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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

甲子園物語〜その7

太平洋戦争は終戦となり、辺り一面が焼け野原として残った日本。
今までは「鬼畜」と罵っていた、青い目で大男の兵隊たちが街中を闊歩し、敗戦国としての屈辱をたっぷりと味わっていた。
もはや独立国ではなく、占領されている身である。
戦争が終わったとはいえ、日本国民にとって食糧事情が良くなったわけではなく、その日をいかに生き延びるかが問題だった。
しかし日本軍の圧政からは開放され、空襲におびえる必要もなくなった。
そうなると日本人は、生活に困っているにもかかわらず、真っ先に復活させたものがあった。
それが野球である。


連合国総司令部(GHQ)にとっても、アメリカ生まれのベースボールを日本人が愛しているのは好都合だった。
GHQは野球の復活に協力し、終戦の僅か2ヵ月後の10月18日には東京の明治神宮球場で全早慶戦が行われ、さらには11月23日には同球場でプロ野球東西対抗戦が行われた。
特に全早慶戦には5万人の大観衆が詰めかけ、久しぶりに見る野球に日本人の観客たちは熱狂した。
2ヵ月前に無条件降伏した国の民衆とはとても思えなかった。


しかし、野球の復興には積極的だったGHQも、甲子園に対しては厳しかった。
甲子園も神宮と同じように連合軍が接収したが、神宮と違って日本人が野球を行うことは許さなかった。
戦時中に軍需工場となっていたスタンド下は米軍兵士たちの寝床となり、食堂などはバーとなって夜になると兵士たちが酒に酔って騒いでいた。
甲子園の周りでは、昼間は日本の子供たちが「ギブ・ミー・チョコレート!」と叫び、夜になると米軍兵士目当ての日本女性がうろついていたという。
戦前では全く考えられない光景が甲子園周辺で繰り広げられていた。


翌1946年(昭和21年)夏、遂に中等野球が復活した。
この大会から朝日新聞社の1社主催ではなく、同年2月に発足した全国中等学校野球連盟(現・日本高等学校野球連盟)との共催となっている。
しかし甲子園の使用は認められず、隣りの阪急西宮球場で開催された。
甲子園での野球開催は認められなかったのである。
ちなみに、この年はプロ野球リーグも復活したものの、甲子園の使用は禁じられた。


阪神電鉄は、このままでは中等野球を阪急に獲られると思い、また翌春のセンバツ開催を目指していた毎日新聞社も、ぜひとも甲子園で中等野球を行いたいと考えていた。
そこで翌1947年(昭和22年)の春のセンバツでは、ぜひ甲子園で開催させて欲しいと、神戸にあった連合軍司令部(神戸ベース)に何度もかけあった。
粘り強い交渉の甲斐あって、春のセンバツでの甲子園使用OKの通達があり、関係者は大喜びだった。
さらに甲子園は接収されたままだったものの、1月10日には神宮と同じようにグラウンドとスタンドは接収解除された。


いよいよ甲子園に野球が帰ってくる!
喜び勇んだ毎日新聞社は新聞紙上で、甲子園の写真入りで大々的に報じた。
しかし、喜びもつかの間だった。
開幕直前の3月初旬、GHQが「センバツ開催中止」の通達を出したのである。
毎日新聞社は神戸ベースの説得に手いっぱいで、総元締めのGHQに根回しをしなかったため、GHQを怒らせてしまったのだ。
GHQにしてみれば顔を潰されたということだろうが、
「中等野球の全国大会は夏の大会のみでいいだろう」
というのがGHQの言い分だった。
関係者は慌ててGHQに春のセンバツの歴史を説明して懸命に説得し、今さら中止にはできないと懇願して、ようやく、
「今大会に限り開催してもよろしい」
と許しを得たのである。
敗戦国というのは結構ミジメなものだ。


紆余曲折があったセンバツがようやく開幕した。
久しぶりに甲子園で行われる中等野球の開会式には華やかな演出が凝らされ、米軍も音楽隊を出動させるなど協力した。
春のセンバツは大盛況となり、連日満員の観客が甲子園に詰め掛けた。
この光景を目の当たりにしたGHQは、もうクレームを付けることもなくなり、この年の夏はもちろん、翌年の春のセンバツからも甲子園の使用を許可した。
それまで高圧的だったGHQは中等野球を通じて、日本に対し理解を示すようになったのだ。


GHQの態度軟化に貢献したのは野球だけではなかった。
ベースボールと並んでアメリカを象徴するスポーツ、アメリカン・フットボールである。
まだ球場全体が連合軍に接収されていた1945年(昭和20年)、甲子園のグラウンドでは米兵たちによるアメフトの試合が行われていた。
スタンドにも米兵たちが陣取り、ヤンヤの声援を送っていた。
さらに米軍は、日本にももっとアメフトを普及させようと、関西にある各大学のアメフト部関係者に招待状を送り、甲子園で行われていたアメフトの試合を見学させたのである。
本場アメリカ人によるアメフトは、日本のアメフト関係者にとってさぞかし勉強になっただろう。
ここで甲子園とアメフトが結びついたのだ。


戦後初の春のセンバツが閉幕した僅か6日後、1947年(昭和22年)4月13日、現在まで続くアメフト学生王座決定戦・毎日甲子園ボウルの第1回大会が開催された。
実はこの時、ある奇跡が起こっている。
関西アメリカン・フットボール連盟と毎日新聞社が阪神電鉄にアメフト試合での甲子園使用を申し入れたところ、その日はプロボクシング興行があるから、と断られた。
関係者は途方に暮れていたが、阪神電鉄からまた連絡があり、ボクシングが行われるのは内野グラウンドでの午後4時からであり、それまでに試合が終わるのなら外野グラウンドを使用してもよい、というものだった。
晴れて甲子園ボウルが行われたが、トンでもないオマケが付いた。
外野の芝生部分で行われていた甲子園ボウルは、試合進行が遅かったため第4クォーター途中で午後4時を越えてしまい、内野の土部分に造られたボクシングのリングでは試合開始のゴングが鳴ってしまった。
こうして、アメフトとボクシングが同時に見られるという、おそらくアメリカでもないような奇跡が起こったのだ。
その後、甲子園ボウルは甲子園における秋の風物詩となった。


この年、甲子園はプロ野球使用球場としても復活した。
大阪タイガースの投手兼監督だった若林忠志は、球団首脳にある提案をしている。
「甲子園をもっと狭くして、ホームランが増えるようにして客を呼び込みましょう」
と。
当時、プロ野球のメッカだった東京の後楽園球場は両翼が78mと極端に狭く(のちに90mに拡張)、ホームラン演出に一役買っていた。
そこで甲子園には5月26日にラッキーゾーンを設け、両翼86.8m(のちに91mに拡張、ラッキーゾーンがなくなった現在は95m)、右・左中間は108.5m(現在は118m)に狭められたのである。
現在ではラッキーゾーンがある球場はないが、要するに外野の両翼フィールド部分に金網フェンスを設け、そこに打球が入るとオーバーフェンスとしてホームランとなる、というゾーンである。
このラッキーゾーンはのちに西宮球場や神宮球場にも設けられた。
日本の球場の箱庭化が始まったのである。
さらに、ラビットボールと呼ばれる、いわゆる「飛ぶボール」が使用され、ホームランが激増し初代ミスター・タイガースの藤村富美男は「物干し竿」と呼ばれる長いバットを振り回して、1949年(昭和24年)に46本塁打という当時としては驚天動地のホームランを放った。
メジャーリーグのホームラン王、ベーブ・ルースが甲子園のグラウンドに立つなり、
「トゥー・ラージ(広すぎる)。この球場では私でもホームランは打てない」
と言った球場を本拠地とするチームの選手が、僅か1年間にこれだけのホームランを放ったのである。
ちなみに、前年の藤村のホームラン数は13本だった。
紛れもなくラッキーゾーンとラビットボールの効果である。
ラッキーゾーンはのちに、ブルペンの役割も果たすこととなった。


それより前の1948年(昭和23年)には不完全とは言えプロ野球はフランチャイズ制が採られ、タイガースの専用球場は甲子園に定められた。
そして1950年(昭和25年)、プロ野球は2リーグに分裂し、セントラル・リーグパシフィック・リーグに分かれ、タイガースはセ・リーグ所属となった。


翌1951年(昭和26年)、甲子園に大屋根が甦った。
「駆逐艦を造る」という名目で軍部に供出された内野席を覆っていた、あの大鉄傘である。
と言っても戦前の鉄製と違い、ジュラルミン製となったため「大鉄傘」ではなく「大銀傘」と呼ばれるようになった。
ただし、戦前のようにアルプス席まで覆う巨大な傘ではなく、バックネット裏および一、三塁側内野席の一部を覆う縮小版だった。
それでも、甲子園を象徴する大屋根が復活したのは朗報だった。


さらに翌1952年(昭和27年)、サンフランシスコ講和条約が締結。
日本は晴れて独立国となった。
もちろん、甲子園も連合軍からの接収は解除され、自由に興行を行えるようになった。


しかし、甲子園にはプロ野球興行において重大な欠陥があった。
ナイター設備が無かったのである。
2リーグ分裂した年、GHQの後押しもあって大阪球場が完成してパ・リーグの南海ホークス(現在の福岡ソフトバンク・ホークス)の専用球場となり、翌年にはナイター設備が完成、ナイトゲームが可能となったのである。
甲子園にナイター設備がなく、平日でもデーゲームを行わざるを得ないタイガースは不利になった。
立地条件から考えても、甲子園は大阪郊外(しかも兵庫県)にあり、大阪球場は関西を代表する繁華街である難波のド真ん中にあったのだから、集客面でも大阪球場が圧倒的に有利だった。
タイガースは日本一の球場である甲子園を持ちながら、大阪球場を借りざるを得ない状態になった。
関西では既に大阪球場をはじめ西宮球場や日本生命球場、東京では神宮球場や後楽園球場にもナイター設備が整っていたが、甲子園ではなかなかナイター設備ができなかった。


これには理由があった。
甲子園は海の近くにあるが、近くに住む漁民が夜に光を照らされると漁に影響する、とナイター化に大反対したのだ。
現在の甲子園では海との間には団地が林立しているのでナイターの光など海まで届くことはないのだが、当時は今ほど建物がなかったので、ナイターの光が海まで届いて夜間漁ができなくなると思われていたのである。
そのため、甲子園浜の漁民たちがナイター化反対!のデモを繰り広げたのだ。
結局、光の方向を変えるということで、両者は和解した。
他球場に遅れること1956年(昭和31年)、甲子園にもナイター設備が完成した。
タイガースは堂々と、本拠地の甲子園でナイトゲームを行えるようになったのである。
ただし、前述したようにナイター化によってスコアボードの雨避けガラスが光に反射してプレーに支障をきたすため、全自動の遠隔操作が不可能になり手動化され、スコアボードに関しては退化してしまった。


話は前後するが、1948年(昭和23年)、学制改革により中等野球は高校野球となった。
1961年(昭和36年)には、大阪タイガースも阪神タイガースと改称される。
そして甲子園も阪神タイガースがセ・リーグ優勝した1964年(昭和39年)に、「甲子園球場」から「阪神甲子園球場」という名称になった。


昭和3,40年代の甲子園は、日本の高度成長期に合わせて、春と夏には高校野球、それ以外ではタイガースを本拠地とするプロ野球を支え、野球熱はさらに高まって行った。


<つづく>