昨今の日本では道州制の導入が盛んに議論されている。
現在の都道府県制を廃止し、例えば東北州や関西州など地域権限を与えて、中央集権から地方分権に脱却する、という制度だ。
それで日本が発展するなら大いに結構だが、一つだけ引っ掛かる点がある。
それはいかにも僕らしくて申し訳ないが、高校野球の地区割りはどうするの?という点である。
政治とは全く関係ないことだが、高校野球ファンとすれば気になるところだ。
そもそも日本に「県」という概念が生まれたのは、明治新政府になってからの1971年(明治4年)に行われた廃藩置県からであり、この時に誕生したのは3府302県というとんでもない数の府県だった。
江戸時代に無数にあった藩をそのまま県に置き換えたのだから、こんな膨大な数になったのは当然である。
その4ヵ月後には3府72県に激減し、ようやく近代国家としての体を為すようになったが、それで安定したわけではなく、その後も県の統廃合は繰り返された。
現在の47都道府県に近い形になったのは1888年(明治41年)で、この時3府43県と北海道(この頃の北海道は他の府県と別扱いだった)になったのである。
その後は府県に大きな変動はなく、中等野球(現在の高校野球)が始まったのが1915年(大正4年)だったのだから、その後の地区割りも混乱せずに済んだ。
もし中等野球が始まった頃が3府72県のままだったら、北条県や美々津県など、今だったらどこにあるかわからないような県の代表校が存在したかも知れないのだ。
ちなみに北条県とは現在の岡山県の一部、美々津県は宮崎県の一部である。
ご存知のように現在の夏の甲子園では、1県1代表制(北海道および東京は2校)が定着している。
ところがこの制度が定着したのは1978年(昭和53年)の第60回大会からで、それ以前は5年に一度の記念大会以外では必ずしも一つの県から代表校が出場するわけではなかった。
参加校数が少ない県同士を1地区とし、複数県で1代表とする所も少なくなかったのである。
従って、1977年(昭和52年)以前の各都道府県の甲子園出場校表では虫食いのようになっていて、空欄になっている県が結構多い。
戦前の表になると空欄はもっと増えるが、その中で空欄がなく校名でびっしり埋まっている地区がある。
それが「外地」と呼ばれる地域で、台湾、朝鮮、満州の3地区だ。
当時の台湾と朝鮮(現在の韓国と北朝鮮)は日本の統治下にあり、満州(現在の中国東北部)は事実上日本の傀儡国家だった。
この3地区は第9回大会の1923年(大正12年)から太平洋戦争勃発前年の1940年(昭和15年)まで、欠かさず代表校を夏の全国大会に送り込んでいる。
この3地区からの全国優勝校はないが、大連商(満州)や嘉義農林(台湾)にはそれぞれ1度ずつの準優勝があり、レベルは高かったと思われる。
これらのチームは現地人と日本人との混成チームであることが多く、特に嘉義農林には高砂族も含まれており、台湾では裸足でプレーしていると噂され、その健脚は甲子園では大人気を博した。
甲子園でも大暴れした外地からの3地区は、終戦と共に消滅したのは言うまでもない。
戦前の甲子園で毎年代表校を送り込んでいた外地勢とは裏腹に、日本の県でありながら春夏通じて1校も全国大会出場を果たしていない県もある。
そのうちの一つが沖縄県だ。
なぜ植民地からは毎年代表校が輩出され、沖縄県からは甲子園出場できなかったのか?
しかも沖縄の場合、甲子園初登場はなんと戦後10年以上経った1958年(昭和33年)夏という遅さである。
その原因は、やはり沖縄だけが持つ複雑な歴史にあると言えよう。
15世紀の初め、沖縄の地に琉球王国が誕生し、東南アジアや清(現在の中国)、朝鮮、日本を交易圏とする中継貿易の基地として繁栄した。
しかし江戸幕府が誕生して間もない1609年、薩摩藩が琉球王国に侵攻し、戦争経験の乏しい琉球王国はあっさり征服された。
しかし薩摩藩は琉球王国を完全支配するよりも、貿易による利益搾取の方が得策と考え、間接的な支配に留めた。
一方で清とも密接な関係にあった琉球王国は、日清両国から事実上支配されることになる。
この宙ぶらりん状態が沖縄の立場をややこしくすることになった。
その後明治新政府が誕生し、琉球王国を完全に日本の領土としようとして、1872年(明治5年)に琉球藩を設置した。
廃藩置県後に藩が誕生したのは琉球藩だけである。
さらに1879年(明治12年)に明治政府は武力で琉球国王を追放し、琉球藩は沖縄県になった。
ここに琉球王国は完全に消滅したのである。
しかし、清は日本の主張を認めず、日清両国は激しく対立したが、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争で日本が勝利したため、琉球諸島は完全に日本の領土となった。
そんな沖縄に野球が伝わったのは、まさしく日清戦争が勃発する僅か3ヵ月前、1894年5月のことだった。
沖縄中学(現・首里高校)の生徒たちが初めての県外修学旅行で、奇妙な光景を見た。
場所は三高(現・京都大学)の吉田山グラウンドで、学生たちがまりを投げて棒切れで打つという遊びをやっていたのだ。
琉球人が初めて目の当たりにした野球である。
沖縄中の生徒たちはこの遊びに混ぜてもらい、たちまちその魅力に取り憑かれた。
さらに三高の学生たちからボールやバットなどの野球用具一式をプレゼントされ、沖縄中の生徒たちは大喜びで沖縄に持ち帰った。
これが沖縄野球の始まりとされている。
中等野球が始まったのは前述の通り1915年(大正4年)夏のことだったが、この頃にはまだ沖縄の中学は参加していなかった。
本格的に参戦したのは1922年(大正11年)の第8回大会からで、もちろん沖縄大会単独というわけではなく、九州大会(第11回大会からは南九州大会)に組み込まれていた。
しかし九州勢の壁は厚く、甲子園出場はずっと阻まれ続けた。
外地の3地区と違って単独枠が設けられなかったという面もあるが、やはり沖縄のレベルが低かったというのが大きな理由だろう。
外地には日本からの移民が多く技量伝達も進んだが、日本国内の沖縄はかえって離れ小島のように取り残されたのかも知れない。
それに、内地(日本本土)の学校と試合をするには旅費がかさみ、沖縄の中学にとって大きな負担となった点も見逃せない。
それでも内地の学校に追い付き追い越して甲子園出場する、これが沖縄の中学の大きな目標となった。
やがて沖縄のレベルは徐々に上がっていき、1939年(昭和14年)の沖縄水産は当時沖縄史上最強チームと言われ、南九州勢を破って沖縄県勢初の甲子園出場も夢ではない、と言われた。
甲子園を目指して南九州大会に参加すべく九州の地を目指そうとしたが、運悪く台風により船は欠航してしまった。
当時は鹿児島までの船便が毎日あるわけではなく、しかもちょっとの風で吹けば飛ぶような粗末な船だったので、なかなか九州入りが出来なかった。
運よく水産学校ということで大きな船を用意できたが、沖縄を出航して鹿児島に辿り着くまでには4日間も要してしまい、選手たちはすっかり疲労してしまった。
鹿児島から熊本の水前寺球場に到着した時は、選手たちはもうヘトヘト。
それでも初戦での鹿児島一中との対戦では、8回を終わって6−2と大量リードを奪ったが、9回表に一挙6点を奪われ6−8で逆転負け、甲子園の夢は潰えた。
もしこの時の沖縄水産がベストコンディションで戦えていたら、と思うと当時の沖縄の人達は地団駄を踏む思いだっただろう。
次のチャンスは2年後の1941年(昭和16年)にやってきた。
この年は、南九州大会が初めて沖縄で開催されることになっていたのである。
地の利もあるし、長い船旅に悩まされることもない。
沖縄水産を破って沖縄大会を制した沖縄二中(現・那覇高校)の選手たちは、腕を撫して内地の強豪校を待ち構えた。
しかし、今度は運命により沖縄県勢初の甲子園出場が阻まれる。
日中戦争の激化や、アメリカとの対立が深まったことにより、南九州大会は中止、夏の甲子園大会も行われなかったのである。
戦争によりその立場が振り回され続けた沖縄にとって、象徴的な出来事だった。
そしてその年の日本時間12月8日、太平洋戦争勃発。
戦火は拡大の一途を辿り、春夏の甲子園大会は戦時中に行われることはなかった(1942年に文部省主催で夏の甲子園大会が行われたが、主催が違うので選手権大会の記録として残されていない)。
年を追うごとに日本軍は不利となり、1945年(昭和20年)8月15日、日本は敗戦。
沖縄は日本で唯一の戦場となり、焦土と化して、戦後はアメリカの統治下に置かれることとなった。
太平洋戦争は、レベルが上がりかけた沖縄野球の発展を削いでしまい、沖縄は野球ができる状態ではなくなった。
戦後の1946年(昭和21年)、日本では中等野球がいち早く復活したが、戦後数年間は沖縄では大会は行われなかった。
沖縄野球の歴史もまた、沖縄同様に戦争によって翻弄されたのである。
当時、日本高等学校野球連盟の副会長だった佐伯達郎(のちの会長)は沖縄野球の復興に尽力し、1956年(昭和31年)に沖縄県にも高野連が設立された。
その4年前の1952年(昭和27年)には沖縄大会が復活し、優勝校は東九州大会に参加していたが、レベルの低下は如何ともし難く、甲子園は夢また夢だった。
その後も本土のレベルの高さに跳ね返され続けたが、1958年(昭和33年)の夏、遂に沖縄勢として初めて甲子園出場のチャンスが巡ってきた。
この年は第40回の記念大会として、史上初めて1県1代表が実現した。
そのため、沖縄大会優勝校が自動的に甲子園出場となったのである。
ところで、先に僕は「沖縄勢として初めての甲子園出場」と書いたが、「沖縄県勢として初めての甲子園出場」とは書かなかった。
なぜなら、当時は「沖縄県」が存在しなかったからである。
そう、沖縄はまだアメリカの軍政下に敷かれ、日本から見れば外国だったのだ。
つまり、甲子園には47都道府県の代表が集まったのではなく、46都道府県代表プラス沖縄代表が集ったというわけだ。
戦前は日本国内の県でありながら甲子園出場がなく、戦後にアメリカの占領下になってから甲子園初出場を果たしたのは皮肉なものである。
沖縄勢として初めて甲子園の土を踏んだのは首里高校の選手たちだった。
日清戦争が勃発した年に、京都で琉球人として初めて野球をプレーした沖縄中の後輩たちである。
首里の選手たちはパスポート持参で鹿児島入りし、夜行列車に乗って甲子園を目指した。
明け方、大阪駅に到着した首里ナインを出迎えたのは、他ならぬ佐伯副会長だった。
佐伯の演出により、開会式の選手宣誓は首里の仲宗根弘が行うことになった。
開会式で、純白の生地にに黒字で大きく「SHURI」と書かれたユニフォームに身をまとった仲宗根主将の選手宣誓に対し、甲子園の大観衆は万雷の拍手で応えた。
大会2日目、首里は初戦で敦賀(福井)に0−3で敗れた。
敗戦の原因は、まだ全国レベルに達していなかったのもさることながら、沖縄の野球環境が劣悪だったことも挙げられる。
当時、沖縄には外野フェンスがある球場が存在しなかった。
そのため、沖縄大会ではグラウンドに縄を張ってそれを越えればホームランとしていたのである。
したがって、クッションボールの処理に慣れていなかった。
甲子園での初戦でも、中継プレーにミスが出てランニングホームランを許している。
さらに、沖縄の選手たちの体力不足も明らかだった。
平均身長が162cmと、本土の選手に比べてかなり劣っていたのである。
沖縄の食糧不足が祟って、選手たちは栄養が足りなかったのだ。
初戦敗退とはいえ甲子園の土を踏めたことに満足していた首里ナインだったが、沖縄に帰った時に現実の厳しさを体験する。
アメリカ統治下の沖縄で、選手たちが持ち帰った甲子園の土が「植物検疫法」という法律に触れたのだ。
首里ナインの汗と涙が混じった甲子園の土は、検疫官の手により無情にも那覇港の海に捨てられた。
甲子園の土を捨てた検疫官にとっても、断腸の思いだっただろう。
沖縄にとっても、日本は外国だったのだ。
このことを憐れに思った日本航空のスチュワーデス(客室乗務員)の近藤充子が、甲子園周辺の小石を拾い集め、首里高校に贈った。
この小石は野球のダイヤモンドに形どられ、「友愛の碑」として今も首里高校に残されている。
そんな首里高校のグラウンドに先日の9月4日、不発弾が3発も発見された。
戦争の傷跡はまだまだ沖縄に残っている。
沖縄勢が全国大会で初勝利を挙げたのは、それから5年後の1963年(昭和38年)夏のことだった。
この年も第45回記念大会ということで、1県1代表(北海道のみ2校出場)となったのである。
ただし、この段階でも沖縄はまだ日本に返還されていない。
そしてこの大会でも、首里が沖縄代表として出場した。
初戦で首里は日大山形(山形)に4−3で逆転勝ちし、見事に沖縄勢初の全国大会勝利を収めた。
ここでまた、奇妙な文章に気付かないだろうか。
僕は「沖縄勢初の全国大会勝利」とは書いたが、「沖縄勢初の甲子園勝利」とは書いていない。
実はこの日大山形戦、行われたのは阪神甲子園球場ではなく、阪急西宮球場だったのだ。
第40回大会もそうだったが、今大会でも1県1代表制ということで出場校が多く、日程消化の都合で西宮球場も併用されたのだ。
首里はクジ運悪く次の下関商(山口)戦でも西宮球場での試合となり、0−8で敗れたため、この年の夏は甲子園の土は踏めなかった。
とはいえ、この年の首里ナインはちゃんと甲子園の土を踏んでいる。
春のセンバツに出場したからだ。
センバツでは初戦でPL学園(大阪)に0−8で敗れたとはいえ、甲子園の土を植物検疫法に触れることなく“裏技”を使って沖縄に持ち帰っている。
この裏技を初めて使ったのは首里ではなく、1960年(昭和35年)に沖縄勢として初めてセンバツ出場した那覇高校だった。
那覇は琉球大学と連携して甲子園の土を「研究用」として持ち帰ることにし、土を念入りに消毒、密封することによって植物検疫法に引っ掛からずに済んだのだ。
どの世界、どの世代にも知恵者はいるものである。
そして沖縄勢が最も注目を浴びたのが、1968年(昭和43年)の第50回記念大会に出場した興南だった。
この年も記念大会ということで1県1代表制(北海道のみ2校)だったが、この大会では西宮球場は使用されず、甲子園のみでの開催だった。
興南はあれよあれよと本土チームを撃破し、数年前までは誰も想像しなかった沖縄勢ベスト4進出を果たしたのである。
準決勝では興国(大阪)に0−14と大敗したとはいえ、興南の快進撃は沖縄の人達に勇気を与え、沖縄の日本返還気運に拍車を掛けた。
沖縄が日本に属しているということが当たり前の現代では、当時の沖縄の人達の心情は理解しにくいが、その頃の沖縄では自動車が右側通行だったのである。
沖縄の人達が、沖縄の高校が日本の象徴ともいえる甲子園で活躍している姿を見ることは、我々には想像もつかないほど感慨深いものだったのだろう。
1972年(昭和47年)、沖縄はようやく日本に返還される。
終戦から27年、実に長い道程だった。
日本に復帰した沖縄県の野球は、もはやかつての同情されるようなレベルではなかった。
この時代、豊見城が1975年(昭和50年)春を皮切りに、1976年(昭和51年)夏、1977年(昭和52年)夏、1978年(昭和53年)夏と、夏は3年連続、春夏合計4度のベスト8進出を果たしている。
そして平成の世になった1990年(平成2年)と1991年(平成3年)、沖縄水産が2年連続夏の準優勝校に輝いている。
戦前にあと一歩のところで沖縄県勢初の甲子園出場を逃した、あの沖縄水産だ。
しかし、沖縄県勢初の甲子園制覇はならなかった。
遂に沖縄県民悲願の甲子園制覇を果たしたのが、1999年(平成11年)春の沖縄尚学だった。
沖縄尚学は比叡山(滋賀)、浜田(島根)、市川(山梨)、PL学園(大阪)を次々と撃破し、決勝戦では水戸商(茨城)を7−2で下して、沖縄に初めて紫紺の大優勝旗をもたらした。
水戸商を破って初優勝を果たした決勝戦のあと、ある沖縄出身の参議院議員は「琉球王が水戸黄門に勝った思いだ」と語った。
夏は沖縄水産による2度の準優勝をはじめ他の高校も上位進出を果たしていたが、春の沖縄県勢は実力を発揮できなかった。
温暖な気候に慣れた沖縄の選手たちにとって、春の甲子園の寒さが堪えたのである。
そこで沖縄尚学は寒さ対策を万全にし、選手たちに使い捨てカイロまで持たせてプレーさせた。
こうした寒さ対策が実り、センバツ制覇を成し遂げたのである。
沖縄尚学はその9年後の2008年(平成20年)春、2度目のセンバツ制覇を達成した。
そして2010年(平成22年)春には、興南が沖縄県勢3度目のセンバツ制覇。
1968年、沖縄勢として初めてベスト4に入る大健闘を見せ、まだ沖縄県民とはなっていない琉球人を熱狂させたあの興南である。
さらにこの年、興南が春の余勢をかって夏の甲子園も制し、沖縄県勢初の夏優勝で深紅の大優勝旗を初めて沖縄に持ち帰った。
1958年には甲子園の土すら持って帰れなかった沖縄の高校が、52年後に紫紺と深紅という2本の大優勝旗を沖縄に運んだのである。
それは史上6校目となる春夏連覇であり、沖縄県が日本でも有数の野球先進国であることを証明した。
首里が沖縄勢として初めて甲子園にその姿を表した1958年当時、判官びいきで日本国中の同情を集めた沖縄勢とは隔世の感がある。
戦前は甲子園出場すらなかったウチナーンチュ(沖縄人)の野球が、ヤマトゥンチュ(日本本土人)を越える野球を見せるようになったのだ。
その背景には、かつて戦闘を好まなかった民族性ゆえ、他国から利用されながらも生き延びてきた歴史があるように思えてならない。
現在、ニュージーランドでラグビーワールドカップが開催されているが、ラグビーの強国と言われているのがニュージーランド、オーストラリア、南アフリカという南半球の3国だ。
この3国はいずれも英連邦の国々である。
イギリスを宗主国とするこれら3国が、イギリス(イングランド)生まれのスポーツであるラグビーで勝つことによって、その存在意義を示すことができる。
ウチナー(沖縄)とヤマトゥ(日本本土)との関係が、これに似ているような気がする。
ヤマトゥの象徴である甲子園で、ウチナーンチュが大暴れする。
戦争によって振り回されてきたウチナーが、平和な時代になってようやくその力を発揮することができたのだ。