毎週水曜日に「野球少年の郷(ふるさと)・墨谷」という、野球漫画である「キャプテン」「プレイボール」の研究書を連載しているが、同時代の人気野球漫画「ドカベン」もご多分に漏れず愛読していた。
もっとも、こちらの方は全巻揃えていたわけではなく、友達に借りて読んだり、アニメで観たりしていたわけだ。
でも、熱心に読んでいたのはドカベンこと山田太郎が明訓高校に入学して以降で、中学時代のことはあまり詳しく憶えていない。
ところが、最近コンビニで復刻版が発売されたので、山田の中学時代のことを思い出すことができた。
「ドカベン」は「キャプテン」「プレイボール」と異なり、山田とそのライバルとの対決が大きなウェートを占める。
そんな山田の中学時代のライバルには影丸隼人や賀間剛介がいたが、彼らはあくまでも柔道でのライバルであり、中学時代は野球をしていなかった。
野球における中学時代の最大のライバルと言えば、東郷学園の小林真司をおいて他にはいない。
では、小林の球歴はどんなものだったのだろうか。
小林は小学生時代、リトルリーグ世界大会優勝投手という輝かしい実績を持つ。
その後、東郷学園中等部に入学し、いきなりエースの座を射止めた。
その実力は、東郷学園の監督によると「今のまま中学を飛び越えて高校でも通用する」というぐらいだから、とてつもない逸材だったことは間違いない。
ちなみに、その小林とエースの座を競うために東郷学園中等部に入学した里中智は、小林の投球を一目見て本格派投手の道を諦め、アンダースローの変化球投手に変身した。
つまり、里中という稀代のサブマリンは、小林の存在なくして誕生しなかったわけだ。
もし小林がいなければ、里中は低い身長で速球派投手を目指し、虚しい努力を続けていたに違いない。
だが、高校時代は4度の甲子園優勝投手に輝き、プロでも大活躍する里中も、中学時代は小林のために内野手に転向させられ、登板記録は一度もなく、不遇の野球生活を強いられた。
小林の右腕は中学でも冴えわたり、記録男と言われた鷹丘中の長島投手の記録を次々と塗り替えた。
もっとも、小林と長島は同学年のはずであり、なぜ小林が活躍する前に長島が記録を作っていたのかは疑問が残る。
実は僕は、長島は山田の先輩だとずっと思っていたが、中学を同時に卒業しているので同学年であり、したがって小林とも同い年である。
ちなみに長島は中学時代に肩を痛めて三塁手に転向しており、高校での野球記録は不明だ。
そんな小林が最も苦手にしていたのが、当時は西南中だった他ならぬ山田である。
二人が中学二年の時、東郷学園と西南中との試合で山田は四打席中、ホームラン、センター前ヒット、右中間三塁打と、小林をカモにしていた。
そしてその三塁打の後、三塁ランナーとなった山田と、投手の小林にとって、二人の運命を大きく変えるプレーが飛び出す。
1−1で迎えた延長10回裏、1点を取られたらサヨナラ負けになるため(注1)、小林は暴投を気にするあまり硬くなって、投球がワンバウンドしてしまった。
三塁ランナーの山田は一か八かでホームへ突っ込み、ベースカバーに入った小林の目をスパイクしてしまったのだ。
失明寸前の大怪我を負った小林は野球ができなくなり、山田もショックのため西南中から鷹丘中に転校、一時期野球を諦める。
山田が野球を辞めようとしたのはわかるが、なぜ転校までしたのかは不明。
畳屋を営んでいる山田の家は貧乏であり、なぜ私学の鷹丘中へ行ったのかは一切説明されていないが、どうやら鷹丘中の理事長が山田を救うために一肌脱いだらしい。
恐らく授業料免除だったと思われるが、山田は西南中に居づらくなったために理事長が転校を勧めたのだろうか。
それはともかく、野球を諦めて転校した山田だったが、ひょんなきっかけから柔道部に入り、そこでも大活躍することになる。
そんな山田の前に現れたのが、目の手術を控えた小林だった。
かすかに見える小林の目に飛び込んで来たのは、柔道着姿の山田だった。
自分のために野球を辞めた山田に対しショックを受けた小林は、成功率が二割にすぎない手術に必ず打ち勝ってみせると誓う。
小林の根性に屈服した山田は、四時間にも及ぶ目の大手術に捕手の構えのまま付き合い、手術は見事に成功した。
目が見えるようになった小林は野球を再開、そして山田も柔道を辞め、野球部に入部する。
かくして山田の鷹丘中と小林の東郷学園は、神奈川県大東市(注2)の地区予選一回戦で激突した。
東郷学園と西南中が対戦した時は軟式だったが、この大会は硬式らしい(注3)。
この時点で小林は川越中の不知火守と連続無失点記録で並んでおり、この試合の初回を0点で抑えると新記録達成だった。
しかしその初回、新記録を山田との対決で決めようと、わざと五番の山田まで回したことがアダになり、山田にスリーランを浴びてしまう。
そのホームランも、頭上に差し出した小林のグラブに当たりながらバックスクリーンを飛び越えてスコアボードを直撃するという、完璧な当たりだった。
結局、この試合は総合力に勝る東郷学園が5−4で鷹丘中を振り切り、辛くも勝利するが、小林と山田の対決は3打数2安打1四球、本塁打1、二塁打1という、まさしく山田の完勝である。
唯一打ち取ったピッチャーファールフライも、岩鬼正美の治療時間を稼ぐためにボール球もファールで粘り、結局23球(注4)にも及ぶ勝負の末、無理矢理ボール球に手を出したものだった。
もし岩鬼の治療目的がなければ堂々たる勝負ができ、少なくとも四球で歩くことができたのだから、山田の限りなく完全に近い勝利だった。
ちなみに、山田の1四球は最後の打席での故意四球であり、もはや山田を抑えることができないと小林は自覚していたのだろう。
また、この試合で殿馬一人が「秘打・白鳥の湖」を初披露、小林からホームランを打っている。
A地区(注5)で優勝した東郷学園だったが、関東大会で小林は不知火擁する川越中にメッタ打ちに遭い、さらに不知火に対してはパーフェクトを許し、大敗してしまった。
リトル世界一の小林も、不知火の前にはなす術もなかったのである。
東郷学園中等部卒業後、小林はアメリカ留学し、それ以来しばらく山田の前から姿を消すことになった。
小林が復活したのは山田が高校二年の夏、神奈川大会の真っ最中の時だった。
アメリカから帰国した際、搭乗機がハイジャックに遭ってしまったが、偶然乗り合わせていた殿馬との協力でハイジャック犯の逮捕に貢献した。
東郷学園高等部に入った小林は、秋季神奈川大会の台風の目となった。
アメリカ仕込みの全身バネと化した投法は、不知火をして「投手としては里中など目じゃないぜ」と言わせしめた。
また、打者としてもアメリカでスイッチヒッターに生まれ変わり、一流の実力を見せた。
秋季神奈川大会で東郷学園は小林を温存したまま準決勝に進出、初登板となったのは横浜学院戦の九回裏、主砲の谷津吾朗を迎えた時だ。
ここで小林は不思議な変化球で谷津をピッチャーゴロに打ち取り、決勝戦に進出した。
この頃の小林は、不知火より上のような扱いを受けており、明訓に就任したばかりの太平太平監督は「(岩鬼について)不知火ごときの球を打つ必要ない。小林まで力をたくわえておくだよ」と言っていたぐらいだった。
その岩鬼にド真ん中の球をまさかの決勝満塁ホームランを打たれた不知火に対し、小林は「悪球打ちもド真ん中も関係ないぜ!!不知火よ、お前が未熟なだけよ。俺なら満塁になるまでにゲームセットにしてるぜ」という感想を抱いている。
そして東郷学園は明訓と決勝戦で対戦、小林は山田と中学以来の対決をするはずだったが、雨天で決勝戦が流れてしまい、日程の関係上決勝戦を行わずに両校が関東大会に進出することになった。
しかし、関東大会での小林はいきなり2失点したりして、必ずしも快投乱麻というわけにはいかなかった。
それでも準決勝に進出し、強打の仁又四郎を擁する下尾と対戦した。
小林と仁の対決は注目されたが、小林は初披露となる「オーバースローより球速がある」というサイドスローまで駆使して(注6)仁を翻弄するが、痛恨の一発を浴びてしまう。
1−1で迎えた九回裏、二死満塁というサヨナラ負けの大ピンチで打者は四番の仁。
ツースリーから小林はオーバースローでニークロばりのナックルを投げ、仁が空振りして三振に打ち取ったかに思われたが、捕手がこの球を後逸、サヨナラ振り逃げとなった。
決勝を目前に山田との勝負ができなかった小林だが、まだセンバツ出場のチャンスが残っていた。
しかし、当時は関東からの出場は3校で、準決勝に進出しながら東郷学園は地域性からか落選(注7)、センバツ出場はならなかった。
最後の夏に賭けた小林だったが、神奈川大会準決勝で不知火の白新に敗れ、決勝進出はならなかった。
このときのスコアは不明だが、五回までで白新が1−0とリードしており、岩鬼は不知火のシャットアウトで東郷学園が敗れる、と予想している。
小林はまたしても不知火に敗れ去ったわけだ。
そしてとうとう小林は、高校時代に山田と対決することは一度もなかった。
個人的には、中学時代に補欠に追いやった里中との投げ合いも見てみたかったが……。
高校卒業後、山田のライバルたちは次々とプロ入りしていった。
しかし、小林のプロ入りは未だに実現していない。
中学時代は野球をしていなかった影丸や賀間でもプロ入りしているのに、世界一の称号を持った投手としてはやや物足りない感がある。
その原因として、高校時代には一度も山田と対戦していない、ということが小林の存在を希薄にしているようにも思える。
中学最後の試合で不知火に完敗し、その不知火や雲竜大五郎に山田のライバルとしての地位を完全に奪われた。
中学時代の最後に大敗したことが、その後の小林の運命を左右したように思えてならないのだ。
野球に「if」は禁句だが、もし高校時代に一度でも山田と対戦していれば、あるいはせめて不知火にリベンジを果たしていれば、小林は今でも既にプロで活躍していたかも知れない。
だが、中学時代に小林という存在があったからこそ山田はスーパー打者として認識されたのであり、里中という名投手が生まれたのだから、小林は山田やそのライバルたちに大きな影響を与えた影の功労者とも言えよう。
(注1)
後に里中の回想シーンでは、五回までで東郷学園が4−1でリードになっているが、今回は中学時代の小林の回想を採用した。
また、実際の中学野球は7イニング制で、延長戦は地域によって違うが普通は九回まで。
それ以降は「特別延長戦」と呼ばれる、一種のタイブレークで勝敗を決する。
ちなみに「ドカベン」世界では中学野球は7イニング制で行われているようだが、「キャプテン」世界では中学野球も高校野球と同様9イニング制であり、延長戦も18回まで行われる。
(注2)
実際には神奈川県に大東市は存在せず、大東市は大阪府にある。
(注3)
実際には中学校の野球部が出場する公式戦には、硬式の大会は存在しない。
軟式H号を使用した準硬式の大会は行われている都道府県もある。
(注4)
実況放送では「22球目」となっているが(中学野球の地区予選一回戦でなんとラジオ中継されている)、実際には23球目だった。
ちなみにプロ野球での一打席における最多投球数の記録は19球。
(注5)
「A地区」には影丸がいた花園学院や、賀間が定時制で在学していた武蔵中も属していた。
(注6)
実は中学時代、小林はサイドスロー(アンダースローに近い)で投球練習しているシーンがある。
もっとも、試合では常にオーバースローであり、サイドスローはアメリカ留学でマスターしたと思われる。
山田によると、小林の関東大会での苦投の原因は「サイドスローを隠していたから」らしい。
(注7)
関東大会でベスト4に残ったのは優勝の明訓(神奈川)、準優勝の下尾(埼玉)、準決勝敗退が東郷学園(神奈川)、日光学園(栃木)。
このうち明訓と下尾は間違いなく選抜されると予想されていたが、残る1校が注目された。
このうち日光学園は明訓に0−11で1回コールド負け(注:実際の高校野球では1回コールドはありえない)しておりイメージが悪く、逆に下尾と接戦を演じた上に好投手の小林を擁する東郷学園が本命視されていた。
だが、選ばれたのは日光学園であり、東郷学園は選から漏れた。
その理由として、神奈川から既に明訓が選ばれており、地域性を考慮して日光学園を選んだと思われる。
また、1回コールドとはいえ相手は日本一の実力を持つ明訓であり、その明訓は関東大会でも優勝したので、日光学園に優遇措置が取られたとも考えられる。