第87回選抜高等学校野球選手権大会の出場校が決まり、その中で21世紀枠として和歌山県立桐蔭高校が選ばれた。
同じ近畿からは大阪桐蔭の出場することになり、もし神奈川の桐蔭学園が選ばれていたら三つの桐蔭そろい踏みとなるところだった。
さて、21世紀枠というからには弱小高校だと思われるだろうが、とんでもない。
優勝は春1回、夏2回、準優勝は春1回、夏3回という超名門校である。
夏の優勝2回というのは1921年(大正10年)および22年(大正11年)の連続優勝であり、夏の大会は第1回から14年連続出場、春のセンバツは第1回から11年連続出場という、今後破られることはないであろうアンタッチャブルな記録だ。
もっとも、全国優勝したのは戦前の旧制中学、即ち和歌山中学(和中)時代で、戦後の学制改革で桐蔭高校になってからの全国優勝はない。
しかし、和中時代は数々の伝説が生まれた。
【和中と対戦したというだけで敗者復活!?】
前述のとおり、夏は14年連続、春は11年連続出場したということは、要するに和歌山県内では無敵だったということだ。
そこで、当時の和歌山大会では、
「和中と対戦したら負けるのは当たり前なので可哀そう」
という理由で、和中と対戦した学校はたとえ負けても復活するというウソみたいな特別規定が作られたのである。
夏の大会は一発勝負が当たり前の現在では考えられないルールだ。
勝負の世界で「可哀そう」という理由で負けがチャラになるとは、戦前は意外にも弱者に対して優しかったようである。
【史上初の夏二連覇を成し遂げた和中】
1921、2年に夏の大会二連覇を果たした和中だったが、連覇はこれが史上初だった。
特に1921年(大正10年)は、初戦の神戸一中(現・神戸)を20-0、準々決勝の釜山商(朝鮮)を21-1、準決勝の豊国中(現・豊国学園)を18-2、そして決勝では京都一商(現・西京)に16-4という、まさしく圧倒的な強さで優勝した。
もちろん金属バットなどなく、飛ばないボールの時代である。
翌1922年(大正11年)の決勝は神戸商に7回終了まで0-4と劣勢ながらも8回に打線爆発、9回と合わせて8点をもぎ取り、8-4と見事な逆転勝ちを収めた。
三連覇を目指した1923年(大正12年)も決勝に進出するが、残念ながら甲陽中(現・甲陽学院)に2-5で敗れ、惜しくも夏三連覇は逃した。
ちなみに、この頃はまだ甲子園球場はなく、鳴尾球場で全国大会が行なわれていた。
甲子園球場が完成するのはこの翌年、1924年(大正13年)のことである。
そして、春のセンバツが始まるのも1924年のことだ(第1回大会が行なわれたのは名古屋の山本球場)。
もうひとつ言えば、夏三連覇の大偉業を成し遂げたのは1931年(昭和6年)~33年(昭和8年)の中京商(現・中京大中京)のみである。
【和中の二軍が甲子園出場】
1927年(昭和2年)の和中はセンバツ初制覇。
そしてこの年から、センバツ優勝校には夏休みにアメリカ遠征というご褒美が与えられた。
和中はその恩恵にあずかり、センバツ初Vメンバーはアメリカで思う存分、夏休みを満喫したのである。
しかし、夏休みにアメリカ旅行となれば、夏の甲子園はどうなる?
当然、レギュラー陣は和歌山大会に参加することはできず、二軍で甲子園を目指したのである。
それまで和中のために全国大会行きを阻まれてきた和歌山の他校にとって、甲子園出場の絶好のチャンスが訪れた。
ところが、和中は二軍でも強く、和歌山大会および紀和大会を勝ち抜いて甲子園出場を果たしてしまった。
さすがに甲子園では初戦敗退したが、和中の選手層の厚さを物語るエピソードである。
【史上初の春夏王者決定戦に挑んだ和中】
1927年(昭和2年)のセンバツ初制覇により、アメリカ旅行の恩恵を預かった和中だったが、そのおかげで史上初の春夏連覇を達成することはできなかった。
二軍が夏の甲子園に出場したとはいえ、ファンからは「春の優勝校・和中と、夏の優勝校・高松商ではどちらが強い?」という疑問が持たれた。
そこで企画されたのが「春夏王者決定戦」である。
この試合は甲子園球場で行うべきだという意見が大半を占めたが、甲子園を持つ阪神電気鉄道のライバルである阪急電鉄が黙ってはいない。
「ウチは宝塚球場を持っているから、そこで試合をさせよ」と主張する阪急だったが、阪神電鉄も一歩も譲らず、話し合いは平行線を辿った。
そこで妥協案として、中立の立場である京阪電気鉄道が保有する球場で行えばいいのでは?という意見が出たのである。
かくして、史上初の春夏王者決定戦は、京阪沿線にある寝屋川球場で行うことになった。
結果は、和中は高松商に1-7で完敗。
しかし、高松商が夏に向けて修正したのか、あるいは和中がアメリカ遠征で遊び惚けたために大差が付いてしまったのか、筆者にはわからない。
【和中人気で日本初の女子野球が誕生】
1921、2年の和中による夏二連覇で、和歌山では野球ブームが巻き起こった。
その人気は女性にまで飛び火し、遂に女子野球まで生んだのである。
当時はまだ大正時代、男尊女卑の風習が色濃く残り、選挙権も男子にしか認められていない時代だ。
それでも南国・紀州の大和撫子たちは和中に刺激を受け、勇猛果敢に男のスポーツと思われていた野球に取り組んだのである。
和歌山高女、橋本高女、粉河高女などに次々と女子野球部が生まれ、さらに大阪でも女子野球部が誕生し、毎日新聞社主催の女子オリンピックが開催されたとき、各地の女子野球チームがシノキを削った。
その中でも和歌山の女子チームは強く、決勝は和歌山同士のカードとなり、和歌山高女が粉河高女を14-11で破って、栄えある第1回優勝校となった。
しかし1926年(大正15年)、「女子に野球は激しすぎる」という理由で、女子野球は禁じられてしまったのである。
それから80余年経った平成の世では、女子プロ野球が登場した。
大正時代の和歌山の野球少女が現在の女子野球を見たら、どんな感想を持つだろう。
【和中のエースは和中!?】
戦後最初の大会となったのは、戦後まもない1946年(昭和21年)のこと。
ただし、全国大会が行なわれたのは甲子園球場ではなく、阪急沿線の西宮球場だった。
当時の甲子園は、GHQによって差し押さえられていたのである。
和中の相手は、平古場昭二投手を擁する浪華商(現・大体大浪商)。
しかし2-11と大敗してしまったが、ファンの注目の的だったのが和中のエース・和中(わなか)道男。
「和中の和中」
とややこしい表記をされていた。