長尾神社から綿弓塚まで。
詳しい情報はこちらのバスサガスから↓
第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。
PLタワーの遥か遠くに大阪湾を望む。さらに、その向こうには甲子園球場がある
●一回戦
P L 000 000 411=6
所沢商 000 000 110=2
●二回戦
中津工 000 000 000=0
P L 000 001 24X=7
●三回戦
P L 230 100 000=6
東海大一 001 100 000=2
●準々決勝
P L 133 012 000=10
高知商 000 054 000=9
●準決勝
池田 000 000 000=0
PL 041 100 10X=7
●決勝
横浜商 000 000 000=0
P L 010 000 11X=3
前年、戦後初・史上2校目のセンバツ2連覇を達成したPL学園(大阪)だったが、その年の夏の大阪大会では準々決勝で府立校の春日丘に足元をすくわれて敗退。
2年続けて春のセンバツで優勝しながら、2年続けて夏の甲子園には出場できなかったのである。
中村順司は監督就任後、2年間はセンバツで負けなしながら、夏はいずれも大阪大会で敗退。
中村監督就任前のPLと言えば、夏に強いイメージがあったのに、
「春の甲子園には強いが、夏の大阪大会には弱い中村PL」
などと揶揄された。
秋になり、新チームのメンバーには、センバツ優勝の時にベンチ入りしていた選手は1人もいない。
夏にレギュラーとなった加藤正樹(元:近鉄)が主力打者、エースは左腕の東森修となった。
しかし、秋季大阪大会では準々決勝で上宮に敗れ、センバツへの道、そして前人未到のセンバツ3連覇の夢も潰えてしまう。
翌春に行われたセンバツの開会式では、主将となった朝山憲重が優勝旗を返しに行った。
いくら「春に強い中村PL」でも、甲子園に出場できなければその強さを発揮できない。
甲子園では池田(徳島)が大暴れ、圧倒的な強さで史上4校目の夏春連覇を果たした。
甲子園にセンバツ優勝校のPLがいなかった前年夏、準々決勝でアイドルの荒木大輔(元:ヤクルトほか)を擁する早稲田実(東東京)を14-2で粉砕し、決勝の広島商(広島)戦でも12-2で大勝して初優勝、高校野球でお馴染みの「バント戦法」とは無縁の豪打は「やまびこ打線」と呼ばれ、池田は大人気校となったのである。
日本全国が池田の大フィーバー、誰もが前年にセンバツ連覇を果たしたPLの存在など忘れていた。
PLは文字通り「暗い春」となったのである。
春季大阪大会では決勝で公立校の桜宮に敗れ、また練習試合でもチームの調子が一向に上がって来ない。
エースは秋の東森から春は酒井徹になり、また夏には藤本耕に交代するのだが、要するに軸となる投手がいなかった。
打線は加藤と朝山が主軸となったが、小柄でいかんせん迫力がない。
例年なら、大阪大会では「私学7強」が圧倒的な力を見せ、特にPLが抜きん出ていたのだが、この年には優勝候補と呼ばれる存在が無く、公立校も含めた「30強」と呼ばれる群雄割拠が予想された。
センバツで優勝しても、2年連続で大阪大会では敗退したのだ。
今年もまた、夏の甲子園には出場できないのではないか、と思われた。
なにしろ、4年間も夏の甲子園から遠ざかっていたのである。
そんな中で、PLに強力な助っ人が現れた。
桑田真澄(元:巨人ほか)、清原和博(元:西武ほか)、田口権一という3人のスーパー一年生である。
特に先輩たちの度肝を抜いたのが清原だった。
打撃練習ではバックスクリーンの後方にある「研志寮」を直撃の140m弾。
練習試合では、当代随一のサウスポーと謳われた興南(沖縄)の仲田幸司(元:阪神ほか)から右中間を破る二塁打を放ち、実戦に強いところも見せ付けた。
清原は中学時代も「エースで四番」で、PLでも当然その座を狙っていたが、「コイツには敵わん」と清原に投手を諦めさせたのが桑田だった。
身長186cmの清原に対して桑田は175cmと目立たなかったが、遠投をすると山なりではなく、低い球筋でスーッと伸びていく、本物の投手としてボールを投げていたのだ。
練習試合では打たれたものの、その素質を見抜いたコーチの清水一夫が「桑田をワシに預けてくれ」と中村監督に直訴し、マンツーマンの特訓が始まった。
ちなみに清水は報徳学園(兵庫)や社会人野球の神戸製鋼で監督を務め、数々の名選手を育てていた。
中村監督が最も期待を寄せていたのが田口だった。
身長192cmの長身投手で、夏の大阪大会では秘密兵器と位置付けていたのである。
もし同じ世代に桑田や田口がいなければ、清原は投手としての道を歩んでいたかも知れない。
PLは初戦(二回戦)で大阪学院大高と対戦した。
筆者は住之江公園野球場でこの試合を見ていたが、四番打者が背番号14。
なぜ名門PLの四番が二桁背番号なのか、理解できなかった。
しかし、背番号14の選手は三塁線を破る二塁打を放ち、その存在感を示す。
翌日の新聞で、背番号14の選手が一年生だということを知った。
名はもちろん清原、つまり筆者は清原の世の中デビューを見たことになる。
三回戦も勝ったPLは、四回戦で吹田と対戦。
吹田は府立校ながら打線が好調で、新聞には激戦を予想する記事が書かれていた。
ところが、PLの先発マウンドに上がったのは背番号17の小柄な投手。
実はこの日も、筆者は大阪球場で観戦していて「相手は打線が好調というのに、背番号17の小さな投手で大丈夫か」と思っていた。
ちなみに、この頃の大阪大会でのベンチ入り人数は17名で、要するに背番号17と言えばドンケツの選手だったのだ。
ところが、この背番号17の小さな投手は凄い球を投げ、好調の吹田打線を全く寄せ付けない。
住之江球場で見た背番号1の藤本とは、全くレベルが違っていた。
終わってみれば2安打完封、6-0の完勝。
背番号17が桑田という一年生投手だったことを知ったのは、例によって翌日の新聞でのことである。
この試合で清原はホームランを放っており、つまり筆者はKKコンビの世の中デビューと、清原の公式戦初ホームランおよび桑田の公式戦初勝利・初完投・初完封を見たことになる。
しかし、意外なことに桑田の先発登板は、大阪大会ではこの試合が最初で最後だった。
五回戦の相手はセンバツ出場校の泉州(現:近大泉州)で、PLにとって初めて当たる強敵。
この大事な試合で先発を任されたのは秘密兵器の田口だった。
だが打ち合いとなり、PLはすぐ桑田にスイッチ、清原のホームランなどにより6-4でなんとか泉州を振り切った。
準々決勝の相手は、PL前監督の山本泰(旧姓:鶴岡)が率いる大産大高(現:大産大附)で、三年生エースの藤本が先発。
ところが、藤本は4回を無失点で抑えるも、接戦と見るや5回から桑田にスイッチした。
この起用法でも、中村監督が最も信頼していた投手が桑田だったことがわかる。
大産大高を5-0の完封リレーで退けると、準決勝の相手は創立4年目の府立校・茨木東。
校名だけを見るとPLが圧倒的に有利だが、茨木東のエース山内嘉弘(元:阪急ほか)に抑えられて大苦戦。
今大会初先発となる酒井が初回に1点を奪われると、今大会初登板の東森にスイッチ、さらに3回からは桑田に継投してPLが必死の防戦となる。
0-1の1点ビハインドで迎えた8回裏、清原が二塁打で出塁すると朝山のセンター前ヒット&盗塁で二、三塁のチャンス、森上弘之が2点タイムリーを放って逆転に成功、2-1でなんとか逃げ切った。
決勝の相手は春季大阪大会決勝で敗れた桜宮。
ここで中村監督は「秘密兵器」田口を先発させる。
しかし、田口は初回にいきなり二死満塁の大ピンチを招いたうえに打球を当ててしまい降板、急遽マウンドに上がった東森が走者一掃の長打を浴びて、0-3の苦しい展開となった。
だが、その後は東森が好投、その間に加藤と朝山のホームランなどで逆転に成功し、最後は桑田が締めくくり、「逆転のPL」らしい試合で遂に5年ぶりの夏の甲子園出場となった。
センバツ2連覇しても夏は大阪大会で敗退したのに、春の段階で全くダメだったチームが夏の甲子園に出場するのだから、高校野球はわからない。
8月1日、中村監督は落ち込んでいた過去2年間と違い、晴れやかな気持ちで夜空に打ち上がるPL花火芸術を見つめていた。
甲子園のベンチ入りメンバー15人が発表され、清原は背番号14から念願のレギュラー番号である3番になり、桑田は17番から準エースの11番に昇格、田口はベンチ入りから外れた。
名門PLの事実上エースと四番打者が一年生、それだけで普通なら大会の超目玉になるだろう。
だが大会前、そんなことは話題にも上らなかった。
注目を集めていたのは超人気校の池田であり、史上初の夏春夏3連覇を達成するか否か、大会前の興味はそれ1点に絞られていた。
センバツでは自責点0で優勝投手の剛腕エース水野雄仁(元:巨人)を打てる打者は誰か、昨夏および今春の甲子園で爆発した「やまびこ打線」を抑える投手はいるのか、全てが池田を中心に動いていたのである。
打倒・池田を果たす高校は、甲子園最多優勝を誇る超名門校の中京(現:中京大中京、愛知)か、センバツ準優勝で雪辱に燃える横浜商(神奈川)か、昨夏準優勝ながら池田に惨敗した広島商か、後のメジャー・リーガー吉井理人(元:近鉄ほか)を擁して池田に負けぬ強力打線を誇る箕島(和歌山)か、練習試合で池田を完封したサウスポー仲田幸司を擁する興南か、他にもエース津野浩(元:日本ハム)の高知商(高知)、センバツ4強の東海大一(現:東海大静岡翔洋に統合、静岡)、好投手・山田武史(元:巨人)の久留米商(福岡)、香田勲男(元:巨人)の佐世保工(長崎)、秋村謙宏(元:広島)の宇部商(山口)、「仲田以上の左腕」小野和義(元:近鉄ほか)の創価(西東京)、強打の帝京(東東京)などが挙げられていた。
そこに「PL学園」の名前はなかった。
「一年生エース&四番」が注目されるどころか「一年生に頼っているようではPLも終わり」と思われていたのである。
大会前の下馬評はBクラス、PLは忘れ去られた存在だった。
PLの初戦、相手は所沢商(埼玉)。
先発のマウンドは、大阪大会ではほとんどリリーフに徹していた桑田に託された。
中村監督は桑田の先発起用を「一年生で怖いもの知らずのところがいい」と、その理由を語っていた。
桑田はその期待に応えるように2失点完投、6-2で初戦を突破した。
二回戦の相手は中津工(大分)。
先発はまたしても桑田、見事な完封勝ちで完全にエースの座を手中にした。
しかも自ら左越え3ランを放つワンマンショーで、PLは7-0と完勝したのである。
一年生がこれだけの大活躍なら、今だったら間違いなく桑田フィーバーとなるところだが、それでも世間の関心は池田に集まっていた。
とはいえ、この頃から桑田が注目され始めていたのは間違いない。
この桑田の活躍を、苦々しい思いで見つめている男がPLにいた。
言うまでもなく「本来のエース」三年生の藤本である。
背番号1を背負いながら、甲子園のマウンドに立てない鬱憤を、練習でぶつけた。
と言ってもブルペンで投球練習するのではなく、エースにもかかわらずバッティング投手を買って出て、1日300球も投げていたのである。
半ばヤケクソゆえの行為だった。
しかし、何が幸いするかわからない。
そんな藤本の姿を見た中村監督は、
「お、アイツ、桑田を休ませるために自らバッピをやってるな。今度は藤本にチャンスをやろう」
と考えたのである。
ベスト8を賭けた強敵相手の一戦、この大事な先発マウンドには遂に藤本を送った。
東海大一も、事実上エースの杉本尚彦が肘痛のため先発回避、背番号1で双子の兄である杉本康徳が先発。
「背番号1の控え投手」同士の先発で試合が始まった。
PL打線は杉本康を早々とKOして藤本を援護、藤本もそれに応えるように好投して7回2失点でマウンドを降りる。
残る2回は桑田が締めくくり、6-2で8強に進出した。
準々決勝では高知商と対戦。
5年前の夏には決勝で戦い、3-2で逆転勝ちして「逆転のPL」の基礎を築いた因縁の相手である。
好調のPL打線は高知商のエース津野を早々と捕まえて、序盤で8-0と圧倒的なリード。
特に、過去3戦では僅かに2安打と、桑田の活躍に大きく水を開けられていた清原が4打数3安打、その3安打が全て長打という大暴れ。
先発の桑田は、三回戦で先発を藤本に任せたおかげで休養充分、4回までスイスイと無失点で料理してPLの楽勝かと思われた。
しかし好事魔多し、桑田は調子が良すぎたのか、投げる時に右手の指をマウンドにぶつけてしまい、握力を失った。
桑田のボールに伸びが無くなると、高知商の「黒潮打線」が桑田に襲い掛かり5回裏に一挙5点、桑田をKO。
PLも6回表に2点を入れて突き放すも、その裏に高知商はリリーフの東森、さらにその後を受け継いだ藤本を攻めて一挙4点、遂に10-9と1点差まで詰め寄られたのである。
8点差からの大逆転となると、高知商にとっては5年前の逆転負けからこれ以上ないリベンジとなるが、ここから藤本が踏ん張った。
10-9のまま、PLが逃げ切ったのである。
8-0の楽勝ムードから一転して10-9の辛勝。
この準々決勝がPLにとってターニング・ポイントとなった。
そして大会はいよいよ4強の激突、運命の準決勝となる。
準決勝を前にして、池田のエース水野は、主将の江上光治に対し「お前、初めていいクジ引いたな」と珍しく褒めた。
準々決勝で勝った池田の主将・江上は準決勝の抽選でクジを引いて、次の相手は「PLvs高知商の勝者」と決まったのだ。
これまで池田は、三回戦で前年夏の決勝と同じカードとなった広島商、準々決勝では「事実上の決勝戦」とまで言われた中京と対戦し、強敵相手にことごとく苦戦していたのである。
しかし、準決勝の相手がPLと決まれば、池田ナイン全員が喜んだ。
準決勝に残った他の高校を見れば、センバツ準優勝の横浜商に好投手・山田を擁する久留米商と、いずれも強敵ばかりだったのだ。
その中で、一年生が中心のPLは、一番与しやすい相手と思ったのである。
いや、池田ナインだけではない。
名将と謳われた蔦文也監督でさえ「高知商に大差のまま勝つのと、1点差まで追い詰められたのでは意味が違う」と言い、言外には「あのまま高知商に大勝していれば、PLも侮りがたい相手だったな」と匂わせていた。
ミーティングでもあまり指示は出さず、水野に対しては「三番の加藤と四番の清原さえマークすれば勝てる」としか言わなかったという。
PLが大量リードを奪いながら、高知商に1点差まで詰め寄られたことで、池田に油断が生じたのである。
新聞の予想では「PLは桑田、藤本のいずれが先発しても相当の失点を覚悟しなければならない。好調なPL打線も水野からはせいぜい2,3点だろう。7分3分で池田が圧倒的有利」というものだった。
一方、準決勝前夜のPL「研志寮」では、中村監督による、
「PLの伝統を壊す、コテンパンに負けるような試合だけはするな。たとえ負けても試合後に『池田は凄かった』などとは絶対に言うな」
という「負けるのが前提のミーティング」が行われていた。
高知商に9点も取られたPL投手陣が、池田の「やまびこ打線」を抑えるイメージは、どうしてもできなかった。
PL打線も、水野の剛球はそう簡単には打てないだろう。
どう考えても、池田はPLにとって荷が重い相手だった。
翌日、超満員の甲子園でPLvs池田の「消化試合」が始まった。
PLは地元ながら、5万8千人の誰もが「やまびこ打線」の大爆発を期待していただろう。
PLの先発マウンドは桑田に託した。
その桑田が1回表の二死後に江上、水野と連続安打を浴びていきなり二死一、三塁の大ピンチを迎える。
続く五番の吉田衡が放った打球はピッチャーの横を抜けてセンター前へ!
と思ったら、桑田が好捕してピッチャーゴロ、自らの守備でピンチを切り抜けた。
もし、この打球が抜けていれば池田が1点先制、「やまびこ打線」が火を噴いていたかも知れない。
一方の水野は初回を3者凡退で軽く料理、調子は上々だった。
ところが2回裏、PLは二死一塁から七番の小島一晃が右中間へ二塁打を放ち、1点を先制した。
だが、1点ぐらいでは池田はビクともしない。
続く打者は八番の桑田。
桑田はカウント0-2と追い込まれながら、次の内角ストレートを強振した。
「大きく上がった!レフトは見上げるだけだ!真っ白いスタンドだ!ホームラン!!背番号1の水野が、背番号11の桑田に打たれました!!」
一年生投手の桑田が、難攻不落の水野からまさかの大ホームラン。
前年夏、水野は早実戦で上級生の荒木から大ホームランを放ったが、その逆のことをやられてしまった。
「僕は一年生やし体力がない。監督さんからも『流し打ちなんてチャチなことはするな』と言われていたし、ヘタに出塁して疲れるよりも、どうせやったらブチ込んだれ!と思いました」
と試合後に桑田が語ったが、実はこの言葉にこそ中村監督による水野攻略の秘策が隠されていた。
「負けるのが前提のミーティング」でも、ただ精神論を説いたのではなく、水野を攻略するポイントを指示していたのである。
「他校は全て、水野の速球に恐れをなして外角球を流し打ちしようとしているが、そんなことをすると振り遅れるだけ。それよりも内角球を思い切り引っ張れ!」
と「負けるのが前提のミーティング」とは思えない強気な言葉を発していた。
さらに、続く九番の住田弘行もレフト・ラッキーゾーンへ連続ホームラン。
下位打線の七、八、九番で4点先制である。
PLは3回裏にも1点を加え、さらに4回裏には今度は小島がレフトへソロ・ホームラン。
水野に3発を浴びせて6-0とPLが一方的リード、全く予想外の展開となった。
一方の桑田は、低めにひょうひょうとカーブを投げ、焦り始めた「やまびこ打線」を手玉に取っていく。
たまにいい当たりを打たれてもバックがファインプレー、塁に出しても堅い守りの併殺網に引っ掛かり、池田は突破口を見出せない。
7回裏にはPLが1点を加えて遂に7-0、地方大会なら池田がコールド負けとなる点差となった。
この頃、池田の3連覇を信じていた徳島県池田町(現:三好市)の役場では「とても見ちゃいられない」と職員がテレビのスイッチを切った。
準決勝第2試合を控え、池田に敗れたセンバツ決勝の雪辱に燃える横浜商のエース三浦将明(元:中日)は、ラジオで「7-0でPLリード」と言っているのを聴いて「このアナウンサーは校名を間違えている」と言ったという。
9回表、池田の最後の攻撃。
豪打を欲しいままにしていた江上、水野の三、四番を打ち取った桑田は、最後の打者もショートフライで片付け、遂に7-0と池田に完勝した。
誰もが予想できなかった結果に、PLの校歌が流れている間も甲子園はシーンとしている。
どの高校の三年生投手も抑えられなかった池田の「やまびこ打線」を、一年生の桑田がまさかの完封。
高校生では打つのは不可能と言われた水野の剛球を、一年生の桑田が大ホームラン、さらに下馬評では「Bクラス」だったPL打線が7点を奪う完勝劇。
この瞬間から、甲子園の主役は池田からPLに変わった。
前年夏、主役が早実から池田に交代したように。
もし、PL学園硬式野球部が休部のまま復活しなければ、この一戦がPLvs池田の最初で最後の試合となる。
決勝の相手はセンバツ準優勝の「Y校」こと横浜商。
前年春の準決勝でPLが倒した相手である。
しかし、その時に敗戦投手となった横浜商のエース三浦は、PLなど眼中になかった。
三浦の目的はただ一つ、センバツ決勝で敗れた池田への雪辱だけだったのである。
三浦にとってその目的が無くなり、一年生が中心のPL相手では拍子抜けする思いだった。
だが、新聞の予想ではもう「PL不利」とは書かなかった。
池田を破って勢いに乗るPLは、もはやセンバツ準優勝の横浜商と互角扱いしていたのである。
しかしY校ナインは「打倒・池田」という最大の目標を失って、心ここにあらずという心境だったのかも知れない。
PLの先発は、前日に引き続き桑田。
桑田は池田戦ほどのキレはないものの、ピンチを招いても見事な牽制球などで切り抜け、Y校打線を無失点で抑える。
2回裏、PLの攻撃は四番の清原から。
池田戦での清原は、7点を奪ったPL打線の中にあって、水野のスライダーを全く打てずに4打席4三振。
四番の責任を果たせなかっただけでなく、完封&本塁打の桑田との差がまた大きく開いた。
一方、マウンド上の三浦は完全に清原を見下ろしている。
三浦はカウント2-2と追い込んだが、次の球を「高校生では打てない」という決め球のカーブではなく、覚えたてのフォークボールで三振を取りに行った。
ところが、そのフォークを叩いた清原の打球はライト・ラッキーゾーンへ。
清原にとって甲子園初ホーマー、PLが1点先制である。
その後、桑田と三浦の投げ合いが続き、1-0でPLリードのまま7回表、横浜商の攻撃を迎えた。
桑田は一死後、四球を与えて一死一塁。
ここでPLベンチが動いた。
なんと、桑田をレフトに下げ、リリーフに藤本を送ったのである。
普通、高校野球で無失点に抑えている絶対的エース(池田を完封した桑田を、そう呼んでもいいだろう)を降板させるなんて有り得ない。
しかも決勝戦、僅かに1点リードの場面である。
「桑田が気だるそうに投げているし、球が高めに浮いた四球となったので、ここが替え時だ。三年間、厳しい練習に耐えてきた藤本の精神力に賭けよう」
中村監督はそう思った。
三年生エースの藤本に花を持たせるためでなく、あくまでも勝つための投手起用である。
とはいえ、中村監督にとってはノルか、ソルかの大バクチだった。
藤本は中村監督の期待に応え、後続を断って無失点で切り抜ける。
その裏、PLは二死二塁のチャンスで、打順が回ってきた藤本が放った打球はショートゴロ。
しかし、この打球がイレギュラーし、二塁ランナーがホームに還って来て貴重な2点目を奪った。
さらに8回裏には、三番の加藤が三浦の決め球カーブを捕らえてライト・ラッキーゾーンへソロ・ホーマー、藤本に貴重な1点をプレゼントした。
3-0とPLリードで迎えた9回裏、藤本は二死無走者で三浦に中越え二塁打を浴びるが、次打者の森屋司をとっておきのパームボールで見逃し三振、藤本はマウンド上で両手の拳を大きく夏空に突き上げた。
大阪大会前は想像だにしなかった、5年ぶり2度目の夏制覇である。
マウンド上にPLナインが集まり、みんなで涙を出して抱き合った。
一年生たちを恨んでいた三年生たちも、もうわだかまりなど無かった。
桑田にエースの座を奪われて自暴自棄に陥った藤本も、優勝の瞬間に甲子園のマウンドに立っている。
それも桑田のおかげだと、思えるようになった。
春の開会式では、1人で紫紺の大優勝旗を返しに来た朝山主将が、夏の閉会式では深紅の大優勝旗を受け取る。
加藤から主将の座を引き継いだ朝山にとって、地獄から天国へ駈け登った瞬間だった。
「夏に弱い中村PL」が、遂に夏の甲子園制覇。
そして、前日まで池田の蔦監督が保持していた甲子園15連勝の記録を抜き、中村監督は甲子園16連勝の新記録を打ち立てたのである。
一塁側のアルプス・スタンドには、PL応援団による「日本一」「We are №1」という優勝用の人文字が躍っていた。
この瞬間から後の2年間、甲子園はKKコンビのPLが中心になって動いていくことになる。
それはKKコンビにとって、全ての高校からマークさせるという、試練の始まりでもあった。
【つづく】
①藤本 耕 三年
②森上弘之 三年
③清原和博 一年
④住田弘行 三年
⑤山中勝巳 三年
⑥朝山憲重 三年 主将
⑦池部貴宣 三年
⑧加藤正樹 三年
⑨神野美津夫 三年
⑩東森 修 三年
⑪桑田真澄 一年
⑫小島一晃 三年
⑬酒井 徹 三年
⑭松本康宏 二年
⑮鈴木英之 二年
1983年夏
満開となったPL桜
●一回戦
東北 000 001 000=1
PL 102 000 01X=4
●二回戦
PL 000 101 000=2
浜田 000 100 000=1
●準々決勝
箕島 000 000 000=0
PL 001 000 00X=1
●準決勝
横浜商 002 000 000=2
P L 010 010 001x=3
●決勝
P L 200 010 525=15
二松学舎大付 010 000 001=2
1981年春、中村順司監督は就任わずか半年でPL学園(大阪)をセンバツ初優勝に導いた。
しかし、余勢を駆って春夏連覇を目指した同年の夏には、大阪大会の五回戦で大商大堺に敗れ、準々決勝にも進出できずにまさかの甲子園不出場。
春のセンバツでは優勝したにもかかわらず、夏は大阪大会でベスト8にも残れなかったのである。
そもそも、センバツ優勝だって鶴岡泰前監督の遺産によるものではないか、と陰口を叩かれた。
秋になって新チーム結成、大黒柱だったエースの西川佳明(元:南海ほか)、主将で主力打者の吉村禎章(元:巨人)、リード・オフ・マンの若井基安(元:南海・ダイエー)ら三年生が抜けてしまった。
そして、PL始まって以来の、有望選手がいない小粒なチームになったのである。
西川に代わってエースとなったのが榎田健一郎(元:阪急)。
榎田とバッテリーを組んだ捕手は森浩之(元:南海・ダイエー)で、後にプロ入りしたのはこの二人だけという、PLにしては珍しい不作の代である。
秋季近畿大会メンバーで最も高い身長だったのが榎田の181cmで、やはりPLにしては珍しい小柄なチームだった。
榎田は西川と違って絶対的エースとは言えず、他に飯田広光、木本貴規と合わせて「右腕トリオ」という投手を揃えた。
後の話になるが、翌年夏の大阪大会では榎田と飯田を交互に先発させるというローテーションを組み、木本がリリーフ・エースとなる、まるでプロのような投手起用をしたのである。
1987年、中村PLは野村弘(現:弘樹。元:横浜大洋・横浜)、橋本清(元:巨人ほか)、岩崎充宏という三人の投手を擁して春夏連覇を成し遂げたが、その原型がこの年のチームにあったのだ。
打撃陣は、吉村らの主砲が抜け「強打PL」のイメージからは程遠い軽量打線となった。
秋の段階では、練習試合を含めて21試合でホームランは僅かに3本(内、1本はランニング・ホームラン)という、PLらしからぬ長打力の無いチームに成り下がったのである。
センバツ決勝で代打同点三塁打という大仕事をやってのけた佐藤公宏は新チームでリード・オフ・マンとなったが、スランプに陥ってしまい、とても一番打者としての役割を果たしたとは言えなかった。
また、センバツ優勝メンバーでは唯一のレギュラーだった岩井忠彦が四番に座ったが、長打力に欠け、また低打率に喘いでいたのである。
秋季大阪大会では決勝で公立校の桜宮に0-1で完封負け、また近畿大会では準決勝でエースを温存した箕島(和歌山)に2-3で敗れた(ちなみに、この試合で完投勝利した箕島のピッチャーは、後のメジャー・リーガーとなる、当時は一年生で控え投手だった吉井理人)。
大阪大会で準優勝、近畿大会ベスト4でなんとか翌春のセンバツには選ばれたものの、エースは固まらず、打撃不振でこのような戦績では、連覇を狙うチームとしてはお粗末と思われ、優勝候補には挙げられなかった。
不安いっぱいのまま、中村PLは2年目の春を迎えたのである。
センバツの開幕を間近に控え、PLではベンチ入りのメンバー発表が行われた。
当時の甲子園でのベンチ入りは15人。
甲子園の土が踏めるかどうか、選手たちが最も緊張する瞬間である。
中村監督が、背番号1から順番に選手名を読み上げていった。
1番から9番まではレギュラーメンバー、選手たちもだいたい想像がつく。
しかし、背番号10の時に、選手たちからどよめきの声が上がった。
「10番、伊藤義之」。
近畿大会で背番号10を着けていたのは「右腕トリオ」の一人、木本だった。
木本は箕島戦で敗れたとはいえ先発し、箕島の強力打線を相手に好投して株を上げたはずである。
しかも、決め球のスライダーを持っていて球種も豊富で、勝つためには絶対に必要な投手だ。
一方の伊藤は、二年の春に長身(前述の榎田を上回る183cm)を利して台頭し、榎田と並ぶ次期エース候補となった。
しかし、その夏に急性肝炎を患い、成長を遅らせたのだ。
新チームになって秋季大阪大会で連続完封と実力を見せたものの、近畿大会ではベンチ入りメンバーから外れた。
それ以来、伊藤は練習の虫となった。
自由時間を全て練習に充てたのである。
「努力」と「戦力」、中村監督は迷うことなく「努力」をとった。
そして、選手たちに「今、何をすべきか」をわからせたのである。
結果的に、伊藤が甲子園のマウンドに立つことはなかった。
しかし、それ以上のものを得たと言えよう。
一方の木本も、夢にまで見た甲子園のベンチ入りから外されたが、夏には前述したとおりリリーフ・エースとしてカムバックしている。
いよいよセンバツを迎えた。
センバツの歴史で、連覇を達成したのは戦前の1930年、第一神港商(現:市神港、兵庫)だけ。
戦後では、センバツの2連覇は一度もない。
PLは、その大偉業に挑もうとしていたのである。
初戦の相手は東北(宮城)。
接戦が予想されたが、PLが初回に1点を先制すると楽な試合運びになり、先発の榎田も1失点するものの好投し、4-1で快勝した。
二回戦の相手は浜田(島根)。
ここで中村監督は思い切った選手起用を見せる。
先発投手は、連戦になることを見据えてエースの榎田を温存、控えの飯田をマウンドに送った。
さらに、四番打者には一回戦でノーヒット、七番打者だった松田竜二を起用したのである。
松田はチーム一の長打力を誇っていたものの、積極性に欠けてチャンスに弱く、打率も低かったので下位打者に甘んじていた。
しかし、浜田のエース・川神俊殻が下手投げの技巧派で、そういう球に強いという理由により松田を四番に据えたのである。
この起用に、おとなしい松田の心が燃えた。
「PLの四番」という重責を負った松田は2安打2打点、それがそのまま先制打と決勝打になったのだ。
投手陣も飯田―榎田と繋いで松田が挙げた2点を守り抜き、2-1で辛勝した。
この松田の四番打者起用が、PLの運命を大きく左右することになる。
準々決勝の相手は優勝候補筆頭の箕島。
近畿大会の準決勝で敗れた相手だ。
しかもPLはこれまで甲子園で2度戦い、いずれも敗れている。
PLにとって、苦手な相手だ。
しかも箕島は、前日の二回戦で明徳(現:明徳義塾、高知)と対戦し、延長14回で奇跡の逆転勝ちを演じている。
あの1979年夏、箕島×星稜(石川)の名勝負を彷彿させるような激闘だった。
「西の横綱対決」と呼ばれた準々決勝は近畿大会と違い、PLは榎田、箕島は上野山辰行という両エースの先発で始まった。
PLは3回裏、三番の久保田幸治の右前打で1点先制。
榎田は、大会№1と謳われた箕島の強力打線を、快速球で全く寄せ付けない。
試合は1-0でPLが1点リードのまま淡々と進み、9回表の箕島最後の攻撃を迎えた。
箕島は一死後、ヒットで出塁し、次打者は送りバント。
しかし、榎田が慌ててしまい一塁へ悪送球してしまった。
一死二、三塁と、箕島が逆転のチャンス。
榎田は、いやPLナイン全員が「奇跡の箕島」の影に怯えていたのだ。
PLだって「奇跡のPL」なのだが、前日の明徳戦での逆転劇もあるし、箕島に対して苦手意識が拭えなかったのである。
しかも、1979年春の準決勝ではPLは9回まで箕島を3-1とリードしながら、二死から逆襲に遭い、延長戦で壮絶な逆転負けを喫していたのだ。
だが、箕島は四番打者の南村典男にスリーバント・スクイズを敢行、それを失敗して自滅してしまう。
PLはスクイズに対して全くの無警戒だったが、試合巧者の箕島らしからぬ失態で勝手に転んでくれたのだ。
まだ逆転のピンチは続いたが、榎田は落ち着きを取り戻し、後続を断って見事に1点差を守り切った。
PLは難敵中の難敵、箕島を1-0の最少スコアで破ったのである。
準決勝の相手は、荒木大輔(元:ヤクルトほか)を擁する早稲田実(東京)を破って意気上がる「Y校」こと横浜商(神奈川)。
PLは横浜商の二年生エース・三浦将明(元:中日)を攻めて2回裏に1点先制、しかしPLの榎田も箕島戦のようなキレが見られず3回表に2点を奪われ、逆転を許してしまう。
PLは5回裏に久保田のスクイズで同点に追い付き、2-2のまま9回裏、PL最後の攻撃を迎える。
一死後、「本来の四番」だった岩井の代わりに先発出場した加納昭二が四球で出塁、盗塁も決めて二死二塁で打者は榎田。
「打つ方は全く自信がない」と言っていた榎田が放った打球はセンター前に転がり、加納がサヨナラのホームを踏んだ。
「サヨナラのPL」の再現である。
史上2校目、戦後初のセンバツ連覇にリーチをかけたPLだったが、その戦いは決して楽なものではなかった。
二回戦から準決勝まで3試合連続で1点差試合、しかもロースコアである。
ここまで、PLには1本もホームランがない。
最少得点差を、見事なまでの守備で切り抜けて来たのだ。
ここで筆者は断言する。
この年のPLは高校野球史上、最高の守備力を誇ったチームである、と。
これは、かつて中村監督自身が選手時代、守備の人だったことが影響しているとも言えよう。
非力だったためプロには行けなかった中村監督だが、守備力だけなら間違いなくプロ級だったという。
この年のPLには傑出した選手はいなかったが、類い稀なる守備力で勝ち進んだのである。
「守って守って守り抜け」、それが中村監督の信条だった。
守備こそ最大の攻撃、という信念である。
まさしくこの年のPLは、攻撃的な守備を敢行したのだった。
こうして決勝に進出したPLは、センバツ連覇という最後の大仕事に取り掛かったのである。
決勝の相手は、2回目の出場という新興校の二松学舎大付(東京)。
東京vs大阪という二都決戦である。
二松学舎大付は、大会前では全くのノーマークだったが、準決勝で名門の中京(現:中京大中京、愛知)を破って勢いに乗っているチームだった。
しかし一回表、PLの一番打者である佐藤が二松学舎大付の左腕エース・市原勝人の初球を捉え、打球はレフトのラッキー・ゾーンに飛び込んだ。
甲子園史上初の、決勝戦での初回先頭打者初球ホームランである。
佐藤は前述したように、新チームになってから不振に喘いでいた。
だが、甲子園入りすると、水を得た魚のように暴れまわったのである。
リード・オフ・マンとしての働きはもちろん、ショート守備でも抜群の動きを見せていた。
前年、9回裏に代打で起死回生の同点三塁打を打ったように、甲子園の水が合ったのだろうか。
初回に佐藤のホームランにもう1点を加えたPLは有利に試合を運ぶ。
3-1の2点リードで迎えた7回表、PL打線が遂に爆発した。
1点を加えて4-1となり、さらに無死満塁で迎えるのは四番の松田。
松田が捉えた打球は右中間を転々とした。
満塁走者一掃の三塁打……と思われたが、打者走者の松田まで一気にホームへ。
なんと満塁ランニング・ホームラン、8-1と逆転不可能のリードとなった。
秋の段階では、いやセンバツ一回戦までは「勝負弱い」と言われていた松田が放った、値千金の一打である。
準決勝までは一発なしで守り勝ってきたPLが、決勝戦では佐藤の先頭打者本塁打、松田の満塁ホームランで事実上、勝負が決した。
その後もPL打線の勢いは止まらず、8回、9回と点を重ねて、最終的には当時としては決勝戦最多得点差となる15-2で圧勝、PLは史上2校目、戦後初となる52年ぶりのセンバツ連覇を達成したのである。
ちなみに、21世紀となった2017年現在でも、この年のPL以降にセンバツ2連覇を果たした高校はない。
主将の星田倫好が優勝旗を受け取って、2年連続で紫紺の大旗がPLの校長室に飾られることになった。
「守って守って守り抜く」PLが、苦しんで苦しんで1点差ゲームを勝ち抜いて、我慢を重ねた末の、圧倒的な力を見せ付けた勝利だったのである。
「鶴岡遺産」の前年から脱し、「中村PL」の真骨頂を見せ付けたのがこの年のPLだった。
それは、守備を中心とした「変幻自在」の野球である。
突出した選手がいなくても、守りを固めれば優勝できることを中村監督は証明した。
しかも、打線では一発が無くても、あらゆる手段を講じれば点を取れる。
さらに、複数の投手を揃え、下位打者だった松田を四番打者に置いて打線を活発化させたり、後の無敵軍団を誇る「中村PL」の原点となったのがこの年のPLだったと言えよう。
ただ「中村PL」も決して順風満帆ではなく、この年の夏以降にはさらなる試練が待ち受けていた。
【つづく】
①榎田健一郎 三年
②森 浩之 三年
③松田竜二 三年
④清水泰博 三年
⑤星田倫好 三年 主将
⑥佐藤公宏 三年
⑦井島善光 三年
⑧岩井忠彦 三年
⑨久保田幸治 三年
⑩伊藤義之 三年
⑪飯田広光 三年
⑫井上忠義 三年
⑬加納昭二 三年
⑭伊藤幸治 三年
⑮小野 仁 三年
1982年春
しかし、その存在は大阪府民ですら知られていない。
以前、朝日放送(ABC)の「なるみ・岡村の過ぎるTV」というテレビ番組で、「大阪府でいちばん田舎なのはどの市町村か」というアンケートを取った。
しかし、その中に「河南町」という答えは1票もなかった。
河南町はそれほど田舎ではないということか?
否、そうではなかった。
要するに「河南町」という町名を誰も知らなかったのである。
つまり、田舎かどうかという以前に、その存在すら認知されていないのが河南町ということだ。
存在を知らなければ、投票のしようがない。
それが河南町だったのである。
この結果を不憫に思ってか、後にこの番組では河南町の特番が組まれた。
しかし、その内容は惨憺たるものだった。
●大阪の不動産屋ですら河南町なんて知らない
●漢字は簡単なのに、町名を読める人がいない(「かなんちょう」と読む)
●町内に鉄道路線がなく、とある地区ではバスは1日4本だけ
●その地区の小学生は、通学にタクシーを使用しなければならない
こんな町に住んでいるヤツの顔が見たい!(鏡を見れば?)
筆者が「どこに住んでいるの」と問われれば、「河南町」と言ってもまず理解されないので、やむなく、
「つまり、富田林の近くで、富田林と言えばPLがある市で、花火が綺麗に見れるねん」
「富田林に住んでるの?」
「いや、その隣の町で……」
と、いちいち富田林のPLから説明せねばならず、実に面倒くさいことになる。
「嗚呼!花の応援団」という漫画では、河南町がある南河内地区を舞台にしていたにも関わらず、河南町には「こうなんちょう」と、わざわざ間違えたルビが振られていた。
知らんのなら、ルビなんて振るな!
この漫画を描いたどおくまんは南河内に精通していたはずだが、河南町の読み方を知らなかったのである。
では、河南町は大阪府でいちばん田舎かというと、そんなことはない。
河南町の南隣りには、大阪府で唯一の村である千早赤阪村があるし、北隣りには河南町より人口が少ない太子町がある。
千早赤阪村や太子町に比べると、河南町はまだマシと思えるのだが、それ故に河南町は中途半端な田舎なのである。
要するに、個性が全くない。
千早赤阪村は、大阪府下で唯一の村として存在感があるし、楠木正成の根拠地としての知名度がある。
そして、大阪最高峰である金剛山と、二番目に高い大和葛城山があって、登山客が多い。
特に金剛山は、日本唯一の村営ロープウェイがあって、登山客でごった返している。
おそらく富士山と高尾山に次ぐ、日本有数の登山客が多い山だろう。
そして太子町は、町名でもわかるように聖徳太子ゆかりの町だ。
さらに太子町には二上山があって、金剛山や葛城山ほど高くないので、手軽なハイキングとして人気コースだ。
ところが、河南町にはなーんもない。
二上山より高い山(岩橋山)はあるのに、一般的には全く知られていなくて、ハイカーなんてまず見掛けない。
早い話、山深いだけで、一般の人は寄り付かないのである。
田舎で人口は少ないわ、他から人はやって来ないわ、散々だ。
その点、観光資源がある千早赤阪村や太子町が羨ましい。
史跡も結構あるのに(西行法師の終焉地である弘川寺など)、全然有名じゃない。
要するに、河南町とは通り過ぎるだけの存在なのである。
千早赤阪村や太子町にあるのは、観光資源だけではない。
千早赤阪村には国道309号が通っていて、水越峠トンネルを抜けると奈良県に行くことができる。
太子町にも国道166号が通じており、竹内峠を越えれば、そこは奈良県だ。
つまり、千早赤阪村と太子町には奈良県に抜ける道があり、かなり重要な場所と言える。
実際に、国道309号(水越峠)と国道166号(竹内峠)は二車線の立派な道路で、交通量も多い。
流通道路として機能を果たしているのだ。
ところが、河南町にはそれすらない。
河南町には観光資源もなければ、流通道路もない。
ハッキリ言って、河南町はクソの役にも立たないのである。
それが「奈良県道・大阪府道704号竹内河南線(以下・大阪府道704号)」だ。
府道704号線は平石峠を越える道だが、府道と銘打ちながら車は通行できない。
府道ならぬ「腐道」である。
文字通り腐った道、それが府道704号だ。
それでも奈良県側はまだマシ、舗装されているしそれなりに整備されている。
しかし大阪府側(つまり河南町)の道は、舗装もされていないし全く荒れ果てたままだ。
大阪府が管理しているはずなのに、全くのノータッチである。
府道でありながら、途中では倒木があってまともに進めない。
また、丸太階段があって、行く道を阻む。
つまり、大阪府にとって河南町とは全くのお荷物、いらない子なのである。
府道704号、平石峠越え。こんな悪道で「府道でござい」とよく言えたものだ
付録①千早赤阪村から奈良県御所市に抜ける水越峠トンネル(平石峠と見比べて)
付録②太子町から奈良県葛城市に抜ける竹内峠(平石峠と見比べて)