第92回全国高等学校野球選手権大会は興南(沖縄)の春夏連覇で幕を閉じたが、高校野球が始まったのはいつのことか。
第1回大会が開催されたのは1915年(大正4年)で、旧学制のため当時は「全国中等学校優勝野球大会」という名称だった。
その頃はまだ甲子園球場は存在せず、大阪府の豊中グラウンドで行われた。
現在は取り壊されて住宅地になっているが、高校野球(中等野球)発祥の地として記念公園が造られている。
しかし、豊中グラウンドは僅か2年間の使用に留まった。
なにしろグラウンドと言っても草っ原に縄を一本張ってあっただけの粗末な代物で、史上第1号のホームランは外野に飛んだボールが草むらの中を転々とし、外野手が必死でボールを探していたらカエルやヘビが飛び出してきてビックリ仰天している間に、打者走者がホームインしてしまったものだったという。
また、中等野球の人気は想像以上で、400人ぐらいしか収容できない豊中グラウンドでは対応できず、沿線の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄宝塚本線)は単線で一両編成、午後6時に試合が終わっても乗客をさばききるのは午後9時という有様だった。
そこで白羽の矢が立ったのが、阪神電気鉄道の沿線にあった鳴尾競馬場である。
阪神電鉄は競馬場に来る大勢の乗客をさばくのにも慣れていたし、競馬場の中ならグラウンドが二面とれる。
二面のグラウンドを使用すれば開催期間も短くて済み、当時は滞在費用が学校負担だったため、出場校にとっては助かったのだ。
鳴尾競馬場は、現在の甲子園駅から甲子園筋を真っすぐ約1.5km南下した突き当たり、かなり海に近い所にあった。
もっとも当時は甲子園駅は存在せず(甲子園球場がなかったのだから当然である)、甲子園筋の部分は枝川という武庫川の支流になっていた。
もちろん最寄り駅は鳴尾駅だが、距離で言うと現在の甲子園駅の方がやや近い。
現在の阪神タイガース二軍の本拠地、鳴尾浜球場よりもかなり西北の方になる。
現在では浜甲子園運動公園に鳴尾球場跡の記念碑が建っている。
と言っても、そこよりもやや北にある、現在は浜甲子園団地になっている所が鳴尾球場の正確な跡地なのだそうだ。
これが現在の地図に当時の地図を黒字で重ね合わせたもので、「場馬競」と書かれている所が鳴尾球場だ。
鳴尾球場での記念すべき初めての大会、第3回大会はいきなり波乱含みの大会となった。
このトーナメント表を見て、奇異に感じないだろうか。
和歌山中、愛知一中、長崎中、明星商が一回戦に2回も登場している。
当時は不戦勝にすると試合数に差が出て不公平になると考えたのかどうかは知らないが、一回戦敗退の6校のうち抽選で4校を敗者復活とし、4校によるトーナメントを勝ち抜いた1校が準決勝進出となった。
この場合、抽選に漏れた2校が不運と言うべきか。
愛知一中は一回戦で長野師範に敗れたが抽選により復活し、4校による敗者復活トーナメントを勝ち抜き準決勝進出、準決勝では長野師範に勝った杵築中を破って決勝進出、そして遂に決勝で関西学院を破って優勝したのだ。
これが史上唯一の「全国大会で負けた学校が優勝」という珍現象である。
しかも決勝戦では6回まで1−0とリードされ、二死まで取られたところで突然豪雨が降り出し、ノーゲームとなった。
当時の規定ではあと一死を取ればコールドゲームで愛知一中は負けていたのに、まさしく恵みの雨となった。
そして再試合では延長14回の末1−0で関学を撃破、事実上二度も負けながら全国制覇を果たしてしまった。
結局、公平さを期するための敗者復活制度が、逆に不公平さが否めない結果となった。
当然「一回負けたチームが優勝するのはおかしい」という声が高まり、翌年は敗者復活制度は廃止されることになった。
ところが……。
なんと第4回大会はトーナメント表すらない。
理由は右側に書いてある。
そう、地方大会は終わって出場校は決まっていたのだが、富山県魚津で勃発した米騒動が全国に飛び火し、阪神地方も米騒動の真っ只中になったため、全国大会は中止となったのだ。
2年も続けて珍現象が起こるとは、鳴尾球場には甲子園とは別の意味で魔物が棲んでいたのだろうか?
極めつけは第6回大会。
一回戦で鳥取中に2−6で敗れた豊國中という学校があるが、エースの小方二十世投手はなんと法政大学の選手。
知人から「豊國中は投手さえ良ければ全国大会に出場できるので、力を貸してくれ」と言われて、小方投手は豊國中に編入したと言われているが、真相は定かではない。
小方投手は青山学院中出身で、豊國中とは縁もゆかりもなかったのだ。
小方投手が大学生とわかって大会本部は大騒ぎとなったが、当時の規定では校長が選手と認めさえすれば、試合に出場できたのだった。
しかし、結果は上記のように大学生が中学生に打たれるという情けない結果で、初戦敗退となった。
現在では年齢制限があり、大学生が選手登録されることはあり得ない。
鳴尾球場では第9回までの7年間行われたが、人気沸騰し続ける中等野球に対応できなくなった。
鳴尾球場のスタンドは木造で移動式の簡易スタンド、収容人員も少なかった。
二面あるグラウンドで、向こうのグラウンドの方が面白そうだとなると、観客同士が協力してエッサエッサとスタンドを移動していた、というエピソードもある。
いずれにしても、この程度のスタンドでは人で溢れてグラウンドになだれ込み、試合が中断することもしばしば。
所詮は急造の野球場でしかなかった。
いっそのこと、アメリカ大リーグにも負けないような東洋一の大球場を造ろう、という気運が阪神電鉄の中で高まった。
当時はまだタイガースは存在しなかったのに本格的なスタジアムを造るのだから、いかに中等野球の人気が高かったのかが窺い知れるだろう。
そして1924年(大正13年)8月に完成したのが甲子園球場である。
かくして記念すべき第10回大会は、新球場の甲子園で行われることとなった。
実はこの年の春に、選抜中等学校野球大会が名古屋の山本球場で第1回大会が開催された。
当初の予定ではセンバツは全国持ち回り開催だったが、甲子園の完成により翌年の第2回大会からは夏と同じく甲子園を使用するようになった。
ここに春夏の甲子園の歴史が始まったのである。
よく知られていることだが甲子園の名の由来は、甲子園球場ができた1924年が中国の暦である十干の甲(きのえ)年で、十二支の子(ね)年という、いずれも最初の年で縁起が良いということで甲子園と名付けられた。
地名が球場名になることはよくあるが、甲子園の場合は球場名が地名になったという稀有の例である。
甲子園町、甲子園網引町、甲子園浦風町、甲子園浜、上甲子園、甲子園口と枚挙にいとまがない。
いかに甲子園球場が偉大な存在かがわかる。
春夏の甲子園を経験し、プロ入り後は巨人の投手として甲子園のマウンドに立った江川卓はこう語る。
「高校野球における甲子園とは、阪神の本拠地球場ではなく、春と夏の限られた期間に忽然と現れる夢の中の景色である」
夏草や 兵どもが 夢の跡
夏の大会を終え、夢の中の景色である甲子園は姿を消そうとしていた。
夢の空間から現実に立ち戻り、激しいペナントレースの日々がまた始まる―。