1990年4月8日、東京・秩父宮ラグビー場で第二回ワールドカップ、アジア太平洋地区予選が開幕した。
ジャパンはトンガ、韓国、西サモアの順で戦うことになっていた。
宿沢が望んでいた順番だった。
第一戦で、最も勝てる可能性の高い韓国と戦って、それに勝って波に乗るという方法もあったのだが、もし韓国に負けてしまうとトンガと西サモアに連勝しなければならず、予選突破の可能性は限りなく低くなる。
そこへいくと、初戦で最大の目標であるトンガと対戦し、それに勝つと第二戦の韓国戦に勝てば一気にW杯出場を決めることができる。
もしトンガに敗れても、第二戦の韓国に勝って、最終戦の西サモア戦はイチかバチかで臨める。
つまり、最後まで予選突破の可能性を残すことができるのだ。
宿沢はこの順番になるよう日本協会に打診していたが、この試合日程が「開催国権限」で決まったかどうかは定かではない。
トンガ戦では三人のキーマンがいた。
BK(バックス)ではFB(フルバック)の細川隆弘(神戸製鋼)、FW(フォワード)ではLO(ロック)の林敏之(神戸製鋼)とNo.8(ナンバーエイト)のシナリ・ラトゥ(三洋電機)である。
試合ではジャパンFWがトンガFWにプレッシャーをかけ続け、たまらず反則を犯すトンガに対し、細川が次々とPG(ペナルティ・ゴール)を決めた。
これだけPGが面白いように決まるジャパンを今まで見たことがなかった。
思い出されるのが第一回W杯でのアメリカ戦。
試合内容では押しまくりながら大事な場面でのPGをことごとく外し、W杯初勝利を逃してしまった。
日本人選手にも優秀なプレースキッカーがいないわけではなかったが、ポジションスキルを考えるとキッカーを優先させることはできなかった。
その点、細川はポジションスキルにも優れたキッカーだった。
宿沢は最初、細川をWTB(ウィング)で起用しようと考え、神戸製鋼のキャプテンでもある平尾に、細川にWTBの練習をさせるように指示した。
神鋼ではワラビーズ(オーストラリア代表)の名WTBだったイアン・ウィリアムスがプレーしている。
イアンにマンツーマンのコーチを受けた細川は、次のジャパン合宿ではウィング気取りだった。
なにしろWTBといえばラグビーではトライゲッターの花形ポジションである。
しかし、宿沢の気持ちは既に変わっていて、慣れないWTBよりも慣れたFBをやらせたほうが良いと思った。
ジャパン合宿の練習で、WTBのポジションに就こうとした細川に、宿沢がぶっきらぼうに言った。
「やっぱりフルバックをやっとけ!」。
宿沢にそう言われた細川は、ハトが豆鉄砲を食らったような顔になった。
そんな細川を見て、平尾が爆笑した。
ちなみに、平尾と細川はいとこ同士である。
ベテランLOの林はまさしくFWの要だった。
当然、トンガ戦にも出場予定だったが、練習中に怪我をしてしまい、宿沢は林の欠場を決めた。
しかし林は、なんとしても試合に出たい、トンガ戦に全てを賭けると言う。
だが、怪我をしている選手を使うことは宿沢のポリシーに反することだった。
再度、林に打診したが、試合に出るの一点張り。
そこで、強化委員長の白井善三郎に相談し、白井から林欠場の説得をしてもらうことになった。
だが、なんと林は、この白井の申し出すら突っぱねたのである。
こうなったら仕方がない。林の熱意を買って、試合起用を決めた。
そして、試合では怪我を感じさせないような見事なプレーでトンガの突進を阻止し、「壊し屋ロック」の健在ぶりをアピールした。
ただし、後に宿沢が知ったことだが、実はこの第一戦のトンガ戦に林は徳島から父親を招待していたという。
父親は第一戦しか観戦できなかったので、林は第一戦出場にこだわったのではないか。
それが証拠に、第二戦では欠場させる、と林に通告すると、アッサリ承諾したと、宿沢は自著「TEST MATCH」で書いている。
この宿沢の疑問に対し、林はやはり自著「楕円球の詩」で反論している。
自分がトンガ戦出場にこだわったのは、この試合に勝てばW杯に出場できると信じていたからだ、と書かれている。
宿沢さんが考えているような、そんなおセンチな理由じゃありませんよ、と言わんばかりだ。
宿沢がトンガ戦でもっとも心配していたのがラトゥだった。
なにしろトンガは、ラトゥにとって母なる国である。
もし宿沢が他国の選手としてジャパンとテストマッチを行うことになったとき、闘争心を保てることができるか?
しかしラトゥは、ぜひ出場させて欲しい、トンガ戦は特に燃える、と宿沢に言った。
トンガ代表のメンバーには、大東文化大学に入学する以前、トンガで一緒にプレーした仲間がいた。
かつてのチームメイトと、W杯出場がかかった真剣勝負でぜひ戦ってみたい、と。
前回のトンガ遠征の時、トンガのNo.8の選手は宿沢に対し、ラトゥはトンガではCTB(センター)の選手だったから、トンガNo.1のNo.8は俺だ、と実にややこしい言い方をしていた。
信じられないことに、ラトゥはトンガ時代、BKだったのである。
そんなことはともかく、トンガ戦でラトゥは我が同胞に強烈なタックルを見舞い続けた。
これが今の俺だ、ジャパンNo.8のラトゥだ、と言わんばかりに……。
試合は28−16、ジャパンの完勝だった。
トンガにターゲットを絞る、この戦略に間違いはなかった。
次は韓国を粉砕し、一気にW杯出場を決めるのみだ。
三日後の4月11日、ジャパンは秩父宮で韓国を迎え撃った。
この日の秩父宮は平日の昼間にもかかわらず、満員の観衆で膨れ上がっていた。
やはり、W杯出場決定の瞬間を見たかったのだろう。
スタンドにはスーツ姿が目立ち、仕事をサボって観に来た不届き者のサラリーマンが大勢いたに違いない。
しかし、韓国はそれほど甘くはなかった。
初戦で西サモアに大敗した韓国は、日本戦に全てを賭けてきた。
もし日本に勝てば、最終戦のトンガ戦に勝ってW杯出場も夢ではないからである。
韓国の捨て身のアタックに対して受身に廻ったジャパンは、前半に0−10とリードを許し暗雲が立ち込めたが、前半終了間際にトライとコンバージョンを決めて6−10で前半を折り返した(当時のトライは4点)。
ジャパンを相手にしたとき、前半は狂ったようにラッシュをかけてくるも、後半に息切れしてしまうのは韓国のいつものパターン。
前半終了間際のトライ&ゴールがかなり効き、後半はジャパンが韓国を圧倒し、次から次へと得点を重ねた。
終わってみれば26-10でジャパンが完勝。
2勝0敗で西サモアと並び、最終戦を残して宿沢の思惑通りW杯出場を決めた。
試合後、秩父宮には宿沢を狙うスナイパーが大勢いた。
ノーサイドから1時間以上たった後、スナイパーたちが秩父宮のスタンド裏で宿沢を捉えた。
スナイパーたちにに捕まった宿沢は、天高く放り投げられた。
一年前、スコットランドに勝った後に秩父宮のフィールドで選手たちに胴上げされた宿沢は、今度はスタンド裏でジャパンのサポーターたちに胴上げされた。
(つづく)