線は捉えることができない。

1-0で印旛が1点リードのまま、遂に9回裏のPL最後の攻撃を迎えた。

 

佐藤は落ち着いて一死を取る。

あと2つのアウトで、出場2回目の県立校が全国制覇だ。

しかし、七番打者の東信明が左前打、一死から同点のランナーが出る。

だが、佐藤にまだ疲れは見えず、球のキレから言って印旛の初優勝を疑う者はいなかった。

 

ここでPLの中村監督は勝負の一手を打つ。

代打に三年生の谷英起を送り出したのだ。

ところが、谷は球審に選手交代を告げようとしない。

「あれ?アイツ、上がっているのかな」

中村監督がそう思った瞬間、ベンチの奥にいた守備要員の新二年生・佐藤公宏と目が合った。

「オレを代打に出してください!」

佐藤がそう訴えているように思えた。

もう中村監督に迷いはない。

谷をベンチに呼び戻し、佐藤を代打に起用した。

 

マウンドに立つのは印旛のエース佐藤、打席に立つのはPLの守備要員・二年生の佐藤。

この同姓対決、格から言えば印旛の佐藤が圧倒的に上だが、なぜか急に制球を乱し、3ボール0ストライクとなった。

なんとか2つストライクを取ってフルカウント、次のストレートをPLの佐藤が思い切り引っ叩いた。

 

「練習でも、あんな当たりは打ったことがない」という佐藤の打球はグングン伸び、センターの頭上を遥かに越えた。

一塁走者の東は長躯ホームイン、PLが同点に追い付いた!

二年生の佐藤、起死回生の同点三塁打である。

 

一死三塁で打者は八番のエース西川。

もう、スタンドの誰もがPLの逆転サヨナラ勝ちを確信していた。

果たして、カウント3-0から積極的に打って出た西川の打球はゴロで一、二塁間へ。

前進守備を敷いていた一塁手の横を抜けて行き、三塁走者の佐藤が跳び上がってホームイン。

PLがサヨナラ勝ちでセンバツ初制覇!

この逆転勝ちにより、3年前の夏から始まった「逆転のPL」「奇跡のPL」の異名は不動のものとなった。

 

これまで、夏の甲子園では優勝1回、準優勝2回と強さを発揮していたが、春のセンバツではベスト4が1回のみで「春に弱いPL」と言われていた。

しかし、今大会のセンバツ初優勝でそのイメージを払拭したのである。

 

そして、中村監督にとっては就任して僅か半年、甲子園初采配で優勝を勝ち取った。

そこには、基本と個性を重視した選手育成と、メンタル面での強化が見事に実を結んだのである。

 

中村監督はベンチで絶えず白いボールを握っていた。

これは、緊張するために汗取りの意味で硬球を持っていたのだ。

ところが、他校の監督は「あれはサインに違いない」と勝手に疑い、疑心暗鬼に陥っていたのである。

それで中村監督も「こりゃいい道具だわい」と、ますますボールを手放せなくなった。

その後「ベンチでボールを握る中村監督」は甲子園の名物風景となったのである。

 

この頃の中村監督は「相手はみんな先輩監督。つまり、自分よりは上だ。だったら、相手監督のことは気にせずに、選手が持てる力を発揮できるように集中しよう」と誓った。

そこで、選手たちをリラックスさせるために「○○の看板はどこにあるかわかるか?」などと話しかけ、ある時はテレビのアナウンサーが「PLの選手たちはみんな空を見ています。あ、飛行機が飛んでますね」などと言っていた。

 

勝戦の試合前、中村監督は「泥んこになってプレーしよう」と言った。

もちろん「泥臭く、一所懸命に全力を尽くそう」という意味で言ったのだが、選手たちは顔に甲子園の黒土を塗り、本当に泥だらけとなった。

このバカ正直さに、中村監督は思わず苦笑した。

 

こうしてPLは、3年前に獲得した深紅の大優勝旗から、今度はセンバツの象徴である「VICTORY」と書かれた紫紺の大優勝旗を手にしたのである。

閉会式で、紫紺の大旗を受けとった主将の吉村は、試合前と同じく顔が泥んこのままだった。

 

【つづく】

 

①西川佳明  三年
②田淵哲也  三年
吉村禎章  三年 主将
④辻本壮一郎 三年
⑤東 信明  三年
⑥松本 治  三年
⑦岩井忠彦  二年
⑧泉谷素啓  三年
若井基安  三年
⑩岡信泰教  三年
⑪中村 剛  三年
⑫高橋吉宏  三年
⑬谷 英起  三年
⑭星田倫好  二年
⑮佐藤公宏  二年

 

1978年夏

1981年春

1982年春

1983年夏

1985年夏

1987年春

1987年夏

”永遠の学園”PL学園・甲子園優勝物語①~「逆転のPL」誕生編

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高さ180mのPL大平和祈念塔(大阪府富田林市)

 

2017年3月29日、高校野球の超名門校として知られるPL学園の硬式野球部が、大阪府高等学校野球連盟に対して脱退届を提出、府高野連もこれを受理して正式に脱退した(軟式野球部はそのまま加盟)。

PL学園と言えば甲子園で春3回、夏4回、計7回という2位タイの優勝回数を誇る(2017年春現在。1位は中京大中京の計11回)。

今後、部員募集再開の目途が立ったら再加盟の申請をするというが、それがいつになるかはわからない。

いずれにしても、一つの時代の幕が下りたと言えよう。

そこで今回から、PL学園が甲子園で優勝した大会の詳報を連載する。

 

★1978年夏(阪神甲子園球場
 第60回全国高等学校野球選手権記念大会

●二回戦

日川 000 000 002=2
PL 100 001 03X=5

 

●三回戦

熊本工大高 000 000 000=0
P   L 002 000 00X=2

 

●準々決勝

県岐阜商 000 000 000=0
P  L 001 000 00X=1

 

●準決勝

中京 000 101 011 000=4
PL 000 000 004 001x=5

 

●決勝

高知商 002 000 000=2
P L 000 000 003x=3

 

◎万年優勝候補

PL学園(大阪)はこの年まで、夏の甲子園で2度の準優勝を果たしていた。

日本一の練習設備を誇り、優秀な選手が集まって、歴史は浅いながらも全国屈指の強豪校にのし上がったPLに付けられたニックネームは「万年優勝候補」。

それは、恵まれた環境ながら甲子園制覇に届かないPLを揶揄した言葉だった。

 

1970年の夏は初めて甲子園の決勝に駒を進めたが、東海大相模(神奈川)との打ち合いに負けて準優勝。

2年前の1976年夏は、決勝戦桜美林西東京)に延長11回の激闘の末に3-4でサヨナラ負け、またもや準優勝に甘んじた。

この試合では終盤までリードしながら7回裏、同点に追い付かれ、延長戦で敗れたのである。

この頃のPLは、どちらかというと「実力はありながら勝負弱い」というイメージだった。

 

1974年からPLの監督に就任したのは、南海ホークス(現:福岡ソフトバンク・ホークス)の名監督と言われた鶴岡一人の息子である鶴岡泰(現姓:山本)。

高校球界きっての”サラブレッド監督”の鶴岡監督は、PLを押しも押されもせぬ強豪校に押し上げたが、心技体のうち「心」がまだ欠けていたのかも知れない。

 

◎大阪大会前にPLを襲ったエースの故障

2年前の準優勝から、悲願の甲子園初優勝を目指したこの年、春のセンバツでPLはベスト8に進出、夏の大阪大会でも当然のことながら優勝候補に挙げられていた。

しかし、エースの西田真次(現:真二。元:広島)が利き腕の左腕を故障、”PL株”は大暴落したのである。

 

西田はセンバツ3試合で僅か3失点、しかも自らホームランを放つという、文字通りの大黒柱だった。

控え投手に、卒業後プロ入りする金石昭人(元:広島ほか)がいたが、プロ入りは伯父の400勝投手・金田正一(元:国鉄ほか)の弟である金田留広(元:東映ほか)のコネ入団のようなもので、実際には西田が1人でPLのマウンドを守っていたのだ。

金石は自著で、

「僕は練習の時でさえ、正捕手で主将だった木戸克彦(元:阪神)に球を受けてもらえない程度の投手だった」

と語っている。

そんな選手がプロ入り後は一流投手になるのだから、PLの選手層は当時から相当厚かったと言える。

それはともかく、西田不在のため誰もがPLの甲子園出場は無理だろうと思った。

 

しかし、大阪大会前に西田の左腕は奇跡的に完治した。

原因不明の左肩痛が、原因不明で回復したのである。

プロ入り後、西田は「今までで一番嬉しかったことは?」という質問に対して「甲子園で優勝したことよりも、左肩が治って再び背番号1を背負い、マウンドに立てたこと」と答えている。

西田は法政大学進学後、打者に転向したが、プロ入り後は勝負強い打者として定評があった。

PL時代に、一度地獄を体験したことが勝負強さを生んだのだろう。

 

西田が復活したPLは、夏の大阪大会では最大のライバルと見られていたセンバツ出場校の浪商(現:大体大浪商)が早い段階で敗退するという幸運もあって、危なげなく春夏連続甲子園出場を決めたのである。

 

◎「奇跡のPL」へのプロローグ

夏の甲子園に出場したPLは二回戦から登場、日川(山梨)を5-2で一蹴した。

三回戦は西田が2ランを放ち、その2点を守って熊本工大高(熊本)を完封、2-0で勝って8強に進出した。

準々決勝では県岐阜商(岐阜)に大苦戦を強いられるも1-0で西田が2試合連続完封、打線が湿りがちながらも西田の素晴らしいピッチングで4強に駒を進めた。

 

そして準決勝、相手は高校球界№1の名門、今大会でも優勝候補筆頭の中京(現:中京大中京、愛知)である。

中京打線は今大会絶好調の西田を捉え、9回までに4点を奪った。

逆に不調のPL打線は中京エースの武藤哲裕にキリキリ舞い、1点も取れずに0-4と4点ビハインドのまま、9回裏の最後の攻撃を迎える。

 

先頭打者は四番の西田。

この時、球審の西大立目永(にしおおたちめ・ひさし)は、嫌な予感がしたという。

PLの試合は、どんな点差でも不思議と客が席を立たない、と。

つまり、このクソ暑い中、PLが反撃して試合が長引くんじゃないか、という意味での「嫌な予感」だった。

かくいう筆者も、この試合で甲子園のスタンドにいた1人だ。

もちろん、席は立たなかった。

ちなみに筆者は、PL学園のある富田林市出身である。

 

バッター・ボックスに向かう西田に、西大立目は声をかけた。

「どうせ負けるんだから、待球なんかせずに初球から思い切り打て」。

審判としてはあるまじき行為だとも思えるが、西大立目は待球作戦などを嫌った。

野球とは、積極的に打っていくスポーツだ、というのが西大立目の信念だったのである。

 

そんな西大立目に従ったのか、あるいは最初からそのつもりだったのか、西田は初球を思い切り叩いた。

打球はあっという間に一塁線を抜け、西田はトップ・スピードのまま塁間を駆け抜けて一気に三塁へ。

PL、無死三塁のチャンス!

点差はまだ4点、遅きに失した感はあったが、この三塁打が反撃の狼煙となった。

いや、あるいは西大立目の一言が、進軍ラッパとなったのかも知れない。

そして、試合は西大立目が感じた「嫌な予感」どおりに進んでいく――。

 

五番の柳川明弘が放った打球はレフト・オーバーの二塁打となり西田が生還、ようやく1点を返してなおも無死二塁。

この時、甲子園から暖かい拍手が起こった。

よく1点返したな、これでいい思い出になるだろう、と。

この時はまだ、甲子園の観客は誰もが、この試合がPL伝説の始まりになるとは夢にも思ってなかったのだ。

 

しかし一死後、七番の戎繁利の中前打で2点目、さらに八番の山西徹が左前打を放って一死一、二塁と攻め立てると、甲子園のマンモス・スタンドがざわめき始めた。

慌てた中京ベンチはエースの武藤を一塁に下げ、一塁手の黒木光男をマウンドに送る。

しかし、これが中京にとって仇となった。

 

九番の中村博光は一死ながらバントで送り、二死二、三塁で同点のランナーがスコアリング・ポジションに進んだ。

打順はトップに返り谷松浩之(元:ヤクルト)は四球を選んで二死満塁、続く二番の渡辺勝男にも黒木は制球が定まらず3ボール0ストライク。

もはや大観衆は、2点ビハインドながらPLの逆転ムードとなり、異様な雰囲気となった。

たまらず中京ベンチはエース武藤をマウンドに戻し、なんとか3ボール2ストライクまで持ち込んだ。

結論から言えば、これも中京にとって凶と出る。

 

次の球、渡辺が放った打球は二遊間へ。

セカンドがなんとか捕って、二塁カバーに入ったショートにトスしたが間一髪セーフ、一塁に転送したがこちらもセーフとなる。

この間に三塁走者がホームを駆け抜け、しかも二塁走者までが生還した。

PL、9回裏に一挙4点、奇跡の同点劇!

 

二死満塁でボール・カウントが3-2だったため、全ての走者が一斉にスタートしていたのだ。

もしそうでなければ二塁封殺で試合終了だったかも知れないし、セーフだったとしても少なくとも二塁走者までは生還できなかっただろう。

全ての運命が、PL同点劇へ向かっていたのだ。

 

その後は中京がなんとか抑えて延長戦に突入したが、もはや甲子園はPLの逆転勝ちムード一色に染まっていた。

そして延長12回裏でPLの攻撃、二死一、二塁で五番の柳川が放った打球はサードゴロ。

サードが難なく捕って一塁送球、3アウト・チェンジと思ったら、ファーストの黒木が落球、二死満塁でPLサヨナラのチャンスとなった。

そして六番の荒木靖信がボールをしっかりと見極め、ストレートの押し出し四球。

遂にPLが4点差をひっくり返し、延長12回の大激闘の末、5-4で奇跡のサヨナラ勝ちを収めたのである。

もはや甲子園は、かつてないほど興奮の坩堝と化していた。

 

試合終了後、PLの鶴岡監督は、

「こんな試合、一生に一度味わえただけでも幸せだ」

と語った。

だがこの試合は、これから長く続く伝説の序曲に過ぎなかったのである。

2日続けて奇跡が起こるとは、誰も想像できなかっただろう。

 

◎甦った不死鳥PL学園

決勝に進んだPLの相手は「黒潮打線」を誇る名門・高知商(高知)。

エースは二年生左腕の森浩二(元:阪急)という、PLの西田とのサウスポー対決である。

試合ごとに純白のユニフォームで挑むPLに対し、高知商はゲンを担いだのか大会中は一度も洗濯をせずに、甲子園の土で汚れたままの真っ黒なユニフォームで登場した。

PLの白と高知商の黒とのコントラストが印象に残る決勝戦となった。

 

私事で恐縮だが、この日の筆者は町内の子供ソフトボール大会に出場するため、決勝戦は見られないはずだった。

しかし試合前、簡易バックネットのロープに足を引っ掛けてこけてしまい、アゴを思い切り地面に打ち付けたのである。

グラウンドに大量の血が流れ、救急車を呼ぶほどではなかったものの、すぐに車で病院に運ばれた。

病院でアゴを何針か縫い(たしか9針だったと記憶している)、なんとか午後には帰宅できたが、今でもアゴには、その時の傷跡が残っている。

しかし、アゴは痛かったものの、内心は嬉しかった。

なにしろ心置きなく、決勝戦を見られるのだから。

そして、世紀のドラマを生放送で見ることができたのだから、PLのみならず筆者にも奇跡が起こったのだった。

 

さて、試合の主導権を握ったのは高知商

3回表、高知商は二死満塁から四番・青木悟の左前打で2点先制した。

高知商のサウスポー森は、右-左ー右ー左とジグザグに組んだPL打線を完璧に抑えていく。

試合はその後、両軍とも甲子園の手書きスコアボードに0を並べ、2-0で高知商リードのまま、あっという間に9回裏のPL最後の攻撃を迎えた。

 

この時、真紅の大優勝旗は大阪湾を越えて四国に上陸し、高知の上空を飛んでいた。

あとは、はりまや橋に着地するだけである。

ところが、台風13号が四国沖に接近していたのだ。

台風はそのまま近畿地方へ針路を取り、9回裏になると青かった甲子園の空を黒い雲が覆い、強風が真紅の大旗を大阪へ押し戻そうとしていたのである。

 

9回裏の先頭打者は九番の中村。

中村は森の初球を叩き、センター前ヒットとなった。

この日の西大立目は一塁塁審で、当然のことながら中村には声を掛けることはなかったが、前日の西田に続く初球攻撃である。

この積極性が奇跡を呼び込んだのだろう。

 

続く一番の谷松を迎え、それまで淡々と投げていた森のリズムが急におかしくなってきた。

谷松にストレートの四球を与えてしまったのである。

森の脳裏には、前日の大逆転劇がよぎったに違いない。

 

無死一、二塁と同点の走者を出して、続く二番の渡辺は送りバント

高知商はなんとかアウトを取ったものの、内野陣の動きはコチコチで、危うくセーフになるところだった。

一死二、三塁と一打同点のチャンス、甲子園の大観衆は2日続けてのPL大逆転劇なるか?と、騒然とした雰囲気となった。

 

ここで三番の主将・木戸がセンターへ犠牲フライを打ち上げて1点差。

しかし、高知商にとってはアウト・カウントを1つ増やしたわけで、2アウトまでこぎ着けた。

あと1アウト奪えば高知商が悲願の甲子園初優勝である。

真紅の大優勝旗は、淡路島の辺りで高知へ行くか大阪に行くか、迷っているようだった。

 

得点は1-2、PL1点ビハインドの9回裏二死二塁で、打席に立つのはエースで四番の西田。

西田は笑みさえ浮かべながらバッター・ボックスに入った。

アウトになれば全てが水泡と化す、絶体絶命のピンチなのに、なんという自信だろう。

ボール・カウント1-1となった3球目、高めのクソボールを西田は思い切り振った。

もちろん空振りで、カウント1ボール2ストライクと追い込まれる。

それでもまだ、西田の表情には余裕があった。

試合後、この空振りに関して西田は、

「意識して振ったんです。一度、思い切りバットを振ってみたかった」

と語った。

勝戦の土壇場で、自分の欲望そのままに、わざと空振りしたのである。

 

そしてカウント1-2からの4球目、甘く入ったカーブを西田のバットが捉えた。

鋭い打球が一塁線を破り、一塁塁審の西大立目はフェアのゼスチャー、ボールはそのままラッキーゾーンに飛び込むエンタイトル2ベースとなった。

二塁走者の谷松がホームイン、PLが遂に2-2の同点に追い付く。

一度はマウンドを諦め、地獄を見た経験が、西田の強心臓を生んだのか。

2日続けての9回裏の同点劇に、甲子園は爆発しそうになった。

 

同点の二死二塁で、打者は五番の柳川。

この時点で、甲子園のマンモス・スタンドを埋め尽くした5万8千人の大観衆は、誰もがPLの逆転勝利を確信していただろう。

カウント0-1からの2球目、高めのストレートを叩いた柳川の打球は、レフトの遥か頭上を越えた。

二塁走者の西田が、バンザイしながらホームを駆け抜ける。

 

「戦いは終わった!甲子園の夏は終わった!3対2、PL学園初優勝!青春のドラマは今、終わりました!まさにPL、奇跡の逆転!サイレン鳴って、もう戦いはありません!」

朝日放送(ABC)アナウンサーの植草貞夫が、テレビで絶叫した。

 

「ああ PL PL 永遠(とわ)の学園 永遠の学園」

今大会、5度目となるPLの校歌が甲子園に流れた時、ホーム・プレート上に整列したPLナインは、全員が目を強く閉じながら校歌を歌っていた。

溢れる涙を止めようと、必死に瞼を瞑っていたのである。

 

翌日の新聞は「奇跡は二度起きた!」「甦った不死鳥PL学園!」と書き立てた。

準決勝は4点ビハインド、決勝では2点ビハインドを跳ね返し、2試合連続のサヨナラで逆転勝ちしたのである。

この大会から「逆転のPL」伝説が始まった。

 

PLは翌春のセンバツにも出場、一回戦で中京商(現:中京、岐阜)に6-4、二回戦では宇都宮商(栃木)に4点差を跳ね返し延長10回の末8-6で勝って、甲子園で4試合連続の逆転勝ちとなった。

かくしてPLは「PL GAKUEN」の二段ユニフォームと共に「逆転のPL」として他校から恐れられる存在となったのである。

 

【つづく】

 

①西田真次  三年
木戸克彦  三年 主将
③渡辺勝男  二年
④中村博光  三年
⑤戎 繁利  三年
⑥山西 徹  三年
⑦荒木靖信  三年
⑧谷松浩之  三年
⑨柳川明弘  三年
金石昭人  三年
⑪山本英樹  三年
⑫竹中暢啓  二年
⑬山中 潔  二年
⑭阿部慶二  二年
⑮小野忠史  二年

 

1978年夏
1981年春
1982年春
1983年夏
1985年夏
1987年春
1987年夏

プレイボール2

2017年4月5日(水)発売のグランドジャンプ№9(集英社)で「プレイボール2」の連載が始まった。

言うまでもなく、1970年代に大ヒットした野球漫画「キャプテン」「プレイボール」の続編である。

 

「キャプテン」墨谷二中の野球部を舞台に、各年代のキャプテンを描くという、いわば主人公が交代していく中学野球漫画だった。

「プレイボール」は「キャプテン」の初代主人公である谷口タカオ墨谷高校に進学後、弱小野球部が東京都内でも有数の強豪校にのし上がっていく姿を描き、「キャプテン」時代のキャラクターも登場する高校野球漫画だったのである。

 

今回、タイトルからもわかるように「プレイボール」の続編が連載されることになった。

「プレイボール」は、谷口の高校三年時の春まで描かれ、最後の夏を迎える前に終了したのである。

その後、谷口にとって最後の夏はどうなったか、ファンの間では続編が待たれたが、残念ながら作者のちばあきおちばてつや実弟)は自らの命を絶ち、「キャプテン」「プレイボール」は永久にお蔵入りになるかと思われた。

 

しかし「プレイボール」の連載が終了した1978年(「キャプテン」の連載終了は1979年)から39年、「プレイボール」が復活することとなった。

ペンを執るのは「グラゼニ」「俺はキャプテン(当然、ちばあきお「キャプテン」を意識した作品)」などの野球漫画でお馴染みのコージィ城倉である。

「プレイボール」復活!のニュースに、心を躍らせた人は多いだろう。

 

筆者が子供の頃、一番熱心に読んでいた野球漫画、いや「野球」に限らず、一番熱心に読んでいた漫画が「キャプテン」「プレイボール」だった。

それが昂じて、執筆したのが「野球少年の郷(ふるさと)・墨谷-『キャプテン』『プレイボール』の秘密-」である。

 

この両作品が連載されていた頃、同時期に絶大な人気を誇っていた野球漫画が、水島新司の「ドカベン」だった。

「プレイボール」と同じ高校野球漫画だったが、メジャーだったのは明らかに「ドカベン」だっただろう。

ドカベン」は連載と並行して、アニメの定期放送を行っていたのである。

当時の小学生で「ドカベン」を知らなかった男の子は、いなかったのではないか。

 

ドカベン」は「巨人の星」のような、実現不可能の魔球が登場する野球漫画とは一線を画しながら、それでも主人公の山田太郎は圧倒的な実力を持ったスーパー高校生だった。

絵柄も劇画調で迫力があり、いかにも少年が好みそうな漫画である。

 

それに比べれば「キャプテン」「プレイボール」は、ほんわかした絵柄で劇画とは程遠い。

主人公の谷口は、野球が元々下手で、その後は努力によって格段に上手くなるが、それでも高校球界全体とすれば平凡な選手に過ぎなかった。

そもそも墨谷高校は、谷口が三年春の段階で一度も甲子園に出場したことが無かったのである。

 

ドカベン」の明訓高校が山田の在学中、5季連続甲子園出場、4回の全国優勝を果たしたのとは雲泥の差だった。

それどころか「プレイボール」での最後の試合、墨谷高校は強豪の谷原高校との練習試合でボロ負けしたのである。

物語のラストを飾ったのが、甲子園のような大舞台とは無縁の練習試合での、ボロ負け。

最後の試合は大観衆を埋め尽くした甲子園球場での優勝だった明訓高校(山田が三年時の夏は「大甲子園」)とはエライ違いだ。

もちろん筆者も「ドカベン」「大甲子園」は読んでいたが、ひねくれた性格からかメジャーな「ドカベン」よりも、マイナー感のあった「キャプテン」「プレイボール」の方を好んで読んでいたのである。

 

水島新司が「ドカベン」を執筆する動機は「打倒!『巨人の星』」だそうだが、実はライバル視していたのが「キャプテン」「プレイボール」だった。

後に水島新司は「僕が絶対に描けない野球漫画を描いていたのが、ちばあきおさんだった」と語っている。

また、二人は草野球でもよく対戦し、お互いの存在を認め合っていた。

さらに、他人の漫画など気にしない水島新司が、ちばあきおの作品だけは読んでいて「ちばさん、大人っぽい絵柄になったな」などと思っていたという。

 

連載終了後、「キャプテン」は特番扱いでアニメ化され、さらにその後にはアニメの定期放送も始まったが、僅か2クールで終わってしまった。

やはり「ドカベン」に比べるとマイナーなのか、とも思ったが、ちばあきおの死後にじわじわと根強い人気が頭をもたげてくる。

連載終了から27年後、21世紀になった2005年には「プレイボール」がUHF形態ながらアニメ化された。

そして2007年には遂に「キャプテン」実写映画化される。

筆者が子供の頃「キャプテン」が実写映画化されるなんて、夢にも思わなかった。

 

コージィ城倉もそうだが、実写版の監督・脚本を務めた室賀厚「キャプテン」「プレイボール」にハマったクチだそうだ。

野球選手で言えば、イチロー新庄剛志といったメジャー経験者も「キャプテン」「プレイボール」の愛読者だったそうである。

 

例えが適切かどうかはわからないが、小学生の頃にクラスの中に可愛くて目立つ女の子がいて、その子が一番モテるだろうと思っていると、後でクラスの男子に訊いてみたら、あまり目立たなかった女の子のことを全員が好きだったということがあった。

連載中はさほど目立たなかったのに、後になって「キャプテン」「プレイボール」が好きだったという人があまりにも多いと、クラスであまり目立たなかった女の子と印象が被ってしまう。

 

今回「プレイボール2」の連載開始に関してネットでトップ・ニュースとなったし、発売日に関西ローカルのラジオ番組を聴いていると「今日発売の『グランドジャンプ』で『プレイボール』が約40年ぶりに復活しました」と女性アナウンサーが話題にしていた。

「キャプテン」「プレイボール」がいつの間にこんなメジャーになったの!?という驚きと、同じ漫画が好きだった人がこんなにも多かったことに対する嬉しさと、この両作品の良さがわかっていたのは俺だけじゃなかったんだという、ある種の独占欲が満たされなかった寂しさもある。

いずれにしても、連載から約40年も経ったにもかかわらず、この根強い人気は驚愕だ。

 

さて、ストーリーの方はと言えば、ここでは書かない方がいいだろう。

ほう、そこから始めるか、という感想だ。

ただ、ちばあきお先生なら、そういう展開にはしないだろうな、という部分もあった。

そしてちびまる子ちゃん」方式だな、と思った。

なにしろ、谷口の家のテレビはどう見てもアナログなのだから――。

 

(文中敬称略)

 

墨高ナインがランニングをしていた(と思われる)東京都墨田区・荒川の土手

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藤浪、金本監督に造反!

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3月31日、プロ野球が開幕した。

日本列島は華やかなムードに包まれたが、全国すべてがそうだったわけではない。

 

阪神タイガース開幕投手ランディ・メッセンジャーを立て、マツダスタジアム広島で広島東洋カープとの開幕戦に勝ったが、これが大波乱の序章となった。

試合後の監督室で大事件が起こったのである。

事の発端は、藤浪晋太郎開幕投手を任されなかったことに納得せず、金本知憲監督に対して不満をぶちまけたのだった。

 

「開幕シリーズ、オレに投げさせてください!」

「え?」

 

金本監督が思わず聞き返したほど、普段はおとなしい藤浪の激しい口調だった。

 

「僕、WBCでも何もやってないです!もう、いいかげん許してください!もう一回オレ、繰り返しますよ!自分の思うことをやります!お願いします!ハッキリしてください、監督!」

 

金本監督は藤浪の主張を黙って聞き入っていた。

 

「去年、二桁勝てなかったオレが言える立場じゃないけど、オレは一体何なんですか、オレは!?」

「本気かい?ええ!?」

 

金本監督が藤浪を睨む。

藤浪も、一歩も引かない。

 

「本気のつもりです!」

「命をかけたのか?命を!勝負だぜお前、この場は!」

「もう何年続いてるんですか!何年これが!?」

「だったらブチ破れよ!オレは前から言ってる!遠慮なんかするこたぁねぇって!グラウンドは闘いなんだから、外人も先輩も後輩もない!遠慮されても困るよ、お前!」

「遠慮してんじゃないです!これが流れじゃないですか、これが阪神タイガースの!ねえ、そうじゃないですか!?」

「じゃあ、力でやれよ、力で!」

「やります!」

「ああ?やれるのか、本当にお前!」

「やりますよ!」

 

ここで金本監督が藤浪にビンタを放った。

しかし、藤浪もすかさず金本監督の頬を張り返した。

「モイスチャーミルク配合!」

1973年、阪神では鈴木皖武権藤正利が金田正泰監督を殴ったことがあったが、それ以来の造反劇である。

阪神はまた、お家騒動の歴史を繰り返すのだろうか。

ここで藤浪が箱からハサミを取り出し、自分の髪を切り始めた。

 

「やりますよ!やりますよ!」

「待て待て、待て!」

「いらないですよ、こんなもの!」

 

しかし、金本監督は何とか髪を切ることをやめさせた。

だが、藤浪の興奮は止まらない。

 

「こんななってもお客さん呼びますからね!もう監督、クソもミソもないですよ、これ!オレ負けても平気ですよ!負けても本望ですよ!これでやるんだったら!」

「やれ!やるんなら!!」

「やります!手、出さないでくださいよ!」

「オーケー!オレは何も言わんぞ、もう!やれよ、そのかわり!」

「やります!広島でオレの進退を賭けます!だったらいいですか!?」

「何だっていいや!何だって言ってこいや!遠慮するこたぁねぇよ!」

「もういいっす……」

 

そう言い残して、藤浪は監督室から立ち去った。

阪神に激震が走った藤浪の造反劇、開幕ローテの順番が変わってきそうだ。

これが「藤浪革命」の序章になるのだろうか。

しかし、なぜ藤浪が髪を切ろうとしたのか未だに謎であり、会話が噛み合っていないので何を揉めているのか不明である。

 

 

【4月1日=USO通信】

 

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