1995年1月15日、東京・国立競技場では神戸製鋼が新日鉄釜石に並ぶラグビー日本選手権7連覇を達成した。
その僅か二日後、神戸に戻ってきたばかりの神鋼フィフティーンを大きな揺れが襲った。
その頃、大阪南部の僕の家では、引っ越しを控えていた。
家の建て替えのために、近所の家を借りて一時期そこに住むためである。
その日の朝、僕はベッドで大きな揺れを感じた。
それは今までに体験したことがない揺れだった。
恐怖のために蒲団から出ることはできなかった。
ようやく揺れが収まった時、気がつけば引っ越し用に積んでいた段ボール箱が崩れていた。
他に被害はなかった。
慌ててテレビを点けると、関西で大きな地震が起こったらしいということは伝えていたが、それ以外のことはわからなかった。
やがてABCの「おはよう朝日です」が始まってからも何度も余震があり、そのたびにエレクトーン演奏の女の子はエレクトーンの下に隠れていた。
その時の情報では、震源地は東海地方らしいと、今から思えばトンでもないことを伝えていた。
状況が把握できていなかったのだろう。
何度も続く余震に司会の宮根誠司は、家にいる方はそのまま家から出ないで下さい、と訴えていた。
それでも会社に出勤してしまうのが日本人の習性である。
僕が出社してみると、思ったほど被害はなかった。
昼のニュースで、大阪南部の震度は4程度だったが、神戸では大きな被害が出ているらしいことがわかった。
その日の夜のニュースでは、神戸が火事に包まれている映像が映し出されていた。
当時の関西人は、関西には大きな地震が起きないという根拠のないヘンな自信を持っていた。
関東では頻繁に地震が起きるのに、関西ではあまり起きなかったからである。
しかしそれが、関西の活断層にエネルギーを溜めていたのかも知れない。
その頃、四国の高松への出張が予定されていた。
入れ歯などを製造しているメーカーが高松郊外に体育館ほどの大きな工場を造り、その製造ラインの設計および製作を依頼されていたのである。
ビッグビジネスを目前にしていた時に突如勃発した大地震だった。
当時は車で四国入りするためには、瀬戸大橋を使うかフェリーで行くしかなかった。
でも、神戸の道路が寸断されていたため、瀬戸大橋を使うことはできなかった。
もっとも、明石大橋ができていても、どのみち神戸を通ることはできなかったが。
それでフェリーの航路を調べたが、淡路島行きはもちろん、徳島行きのフェリーすら全て欠航だった。
唯一四国入りできるフェリーが、大阪南港から出ている高知行きだったので、第一弾はそのフェリーに乗り込むことにした。
第一弾とは打ち合わせのための高松入りで、第二弾は本格的な搬入および組立のために一週間高松に滞在し、第三弾はその後の追加注文およびメンテナンスで高松入りした。
南港を出発したのが午後9時で、高知に着いたのが午前6時、9時間の船旅である。
高知に着いたあとは高知自動車道で川之江JCTへ、そこから高松自動車道で高松入りしたと記憶している。
高松郊外にあるその工場に着いた時は、昼過ぎだった。
帰りは徳島に出て、大鳴門橋から淡路島入りし、洲本からフェリーで大阪に帰った。
その後日、前述したとおり二度目の高松行きで一週間ほど滞在した。
三度目に行った時は、既に3月下旬だった。
行きはフェリーで行ったが、帰りは瀬戸大橋を使うことができた。
既にセンバツも開幕していて、その時はPL学園に在籍していた福留孝介(現、シカゴ・カブス)が甲子園でホームランを打ったのを帰りの車のラジオで聴いていた。
ようやく神戸が復興しかかっていたその数日前、あの忌々しいオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きていた。
最近の年末になると、お題目のように「今年は暗いニュースばかりだった」と言われるが、1995年ほど未曾有の大事件が起こった年もない。