一回戦、所沢商(埼玉)と対戦するPLの中村監督は、先発投手に桑田を起用した。
予想では、三年生の藤本か東森を起用し、桑田はリリーフに廻すと思われていた。
なぜなら大阪大会では、桑田は主戦級の活躍をしていたとはいえ、先発したのは初登板、初完投、初完封をした四回戦の吹田戦だけで、あとは全てリリーフ登板だったからである。
甲子園一回戦での桑田の先発起用について中村監督は「桑田は一年生で、怖いもの知らずだからです」と答えた。
つまり桑田の試合度胸を買ったわけだが、甲子園では最も実力のある桑田を中心にしなければ勝ち抜けないと中村監督は考えたのだろう。
長丁場の大阪大会では一年生の桑田を無理して使うことはできないが、甲子園なら桑田をエースにするのが最善策と思っていたのかも知れない。
桑田は所沢商戦で二失点の完投勝利。
普通ならこの時点で甲子園のアイドルになるところだが、そうはならなかった。
なぜなら三年前、北陽(大阪)戦で一安打完封勝利で華々しい甲子園デビューした早実の荒木大輔に比べると、インパクトが弱かったからである。
荒木はその後も無失点を続け、決勝の横浜戦での初回に初失点を許したが、無失点記録は44回2/3。
もしあと1/3回を無失点で切り抜けると、戦前の海草中の嶋清一、戦後間もない小倉の福島一雄に並ぶ、45回連続無失点を達成するところだった。
それに比べると、桑田の完投勝利は一年生としては立派なものだが、やはり物足りないものだったのである。
しかし、二回戦の中津工(大分)戦でも先発した桑田は堂々の三安打完封勝利。
しかも甲子園初ホームランのオマケまで付いた。
この辺りから桑田も注目される選手になってくる。
逆に一年生四番として注目された清原は一、二回戦でノーヒット。
清原は常々「『KKコンビ』の最初の『K』は、桑田の『K』やった」と発言しているが、その元となったのはこの一年生時代の甲子園での一、二回戦ではなかったか。
三回戦の東海大一戦では桑田を休ませ、三年生エースの藤本を先発で登板させた。
東海大一はセンバツ4強の強豪だったが、エースの杉本尚彦が肘痛のため、双子の兄である杉本康徳が先発した。
PLは杉本兄の立ち上がりを攻め、先発の藤本も好投、8回からは桑田がリリーフして甲子園初セーブ、準々決勝に進出した。
この頃、優勝候補の池田は初戦の太田工(群馬)を8−1、二回戦の高鍋(宮崎)に12−0と、いずれも圧勝していた。
そして、それ以外の強豪校でも既に星の潰し合いが始まっていた。
二回戦で前年度準優勝の広島商と、練習試合で池田を完封した仲田を擁する興南が激突。
広島商は得意の足技で前年に続きマイク仲田を攻略、三回戦で対戦が決まった池田への挑戦権を獲得した。
二回戦で宇部商は帝京にサヨナラ勝ち、三回戦では高知商のエース・津野が後にメジャーリーガーとなる吉井に満塁ホームランを浴びせ箕島に圧勝、8強に進出した。
二回戦ではセンバツ準優勝の三浦将明(元・中日)を擁する横浜商が、センバツで8強に進出した香田の佐世保工を6−0と圧倒した。
三回戦で前年決勝と同じカードの池田と広島商が激突。
終始池田ペースだったが、水野が頭にデッドボールを食らって、池田の調子が狂った。
なんとか広島商を振り切って8強に進出したが、このデッドボールが後に影響したと言われる。
その準々決勝で、池田にとって最大の敵と言われた高校が立ちはだかっていた。
高校野球では最高の優勝回数を誇る名門中の名門、中京(現・中京大中京)である。
中京には水野と並ぶ豪腕の野中がいた。
中京には控え投手に紀藤がいて、プロ入り後は紀藤の方が大成したが、当時は野中の方が実力的には上だった。
事実上の決勝戦と言われたこの試合で、1−1の同点で迎えた9回表、池田の七番打者の高橋勝也がレフトスタンドへ超特大のホームラン。
この一点が決勝点となり、池田は準決勝へ進出した。
そしてこの瞬間、多くの高校野球ファンはこう感じていた。
「これで池田の夏春夏の三連覇は決まった。優勝は池田に間違いない」
と。
同じ日の準々決勝で、PLは高知商と対戦していた。
5年前の決勝戦と同じカードである。
好調のPL打線は後にプロで活躍する津野を攻めて、序盤で8−0と圧倒的にリードする。
この試合では、それまで不調だった清原も4打数3安打と爆発した。
しかしその後は桑田が投球の際に土に手をかいて負傷、握力を無くしてしまい、乱調に陥る。
桑田はフォームが大きすぎたために、地面に指を叩きつけてしまったのだ。
PLは8点リードしていたにもかかわらず、桑田がKOされ、その後は東森、藤本へとスイッチする。
5回裏に5点を奪われ8−5、6回表に2点を追加するもその裏に4点を奪われ、10−9とPLが1点リードのまま9回まで試合が進んだ。
この1点リードを三年生エースの藤本が守り切り、PLは準決勝へ進出する。
ちなみに、KOされた津野をリリーフしたのは、当時一年生の中山裕章(元・横浜大洋他)である。
この日はすれ違い対決となったが、二年後にはやはり夏の甲子園準々決勝で桑田と中山はお互いに三年生エースとして投げ合っている。
このとき清原は、中山から140mの超特大ホームランを放った。
前に、この年のキーポイントとなる試合が二試合あると書いたが、それは大阪大会での茨木東戦と、甲子園での高知商戦である。
高知商戦で8点リードしながら1点差まで追い詰められたことが、当時のPLの評価に繋がった。
池田の蔦監督は「8点リードしてそのまま勝つチームと、1点差まで詰め寄られるチームでは価値が違う」と自信を覗かせていた。
つまり、センバツ4強の明徳を破った高知商を圧倒して勝ったのならば警戒するが、8点リードしながら1点差まで詰め寄られたのならば、さほど気にする相手ではない、と。
こうして甲子園では、クライマックスとなる準決勝のPL×池田戦を迎えることとなる。
(つづく)