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ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

華麗なるステップで駆け抜けた人生⑤~宿沢ジャパン平尾組の栄光

ラグビー

前回からの続き。

どん底のジャパン

スコットランドには、勝てると思います」

日本代表の監督に就任したばかりの宿沢は、記者会見でそう言い放った。

1989年5月28日に予定されていたスコットランド戦、その抱負を訊かれた時の言葉である。

これはトンだビッグマウスが監督になったものだ、その場に居合わせた記者連中はみなそう思った。

ジャパンがスコットランドに勝つ?

どの口が言ってるんだ。

誰もが心の中でそう嘲笑したのである。

 

当時の日本代表は、まさしくどん底状態だった。

1987年に行われた第1回ワールドカップでは3戦全敗。

その年にはアイルランド学生代表に敗れ、さらにニュージーランド代表(オールブラックス)には100点差試合を含む2戦大敗。

翌88年にはオックスフォード大にも敗れ、アジア大会では韓国代表に敗れて「アジアの盟主」の座から滑り落ちた。

ジャパンは全ての面で自信を失っていたのである。

 

しかし平尾は「いい時に、いい人が監督になってくれた」と歓迎した。

と言っても「いい時」とは要するに「悪い時」でもあったのである。

こんな時に、どんな立派な指導者が来ても、誰も反応しない。

いくら名監督でも、失敗例があるからだ。

 

だが宿沢には、指導歴がなかった。

指導歴がないということは、要するに失敗歴がないということである。

しかも宿沢は、早稲田大の在学中に日本代表に選ばれながら、卒業後はスパッとラグビーを辞めて銀行マンになった伝説のスクラムハーフ(SH)。

イギリス勤務で銀行業務の傍ら、本場のラグビーを観察し、レポートをラグビー専門誌に書いたり、あるいはテレビ解説も引き受けていた。

その卓越したラグビー理論に、平尾ら日本代表の選手たちは「何かやってくれるのでは?」と、38歳の若き指導者に期待を寄せていたのである。

 

平尾の欠点

宿沢は平尾をキャプテンに指名した。

宿沢ジャパン平尾組の誕生である。

他にも大八木や林など、平尾より年上の選手がいたが、敢えて平尾にしたのだ。

宿沢は、神戸製鋼での平尾のキャプテンシーを高く評価していた。

特に平尾の長所は、キャプテンだからと言って気負うことなく自分の色を出して、サラッと主将業をこなしてしまう点である。

キャプテンに指名すると、責任感を重く感じすぎてしまい、せっかくの自分の持ち味を殺してしまう選手が往々にしているが、平尾にはそんな部分は全くなかった。

あくまでも自分の色を出す、それが平尾だったのである。

もちろん、ラグビーにおいてキャプテンシーというものが、他のスポーツよりも重要なことは言うまでもない。

 

キャプテンシーはもちろん、平尾はプレーヤーとしても超一流である。

しかもイケメンで知名度もあり、スター性も申し分ない。

だがそれでは、あまりにも人間味が無さすぎるではないか?

そんな平尾にも欠点があるに違いないと、宿沢は平尾の粗探しを始めた。

そして、宿沢はハタと思い付いたのである。

アイツはもしかして、音痴なのではないか、と。

 

そこで宿沢は平尾を銀座へ呑みに連れて行き、無理やり歌わせることにした。

ところが、サザンオールスターズの「いとしのエリー」を歌い始めた平尾に対し、宿沢のみならず他の客も聴き惚れてしまったのである。

残念ながら、宿沢の目論見は外れた。

 

IRFB加盟国の壁

宿沢にとって、スコットランド戦の勝利は悲願だった。

当時の世界ラグビー・ユニオンは、現在と違ってワールド・ラグビー(WR)のような組織はなく、その前身であるインターナショナル・ラグビーフットボール・ボード(IRFB)が取り仕切っていた。

そのIRFB加盟国は僅か8ヵ国で(イングランドスコットランドウェールズアイルランド、フランス、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ)、当然のことながらスコットランドもその一員だったのである。

だが日本は、IRFBの準加盟国に過ぎなかった。

そのため、日本代表がIRFB加盟国の代表チームと試合をしても、一部を除いてテストマッチ(国の代表チーム同士の試合で、出場した選手にはキャップを与えられる)とは認めてもらえなかったのである。

 

ちなみに言うと、1989年に対戦したこの時の日本×スコットランドも、スコットランド協会はテストマッチ扱いしていない。

その理由として、この年は4年に1度のブリティッシュアイリッシュ・ライオンズ結成のため、スコットランド代表からは何人か主力選手を獲られていたので、必ずしもベストメンバーではなかったからだ。

そのため、この時のスコットランドは「スコットランド代表」ではなく「スコットランドXV」という呼び方をしている。

当然、スコットランドXVの選手にはキャップは与えられないが、日本代表の選手にはキャップを与えられるという「準テストマッチ」のような試合だったのだ。

でも、仮にスコットランドがベストメンバーだったとしても、スコットランド協会は、テストマッチとは認めなかっただろう。

 

ベストメンバーではないとはいえ、スコットランドXVは日本代表より遥かに格上である。

そもそも日本代表は、IRFB加盟国とのテストマッチ(IRFB加盟国はテストマッチ扱いしていないが)で一度も勝ったことがなかったのだ。

イギリスに勤務していた宿沢にとって、テストマッチの重みは日本のラグビー関係者の誰よりもよくわかっていた。

それだけに、自分が監督でいるうちに、IRFB加盟国に勝ちたい、そう願ったのである。

IRFB加盟国に勝って、日本代表との試合を、テストマッチと認めさせてやろう、と。

そして宿沢は、イギリス勤務の経験から、スコットランドの弱点を知り尽くしていた。

 

スコットランド戦の勝算

スコットランドは、一流国としてはディフェンスが弱い。

宿沢はそう睨んでいた。

スコットランド相手なら、ジャパンのバックス(BK)陣はかなりトライを獲れるだろう、と。

そのカギを握るのは、インサイドの平尾とアウトサイドの朽木英次とのセンター(CTB)・コンビだった。

平尾&朽木のCTB陣はかなりレベルが高く、世界に通用するジャパン自慢のコンビだ。

ボールさえ獲れれば、ボールを外へ振り回し、トライの量産を期待できる。

 

さらに、スコットランドスクラムが弱いので、ジャパンはフォワード(FW)第一列にスクラムの強い選手を選んだ。

スクラムで確実にボールを奪い、ジャパンお家芸のBKオープン攻撃に持ち込めば、かなりの得点力がある。

あとはディフェンスだ。

FW第三列にタックルの強い選手を揃え、失点を20点前後に抑える。

これなら充分に勝算はあるだろう。

宿沢の期待が高まっていった。

 

スコットランドに歴史的勝利

1989年5月28日、東京の秩父宮ラグビー場で日本×スコットランドが行われた。

イギリス北部から来た大男たちは、日本特有の蒸し暑い気候に悩まされる。

一方のジャパンは、FWがスクラムで押しまくり、BKが縦横無尽に走りまくる。

内容的にもジャパンが上回り、スコットランドをタジタジさせた。

さすがに最後にはスコットランドも意地を見せ、あと一歩のところまで迫るもジャパンが逃げ切り、結局は28-24で日本代表の勝利。

 

秩父宮ラグビー場は大歓声で爆発しそうになった。

我がジャパンが遂に、IRFB加盟国に初めて勝ったのだ!

スコットランド協会はテストマッチ扱いしなかったにもかかわらず、すぐにこの結果はイギリス本国に打電された。

2015年のワールドカップで、日本代表が南アフリカ代表(スプリングボクス)に勝ち、世界中から称賛されたが、この意味の大きさがわかるだろう。

スプリングボクスは、スコットランド代表よりも格上。

それでも、日本代表がスコットランド(代表チームではなかったとはいえ)に勝ったということは、驚愕の事実だったのだ。

 

「平尾を胴上げしてやれよ」

宿沢はそう言ったが、平尾らジャパン戦士たちは意に介さなかった。

「宿沢さんを胴上げや!」

平尾はそう叫び、宿沢は歴史的快挙を成し遂げたフィフティーンに胴上げされた。

 

だが、宿沢にはもう一つ、仕事が残されていた。

記者会見である。

そこで、宿沢はこう言い放った。

「約束通り、勝ちました」

 

新たな闘いの始まり

宿沢ジャパン平尾組がスコットランドに勝ったからと言って、安穏としている時間はなかった。

本当の勝負は、翌1990年に行われるアジア太平洋予選である。

この予選に勝ち抜かなければ、1991年に行われる第2回ワールドカップの参加資格を失い、スコットランド戦の勝利は絵に描いた餅となる。

 

1987年に行われた第1回ワールドカップでは、日本はアジア代表として予選なしで推薦出場したが、第2回大会は予選を勝ち抜かなければならない。

しかもそのシステムは現在とは違い、アジア予選ではなくアジア太平洋予選なのだ。

現在のアジア予選だと、敵は香港と韓国ぐらいで、しかも日本はその両国よりも実力は圧倒的に上であり、日本にとってワールドカップ出場は自動ドアのようなものだ。

 

ところが90年当時は、アジア予選ではなくアジア太平洋予選だったのだ。

相手となるのは韓国、トンガ、西サモア(現:サモア)。

この4ヵ国から、ワールドカップに出場できるのは2ヵ国。

つまり、このリーグ戦で2勝しなければならない。

 

韓国は手の内を知っている相手とは言えアジア大会で敗れており、トンガと西サモアは当時の日本にとって、全く未知数の相手だった。

どう考えても、予選突破は厳しいことが予想される。

特に難敵と思われたのが、トンガと西サモアだった。

第1回ワールドカップでは、太平洋のトライアングル3国からトンガとフィジーが推薦出場、西サモアは出場できなかったのである。

しかし、この3国の実力はほぼ互角、その中で第1回ワールドカップではフィジーがなんとベスト8に進出したのだ。

そのため、第2回大会ではフィジーは予選免除で出場が決まっていたのである。

だが、レベル的に「世界8強」のフィジーと、トンガおよび西サモアはほぼ同じだ。

だがジャパンは、この3国との対戦経験はない。

つまり、トンガと西サモアは日本にとって未知なる強豪だったのである。

そこで宿沢は、若手チームをトンガと西サモアに遠征させて手の内を探り、さらにフィジーを招いてテストマッチを行い、トライアングル3国の実力を測った。

そして、第2回ワールドカップ出場を賭けた、アジア太平洋地区予選に挑んだのである。

 

予選突破、ワールドカップ出場

アジア太平洋地区予選は1990年、秩父宮ラグビー場で行われた。

ジャパンにとって第1戦はトンガ、第2戦が韓国、そして第3戦が西サモアである。

宿沢は、韓国には勝てるとして、第1戦のトンガ戦に全てを賭けよう、と決意した。

西サモアは、第1回大会で出場できなかったことにより、相当に準備万端でアジア太平洋予選に出場してきている。

むしろ、第1回大会に出場したトンガの方に隙はあると読んでいたのだ。

 

トンガとの第1戦、ジャパンは全てを出し尽くし、トンガ自慢の強力FWに襲い掛かった。

ジャパンの、あまりの気迫に押されて、たまらず反則を繰り返すトンガ。

そのチャンスを、平尾の従弟であり神鋼の後輩でもある細川隆弘が確実にペナルティ・ゴール(PG)を決めて得点を重ねた。

終わってみれば、難敵中の難敵と思われたトンガに28-16の完勝。

ジャパンは最高の形で第一関門をクリアした。

 

第2戦はアジアのライバル・韓国戦。

この試合に勝てば、第2回ワールドカップの出場が決まる。

しかし、現在とは違い、当時の日本と韓国との差は僅かだった。

負けてもおかしくない相手である。

案の定、韓国は初戦の西サモア戦で敗れて背水の陣、しかも相手が日本とあって、死に物狂いでぶつかって来た。

そのため、前半は6-10とリードを許す苦しい展開となったが、後半は韓国のスタミナ切れを待って一気に逆襲、26-10で勝って第2回ワールドカップ出場を決めた(第3戦の西サモア戦では11-37で完敗)。

スコットランド戦で選手たちに胴上げされた宿沢は、今度は秩父宮ラグビー場のスタンド裏で、ファンたちに胴上げされたのである。

 

後に、平尾は韓国戦を振り返って、こう語っている。

「試合前、韓国の選手たちのスパイクを見たら、汚れていた。僕らが試合前日になったらワクワクして、あれこれ試合の想像をしながらスパイクを磨きますよ。でも、彼らのスパイクは汚れているんです。要するに、韓国の選手たちは勝つことを強要されていて、スパイクを磨く余裕がないほど、全くラグビーを楽しんでいない。そんな連中には負けませんよ」

 

ワールドカップでの挫折と喜び

1991年、宿沢ジャパン平尾組はイギリスへ飛び立った。

ワールドカップでの相手は、IRFB加盟国のスコットランドアイルランド、そしてアフリカ代表のジンバブエだ(当時の南アフリカアパルトヘイトのためボイコットされ、出場せず)。

第1戦の相手はスコットランド

秩父宮でジャパンが倒した相手である。

場所は、スコットランドの「首都」エディンバラのマレー・フィールドだ。

6万人の大観衆はみんなスコットランドの応援であり、ジャパンは完全アウェイである。

そして、スコットランドの大男たちは、2年前にトーキョーで受けた屈辱を忘れていなかった。

当時は来日していなかった選手たちがズラリと顔を揃え、ベストメンバーでジャパンを叩き潰すつもりでいる。

 

それでもジャパンは前半、9-17と好勝負を演じた。

平尾は「前半だけでは、ジャパンの中で3本の指に入る名勝負」と述懐する。

しかし後半、スタミナが切れたジャパンにスコットランドが一斉に襲い掛かった。

終わってみれば9-47、ジャパンの完敗である。

スコットランドはこの上ない形で、トーキョーの仇をエディンバラで果たした。

もちろん、この試合はスコットランド代表にとってもテストマッチ扱いである。

 

第2戦は、アイルランドの首都であるダブリンでのランズダウンロード、アイルランド戦である。

もちろん、こちらも敵地であり、ジャパンは苦戦が予想された。

ところが、アイルランドのパワーに対し、ジャパンはスピードで対抗、思わぬ好勝負となった。

だが、ジャパンの抵抗に手を焼いたアイルランドはなりふり構わぬパワー勝負に出て、ようやくジャパンを振り切る。

終わってみれば、ジャパンの健闘が光ったが、結局は16-32のダブルスコアで敗退。

IRFB加盟国の、本気になった時の強さを思い知らされる結果となった。

そして、この時点でジャパンの予選リーグ敗退が決まったのである。

 

第3戦はジンバブエとの対戦、北アイルランドベルファストにあるレイベンヒル・パークでの試合となった。

決勝トーナメント進出には全く関係ない消化試合、しかも北アイルランドとは縁もゆかりもない試合で、平日の昼間にもかかわらず9千人のファンが集まった。

平尾は「この試合のために、イギリス・アイルランドまで来たのだ」という思いを決意したのである。

まだジャパンは、IRFB国とのテストマッチに勝てるレベルではない。

でも、ワールドカップでの1勝は、限りなく重いものになる、と。

そのためには、ジンバブエには勝たなければならなかった。

 

ジンバブエには、ワールドカップ前に偵察遠征して、手の内はわかっている。

それでも前半は、16-4とリードするものの苦戦。

しかし後半は、ジャパンのBK陣が走りまくって、ジンバブエを圧倒した。

終わってみれば、52-8の大勝。

ベルファストのファンも、ジャパンの素早いオープン攻撃に大満足だった。

そしてこれが、日本代表のワールドカップでの初勝利だったのである。

だがそれが、日本代表にとって、そして平尾にとっても、苦難の始まりだった。

このジンバブエ戦勝利後、ワールドカップ2勝目を挙げるのは、24年後のスプリングボクス戦だったのである。

 

日本代表から引退、そのはずが……

大会終了後、宿沢監督は退任を明らかにした。

そして平尾も、日本代表からは引退する、と表明したのである。

だが、そう簡単に日本代表は、平尾を手放してはくれなかった。

 

(つづく)