高知県営春野球場(行った回数:1回)
埼玉西武ライオンズのキャンプ地として知られる高知県営春野球場。
正式名称は「高知県営春野運動公園野球場」と言い、他の多くのキャンプ地と同様、運動公園内にある。
「春野」の名称の元になっている吾川郡春野町が平成の大合併により高知市に編入されたため、現在は高知市内の球場ということになる。
そのため、高知市内の球場といっても高知市街からはかなり離れており、JRの高知駅から路面電車の土佐電気鉄道に乗り、はりまや橋電亭で降りて、そこから路線バスに乗り約35分もかかってやっと辿り着く。
交通の便がいいとはとても言えないので、車で行く方が無難だろう。
春野球場はかつて両翼91mと狭かったが(それでも当時の日本の野球場としては標準だった)、現在では両翼100m、中堅122mと充分な広さで、フィールドは内野が土、外野は冬でも枯れない天然芝、スコアボードは選手名表記ありの磁気反転式、収容人数は16,000人とキャンプ地球場としては大きいキャパシティを誇り、しかもスタンドは非常に綺麗だ。
ナイター設備が無いのが残念だが、そもそも高知県内の硬式野球場でナイター設備を備えた球場はない(2012年には高知市営球場にナイター設備が完成予定)。
プロ野球一軍公式戦も開催可能で、規模や設備の充実度からいえば、高知県内でNo.1の球場ではないか。
それだけに、ナイター設備がないということと、アクセス面の悪さが惜しまれる。
西武が春野球場をスプリング・キャンプ地としたのは、福岡市のクラウンライター・ライオンズを買収して、埼玉県所沢市に本拠地移転し「西武ライオンズ」となった翌年の1980年からである。
その前年、つまり球団買収した初年度のスプリング・キャンプ地は、アメリカ・フロリダ州ブラデントンだった。
九州の貧乏球団から西武グループが経営するようになり、いきなりの海外キャンプということでさすがに金持ち球団は違うと思われたものだが、実態は少々違ったようだ。
その年に阪神タイガースから西武に移籍した田淵幸一によると、ブラデントンはピッツバーグ・パイレーツのキャンプ地だったが、西武に与えられた球場は草ぼうぼうで「ガラガラヘビに注意」という看板まであったという、実にお粗末なグラウンドだったそうだ(田淵幸一・著「ホームランアーティストの美学と力学(ベースボール・マガジン社新書)」より)。
これに懲りたのかブラデントンでのキャンプは1年のみで、翌年からは春野球場を使用するようになった。
球団発足初年度はいくら資金が豊富でも、素人経営の悲しさからか最下位に終わった西武だが、球団経営のノウハウを身に付けてからは、莫大な資本をバックに日本一の強豪球団にのし上がった。
つまり、いくら金があっても、その金の掛け方が問題で、海外キャンプに大金を使ったから強くなる、というものではない。
最強軍団を誇っていた頃の西武のスプリング・キャンプ運営を見ると、それがよく感じられる。
1980年代は、2月から始まるスプリング・キャンプを春野球場からは行わず、最初の1週間〜10日ぐらいまでは西武ライオンズ球場(現・西武ドーム)で始めている。
いや、当時はキャンプを本拠地でスタートさせる球団は珍しくなかったが、その多くの理由は経費削減だ。
ところが西武の場合は明確な理由があった。
関東の所沢は高知の春野よりも遥かに寒いように思われるが、実は2月初旬は春野も所沢も気候的にはほぼ同じで、寒いことには変わりはない。
西武球場なら第2球場や室内練習場、トレーニングルームなど春野球場よりも設備が充実しているし、自宅や合宿所から通える本拠地の方がずっといい、という結論である。
所沢で各自が体を作った後、春野の気温が上がる2月中旬に移動して、チームプレーの精度を上げていく。
つまり、目的に沿って所沢と春野の二段階に分け、充実したキャンプを行っていた。
もっとも、当時のキャンプ事情があったからこそ、こういうキャンプが可能だったとも言える。
当時は2月に始まるキャンプの前に、合同自主トレという奇妙な名前のチーム練習があった。
現在の合同自主トレと言えば、新人選手に対して特別に行うものや、選手数人が集まってトレーニングすることを指すが、当時の事情は全然違っていた。
各球団は1月中旬になると、一部のベテラン選手と外国人選手を除くほぼ全選手が半強制的に集合し、監督やコーチの指導のもと、合同自主トレという名の事実上のキャンプを行っていたのである。
では、合同自主トレとキャンプの違いはと言えば、ユニフォームを着ているか否かだけだ。
野球協約では、12月と1月は選手の年俸の期間には含まれておらず、従って球団が選手を拘束することができない。
つまり、この期間中に球団は選手に対しチーム練習を命じることはできないのだ。
現在もそのルールは変わらないが、当時は「ユニフォームを着ていないからチームの練習ではない」という、どう考えてもへ理屈としか思えない理由がまかり通っていたのである。
要するに、ユニフォームを着ずにトレーニングウェア姿で事実上のキャンプを行い「合同自主トレでござい」と、確信犯的なルール違反が行われていたのだ。
西武の場合は、1月中旬に西武球場で合同自主トレを開始し、2月1日になると堂々と(?)ユニフォームを着てそのまま西武球場でキャンプ・インとなる。
1月中旬から寒い所沢でじっくりと体を作り、暖かくなった2月中旬の春野で実戦練習を重ねていく、という方法を採っていた。
しかし1989年、労働組合日本プロ野球選手会の申し出により、12月および1月の指導者(監督・コーチ)付きによる練習が禁止され、合同自主トレは事実上消滅した。
そのため、本拠地でキャンプ・インを迎える、という方法が時代には合わなくなってきた。
さらに、沖縄県や宮崎県に次々と豪華な施設を誇るキャンプ地が誕生し、各球団はこぞってそちらにキャンプ地を移転した。
そして西武も、2004年よりスプリング・キャンプ地を宮崎県の南郷スタジアムに移転した。
現在、西武が春野球場でスプリング・キャンプを行っているのはB班(二軍に相当)のみである。
今年(2011年)、一軍でスプリング・キャンプを本拠地スタートした球団はない(本拠地スタートしたのは横浜ベイスターズの二軍のみ)。
かつては当たり前だった本拠地キャンプ・イン、流行した海外キャンプ、事実上のキャンプだった合同自主トレがなどが完全に姿を消した。
静岡県の草薙や伊東、兵庫県の明石に姫路、和歌山県の田辺、広島県の呉など本州でのスプリング・キャンプも完全になくなり、かつては「キャンプ銀座」と呼ばれた高知県も一軍キャンプを張っているのは僅か2球団、今では沖縄県と宮崎県にキャンプ地が集中している。
特に1980年以前は全くなかった沖縄県での一軍キャンプが、今では沖縄県で一軍キャンプを張っているチームは実に10球団にも及んでいる。
こうしたキャンプ事情の変遷が、時代の移り変わりを反映しているのかも知れない。
夕陽を浴びる早春の高知市街(高知城天守閣より撮影)