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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

甲子園物語〜その6

日本時間の1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍はハワイの真珠湾を奇襲し米英に宣戦布告、太平洋戦争が始まった。
真珠湾攻撃は成功し、その後も日本軍の勢いは衰えず、米英領を次々と占領していった。


緒戦の戦勝気分に酔いしれたのだろうか、前年は地方大会半ばで中止になった夏の甲子園大会を1942年(昭和17年)に開催することとなった。
当分は甲子園大会は無理と思っていた選手たちは大喜びだったに違いない。
しかしそれは、普通の野球のルールとは異なるものだった。
まずベンチ入りは9人きっかりで、選手交代は認められていなかった。
9人で最後まで戦い抜く敢闘精神を植え付けるのが狙いだったのだろう。
また投球が体の近くに来て死球になりそうになっても、避けてはならない。
ボールを怖がるなんて大和男児の恥、ということだろうか。
他にも特別ルールがあって、要するに野球というよりも軍人精神を発揚するための大会だったのである。
主催も従来の朝日新聞社ではなく、文部省と大日本学徒体育振興会といういかめしい名前の団体だった。
このため、この大会は徳島商業が優勝したものの夏の甲子園大会とは別の大会とされ、徳島商の優勝はカウントされていない。
世に言う「幻の甲子園大会」である。


またこの頃、太平洋戦争は重大な転機を迎えていた。
この大会が行われる2ヵ月前、ミッドウェー海戦で日本海軍は初の大敗。
しかしこの事実は国民には徹底的に秘匿され、甲子園を埋め尽くした大観衆は日本軍が不利になっていっていることを誰ひとり知らなかった。
さらに、甲子園が湧きかえる中、ガタルカナル島では日本軍は敗北を続け、兵士たちは飢えと病気に苦しんでいた。
この年の終わりに同島からの撤退が決定、ミッドウェーとガタルカナル島の両方面で陸・海軍とも初の敗戦を味わったのである。


戦局は悪化する一方で、中等野球が以降は戦時中に開催されることは二度となかったが、プロ野球は細々と続けられた。
そうでなくても敵国・アメリカ生まれの競技である。
軍部からの目が厳しくならないわけがない。
1943年(昭和18年)には遂に敵性語、即ち英語の使用が禁止される。
ストライクは「よし一本」、ボールは「だめ」などと言い替えられた。
また、敵性語ではないにも関わらず、選手は「戦士」と呼ぶようになった。
ちなみにラグビーの場合は、ラグビー=闘球、トライ=達成、ゴールキック=陣蹴、ドロップゴール=落蹴などと呼ばれていたようである。
いずれにしても、わかりにくいことおびただしい。


この年、甲子園は軍部から「ある物」が狙われていた。
それが甲子園名物とも言える大鉄傘である。
1930年(昭和5年)にはアルプススタンドまでに延びていた大鉄傘は、駆逐艦を造るのに利用できると思われたのだ。
当時はお国のためなら何でも戦争協力しなければならない時代。
大鉄傘は神戸製鋼に9万円という安値で買い取られた。
大鉄傘の解体作業は試合中にも行われていたという。
やがて甲子園からは大鉄傘が全て取り払われ、丸裸となった。
甲子園の象徴とも言える大鉄傘がなくなった姿を見た球場関係者は、無念の気持ちでいっぱいだっただろう。
しかもこの大鉄傘、駆逐艦の材料としては使用不可ということがわかり、結局は放置されたままだった。
戦後、この事実を知った球場関係者は、腸わたが煮えくり返る思いだったという。
あるいは、大鉄傘の撤収は、国民から金属回収をスムーズに進めるために軍部が行った宣伝だとも言われる。
いずれにしても、軍部の横暴ぶりが実感できるエピソードだ。


1944年(昭和19年)7月、大本営が絶対国防圏と位置づけていたサイパン島が陥落。
サイパンを獲られたことにより、米軍は日本空襲が可能になった。
同じ頃、ヨーロッパ戦線で連合軍はノルマンディー上陸作戦に成功し、ドイツ軍の敗戦は決定的となった。
日本と同盟国のイタリアは既に前年に降伏し、頼みの綱だったドイツが敗戦寸前となれば、米軍は日本に集中攻撃をかけるだろうし、中立条約を結んでいたソビエト連邦(現・ロシア)も攻撃して来ないとは言い切れなかった。
サイパン陥落の責任を取って、太平洋戦争開戦以来ずっと戦争指導を行ってきた東条英機内閣は総辞職を余儀なくされた。


この年の8月30日、甲子園で行われた阪急軍(現在のオリックス・バファローズ)×朝日軍(現在は消滅)の試合が、戦時中におけるプロ野球最後の公式戦となった。
翌1945年(昭和20年)1月1日〜5日まで、甲子園で「正月大会」と称してプロ野球のオープン戦が8試合行われたが、それが甲子園における最後のゲームである。
もう国民は野球どころではなくなり、この大会も1日500人程度しか集まらなかったという。


サイパンを獲った米軍による日本空襲が本格化し、大阪大空襲が行われたのは3月13日夜から14日未明にかけてのこと。
この大阪大空襲により、タイガースの選手たちは田舎に帰ってしまい、解散同然の状態となっってしまった。
同じ頃、連合軍は沖縄上陸し、沖縄も獲られてしまう。
この沖縄戦によって日本海軍は壊滅し、さらに同年の5月にはソ連軍に追い詰められたヒトラーが自決し、ドイツは降伏した。
もう日本軍に勝てる要素はゼロになってしまったが、それでも日本は戦争を継続した。


既に野球が行われなくなった甲子園は、日本軍のために徹底的に利用された。
スタンド下の各施設は軍需工場となってしまった。
さらにグラウンドの内野部分はイモ畑になった。
国民の食料が困窮していたためである。
外野の芝生部分は、陸軍のトラック置き場となった。
当時は木炭車だったため、黒い墨で緑の芝生は台無しである。
もはや甲子園は、本来の姿を失っていた。


そして軍需工場と化した甲子園は、米軍による格好の標的となった。
米軍ご自慢のB29の大編隊が来襲し、甲子園に何千発という焼夷弾を浴びせ続けた。
アメリカが誇るヤンキー・スタジアムに比肩するこの球場は、そのアメリカ軍によって大炎上した。
B29の空襲により、甲子園は3日間も炎上し続けたという。
奇しくもこの日は、B29である「エノラ・ゲイ」が広島市に、人類史上初となる原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下した、8月6日のことだった。


まだ甲子園が炎上していたその3日後の8月9日、今度は長崎市に二つ目の原子爆弾「ファット・マン」が投下された。
広島に続いて長崎が死の街となってしまった。
さらにこの日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破って日本に宣戦布告。
もはや敗戦を避けられなくなった日本は、黙殺していた連合国からのポツダム宣言を受諾せざるを得なくなり、8月15日に無条件降伏した。
神武天皇が即位して2605年、日本は初めて敗れたのである。
まあ、神武天皇が存在していたなんて現在では誰も信じてはいまいが(神武天皇が即位したとされるのは西暦紀元前660年、弥生時代である)、当時はそう教育されていたのだ。
ちなみに、紀元2600年というのは西暦でいうと1940年、昭和15年のことで、この年に製造された戦闘機は紀元2600年を基準として名付けられ、日本海軍の名機・ゼロ戦(正式名称は零式艦上戦闘機)は紀元2600年に製造された、という意味である。
有史以来、2600年も日本は負けたことがないから大東亜戦争(当時の日本における日中戦争および太平洋戦争の呼称)にも必ず勝てる、という当時の大日本帝国および大本営による根拠のない自信は、日本国民を地獄に陥れた。


日本はようやく戦争から解放されたが、大空襲を受けた東京や大阪のみならず、原爆を落とされた広島や長崎、地上戦が展開された沖縄など、日本はまさしく満身創痍だった。
その日本と同じように、B29からの空襲を受けた甲子園もやはり満身創痍だった。


日本は連合軍に占領されたが、甲子園もやはり連合軍に占領された。
甲子園の施設は全て、連合軍の管理下に置かれたのである。


それでも甲子園は、日本と共に野球を通じて復興に向かうのだった。


<つづく>