手許に1冊の古い雑誌がある。
野球ファンにはお馴染みの「報知高校野球」という、その名の通りの高校野球雑誌だ。
ここにあるのは1987年9・10月号だから、今から24年も前の雑誌である。
夏の甲子園が終わり、この号はその総集編となっている。
この年はどんな年だったのだろうか。
世はバブル経済真っ只中で、日本は好景気に沸いていた。
その影響からか、バリバリの現役メジャーリーガーだったボブ・ホーナーが破格の年俸で来日、ヤクルトに入団してホームランを打ちまくり、ホーナー・フィーバーが日本中に巻き起こった。
巨人の王貞治監督が就任以来初のリーグ優勝を果たし、広島の衣笠祥雄が連続試合出場の世界新記録(当時)を達成して、野球界では王に次ぐ二人目の国民栄誉賞を受賞した。
後楽園球場の最後の年でもあり、翌年は東京ドームが完成してドーム球場時代の幕開けとなる。
この年の夏の甲子園ではPL学園がセンバツに続いて優勝、当時としては史上5校目となる春夏連覇を達成した。
この時のPLはキャプテンが立浪和義(のちの中日)、エースは野村弘樹(当時は弘。のちの横浜大洋)、第二エースとして橋本清(のちの巨人他)、四番打者が片岡篤史(のちの日本ハム他)という好選手を擁し、桑田・清原時代のPLよりも総合力では上とさえ言われた。
さらにこの年はPL勢以外でも大豊作の年と言われ、特に投手には好素材が目白押しだった。
夏の甲子園に出場した投手だけでも、PLの二投手以外では尽誠学園の伊良部秀輝(のちのロッテ他)、沖縄水産の上原晃(のちの中日他)、函館有斗の盛田幸妃(のちの横浜大洋他)、東亜学園の川島堅(のちの広島他)、SSコンビと言われた帝京の芝草宇宙(のちの日本ハム他)に常総学院の島田直也と、まさに多士済々である。
この号の「報知高校野球」には、この大会初戦での各校のエースの球速を計り、大会速球王を決めるコーナーがあった。
1位はやはり146km/hを計測した伊良部だったが、もう1人、伊良部と並ぶスピードを叩き出していた投手がいた。
この大会には速球王が2人いたのである。
それは一年生時から甲子園に出場していた上原でもなければ、この年のドラフトで3球団競合となった川島でも、センバツ速球王だった橋本でもない。
もっと凄い投手がいたわけだ。
時計の針を現代に戻す。
僕は先日、ベースボール・プランニングという会が主催するスポーツ・ミーティングという会合に参加していた。
趣旨は30名ほどが集まり、各テーブル4人ずつの班に分かれ、スポーツビジネスに関するテーマでグループ・ディスカッションをするというものだった。
テーマは3つあり、そのテーマが変わるたびに席替えを行って、違うメンバーでディスカッションをするというルールである。
3つ目のテーマ、即ち最後のテーマの時に、新たに顔を合わせた3人と名刺交換をした。
僕は戴いた3枚の名刺を、相手が座っている位置と同じようにテーブルの上に置いた。
もちろん、誰が誰だか一目でわかるようにするためである。
僕はその中の、左斜め前に置いた名刺が気になった。
どうも見覚えがある名前だったのだ。
その名刺にはこう書かれてあった。
「オリックス野球クラブ株式会社 管理部 コンディショニンググループ 江口孝義」
プロ野球球団、江口孝義……。
これが普通の会社で「江口孝義」と書かれていても、僕は気にも留めなかっただろう。
しかし、紛れもなくプロ野球関係者である。
ハタと思い当たる人物がいた。
もしやと思い、思い切って左斜め前の男性に訊いてみた。
「あのう、ひょっとして昔、甲子園に出られませんでした?」
「……?はい、出ましたけど……?」
「投手として?」
「……ええ」
「高校は佐賀工じゃないですか?」
「な、なんで知ってるんですか!」
「やっぱり!最後に負けた相手は習志野でしょう」
「そ、その通りです!」
知るも知らんも、24年前の夏の甲子園で、伊良部と並ぶ速球王だったのが佐賀工のエース・江口孝義投手だったのである。
「まさかこの場で、僕のことを憶えている人がいるとは思いませんでした」
と江口さんはおっしゃっていたが、この年の高校野球はPLの春夏連覇などもあって、非常に想い出深いものになっている。
僕はすっかり舞い上がってしまい、失礼だとは思ったが色々と江口さんに質問してしまった。
会合が終わって帰路に着く途中、佐賀工が勝った試合を思い出した。
これが結構、伝説となった試合だったのである。
しまった、こんな試合があったのに、負けた試合の方を思い出すなんて、と後悔した。
つくづく失礼な男だ。
帰宅した後、早速複数のSNSにこのことを報告した。
偶然、あの江口投手に会うことができた、と。
すると、嵐のような反響があった。
「え、あの江口投手と?それは凄い!」
誰もが異口同音に言っていた。
江口さんは謙遜していたが、僕と同じ年代の野球ファンは、みんな甲子園での雄姿を憶えていたのである。
時計の針を再び24年前に戻すと、佐賀工の初戦(組み合わせ上は二回戦)の相手は東海大甲府。
東海大甲府はセンバツ4強入りし、優勝候補の一角に名を連ねていた。
センバツ準決勝ではPL学園と延長14回という大熱戦の末敗れたが、序盤早々に野村、橋本から5点を奪うなど、強打のチームとして鳴らしていた。
さらに夏の山梨大会決勝では、センバツ8強の中込伸(のちの阪神他)を擁する甲府工と対戦し、中込ら甲府工の投手陣から15点を奪い、堂々と夏の甲子園に出場した。
中込はセンバツで142km/hを計測し、報知高校野球では橋本と並ぶセンバツ速球王として認定されている。
ちなみに東海大甲府の四番打者は久慈照嘉(のちの阪神他)だった。
一方の江口さんも、甲子園初登場ながら大会屈指の速球投手として注目されていた。
当時の新聞では、
「センバツ4強の強力打線と剛腕・江口との激突は、初戦屈指の好カード」
と書かれていた。
しかし東海大甲府の大八木監督は、江口攻略に絶対的な自信を持っていた。
「センバツではPLの橋本君、山梨大会では甲府工の中込君という速球投手を打ち込んだ。江口君の球がいくら速いからといって、打てないわけがない」
と。
しかし、試合が始まってみると大八木監督は顔色を失っていた。
自慢の強力打線が次から次へと三振を奪われ、エラー絡みで1点を獲るのがやっとこさだったのである。
そして8回裏、佐賀工は二死三塁で打者が四番という状況でホームスチールを敢行、見事に決まって決勝点を挙げた。
この1点を江口さんが守り切り、見事に優勝候補の東海大甲府を破って16強に進出したのである。
結局、江口さんは強打の東海大甲府に対して被安打4、奪三振9、失点1、自責点0という完璧な投球を披露した。
試合後、大八木監督は、
「江口君は、橋本君や中込君よりも数段速かった。あんなに速い投手は初めて。一死三塁以外では点が獲れません」
と完全にシャッポを脱いだ。
その時の、江口さんのピッチングはこちら↓
http://pitcher.your-wants.com/?cid=59264
上記の動画を見れば、当時の江口さんがいかに凄いピッチャーだったかがわかるだろう。
一説には、江口さんの高校時代のMAXは148km/hとも言われている。
伊良部よりもさらに速いわけだが、伊良部も夏の甲子園初戦以外でもっと速い球を投げているかも知れないので、これは一概には言えない。
それでも、当時のスピードガンは現在の物よりも性能が劣っていたので、今のスピードガンなら江口さんの速球は150km/hを超えていただろう。
伊良部のプロ入り後の最速は公式戦で158km/h、オールスターで159km/hだったから、タラレバの話をすると江口さんは日本人初の160km/hを計測していたかも知れない。
そんな江口さんに、プロ入りの誘いがないわけがない。
しかし江口さんはプロ入りを固辞し、高校卒業後は社会人野球のNTT九州に就職する。
当時の僕は、江口さんほどの投手がなぜプロ入りしなかったのか不思議でしょうがなかったが、この前、江口さんにお会いして話をさせてもらったら、その理由がわかったような気がした。
結論からいうと、高校から直接プロ入りしなかったことが、江口さんにとって大きな回り道となった。
社会人野球に身を投じた江口さんは、最初は順風満帆だった。
社会人2年目には日本代表にも選ばれ、アマ球界最高の投手、という評価を得た。
しかし、社会人野球の拘束期間が切れる3年目、プロ入り前に江口さんは右肩を痛めてしまう。
普通ならプロ球団からはソッポを向かれるところだが、地元の福岡ダイエー・ホークス(現在の福岡ソフトバンク・ホークス)だけは熱心にプロ入りを勧めた。
ここでもプロ入りを固辞する江口さんだったが、スカウトだった小川一夫(現在はソフトバンクの二軍監督)のあまりのしつこさに根負けし、ドラフト3位でダイエーに入団する。
だが、球団は右肩の治療に協力してくれるも改善の兆しはなく、肩の痛みは癒えずに入団から僅か6年でプロ野球生活に別れを告げた。
通算登板は16試合、通算成績は0勝1敗0セーブだった。
もし高校から直接プロ入りしていればどうなっていたのだろう、と想像するが、やはり高校からプロ入りした江口さんのピッチングを見てみたかった。
とはいえ、プロでは右肩痛のため大成できなかった江口さんだったが、それが今後の人生に活きた。
トレーナーに転身したのである。
自身が体を痛め、思うような野球生活が送れなかったため、故障した選手の気持ちは痛いほどわかる。
プロ引退後、江口さんは懸命に努力して理学療法士や鍼灸の国家試験に合格。
その後、ダイエー時代にお世話になった現・オリックスの新井富久トレーナーの紹介により、江口さんはオリックスのトレーナーになったわけだ。
トレーナーという仕事は治療の技術が大切なのは当然だが、それと共に精神面でのケアが必要となる。
アスリートは自分の故障についてデリケートなものであり、常に不安が付きまとう。
トレーナーは治療はもちろん、選手たちの不安を取り除くことも重要な仕事である。
江口さんは自身が肩を痛めたために、故障した選手の気持ちは痛いほどわかるだろう。
ある意味、トレーナーという仕事は、江口さんにとって天職だったとも思える。
ここからは、僕の全く個人的な感想を書く。
トンチンカンなことを書くかも知れないが、そこはお許しいただきたい。
江口さんが高校時代、プロ入りを拒否したのは、本当に自分自身がプロで活躍できるわけがない、と思い込んでいたのではないか。
早い話が、決して謙遜ではなく、本当に自信がなかったのではないか、と思えるのである。
上記の動画を見れば誰でも凄い投手だ、と思うのだか、本人はそんな自覚がなかったのではないか。
あんな球を投げていれば誰だって天狗になるし、そもそも甲子園で活躍するような選手は誰でもお山の大将だ。
ところが先日、江口さんとお会いしたときには、尊大な態度は全くないのである。
こんなプロ野球経験者は初めてだった。
プロ野球選手というのは誰もが自意識過剰で、またそうでなければ生きていけないのだろう。
そういう点では、江口さんはプロ向きの性格ではなかったのかも知れない。
優しすぎる性格が災いしたとも思える。
先日のスポーツ・ミーティングの時に、僕は江口さんに尋ねた。
「なぜ野球を始めたんですか?」
と。
江口さんは、
「さあ、なんでなんでしょうね。気が付いたら周りの友達は野球ばっかりやっていて、僕もそれに参加していただけです」
と答えた。
江口さんにとって、野球というのはあまりに自然な存在で、空気のようなものだったのだ。
いくら素質があっても、海千山千のプロの世界は、純朴な若者にとっては過酷以外の何物でもないのかも知れない。
江口さんは高校卒業時はプロ入り拒否し、社会人時代は肩痛に見舞われたが、それは野球の神様が、
「お前はプロ野球選手として生きるべきではない」
と教えたのではないか。
そして、江口さんに肩痛を見舞ったのは、
「この経験を糧に、トレーナーとして生きていきなさい」
という啓示だったのかも知れない。
僕はこういう運命論は大嫌いなのだが、先日お会いした江口さんの人柄を見ていると、そう感じて仕方がないのだ。