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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

明治神宮大会

週刊ベースボールの今週号(11月24日号)「おんりい・いえすたでい」のコーナーで、阪神ピッチングコーチにカムバックしたかつての速球王、山口高志(元・阪急)の大学時代の記事が載っていた。
明治神宮野球大会(大学の部)で快投を演じる山口について書かれていたが、記事を読んで違和感を覚えた読者もいたのではないだろうか。


1972年(昭和47年)、関西大のエースとして第3回明治神宮大会の大舞台に立った山口は、初戦の中京大戦ではリリーフで5奪三振、次の慶應義塾大戦では15奪三振のノーヒットノーランでサヨナラヒットのおまけ付き(筆者注:江夏豊並みの大暴れである)、準決勝の早稲田大戦では11奪三振で完封、決勝の法政大戦では7奪三振の完封で優勝に大きく貢献したとなっている。


現在の大学野球のことを少しでも知っている人は、こんな組み合わせはあり得ないと思っただろう。
初戦の中京大はともかく、2戦目から慶大、早大、法大と、東京六大学のチームが3つも続いている。
現在の明治神宮大会では、東京六大学からは秋のリーグ戦優勝校以外に出場することはあり得ないから、3校も出場しているのはおかしい、と思うのが普通だ。
実は当時の明治神宮大会は、出場14校のうち、東京六大学が4校、東都大学連盟から2校選ばれていて、それだけ両連盟のレベルが高かったからこういうシステムになっていた、という意味のことが記事には書かれている。
しかし、実際は事情が少々違うようだ。
東京六大学から4校も選ばれたのはこの第3回のみで、第6回と7回には2校出場したこともあるが、これほどの優遇措置を採られたことはこの大会以外にはない。
つまり両連盟、特に東京六大学がこの大会で特別に優遇されていたのには、レベル以外にも理由がありそうだ。


大学野球の全国大会は、秋の明治神宮大会と、春に行われる全日本大学野球選手権の二つがある。
ただし文字通り全国大会と言えるのは、各地区や連盟の春の優勝チームが集う全日本選手権の方で、正真正銘の大学日本一は、明治神宮大会ではなく全日本選手権の覇者である。
明治神宮大会は招待大会という意味合いが強く、したがって第3回のように連盟の優勝校以外の大学が選ばれても非合法ではない。
高校野球に例えるなら、全日本選手権が夏の全国選手権大会で、明治神宮大会は春の選抜大会という位置づけだ。
全日本選手権が始まったのが1952年(昭和27年)で、明治神宮大会は1970年(昭和45年)に始まっており、歴史的には全日本選手権の方が随分古い。
では、この両大会はどんな経緯を辿って始まったのだろうか。


大学野球が盛んになってきたのは明治時代だが、現在も続く東京六大学野球連盟が発足したのが1925年(大正14年)の春のことだ。
それから6年後の1931年(昭和6年)春に東都大学野球連盟が、同年秋には関西六大学野球連盟が発足している。
この時の関西六大学連盟は現存する同名の連盟とは異なる組織で、関西大学野球界の変遷はかなり複雑であり、ここでも何度か書いたので今回は割愛する。
一つ付け加えるならば、前述の山口擁する関大は関西六大学リーグの秋の優勝校として第3回明治神宮大会に出場しているが、実際には関西大学野球連合の代表である。
関西六大学連盟発足時には関西連合は存在せず、また現在も既に消滅している。


戦後になって日本一を決める大会を開催しようという機運が高まり、東京六大学、東都大学、関西六大学の三連盟による大学王座決定戦が1947年(昭和22年)に始まった。
しかし、戦後に発足された全国各地の新制大学が全国新制大学野球連盟を創立、同連盟が主催する新制大学野球選手権を開催した。
つまり、組織が違う二つの全国大会が存在することになったのである。
1952年(昭和27年)、老舗の三連盟による全国大学野球連盟が全国新制大学野球連盟を吸収(翌年には現在の全日本大学野球連盟と改称)、現在も続く全日本大学野球選手権の第1回大会が開催された。
だが、この頃の全日本選手権は老舗の三連盟と新制大学とは実力の開きがあり、三連盟が優勝を独占していた。
特に東京六大学と東都が優勝を分け合い、関西六大学は常に上位進出するも関東の二連盟の壁に跳ね返される、という時代が長く続いた。
現在で言えば、全国大学ラグビー選手権で関東対抗戦グループと関東リーグ戦グループが覇権を争い、関西リーグがそれに挑むという形に似ている。


そのバランス・オブ・パワーが崩れたのが1969年(昭和44年)、第18回大会のときである。
東都大学野球連盟から分家した首都大学野球連盟の東海大が優勝、初めて三連盟以外の大学が日本一に輝いた。
そして翌年の1970年(昭和45年)の第19回大会では、愛知大学野球連盟の中京大が優勝、遂に関東と関西以外のチームが覇権を握った。
明治神宮大会が始まったのがまさしくこの年であり、大学野球界にとって大きな転換期だったのである。


1970年(昭和45年)、全日本大学野球連盟の上部組織である日本学生野球協会と、明治神宮による主催で第1回明治神宮野球大会が開催された。
つまり、秋の大学日本一を決める大会がスタートしたのである。
第1回、第2回共に複数校が出場する枠はなかったが、第2回は東都の亜細亜大が春の全日本選手権優勝校として選抜され、東都の秋のリーグ戦覇者である日本大と共に出場した。
そして問題の1972年(昭和47年)の第3回大会、それまでは1校しか出場枠のなかった東京六大学に、なぜ4校も出場権が与えられたのだろうか?
ちなみに第1回、第2回とも当時の全日本選手権と同じく15校出場、それに全日本選手権優勝を加えた16校制を採っていた。
ただし、第1回は全日本選手権優勝の中京大が秋の愛知大学リーグでも優勝したので、出場校は15校となっている。
それが、第3回では出場校が14校に減ったうえ、全日本選手権優勝枠もなくなり、東都で1校、東京六大学で3校も多く出場している。
つまり、全国的には6校も出場枠が減っているのだ。
かつてほど地域による実力差がなくなってきた当時からすれば、明らかに時代と逆行していると言わざるを得ない。


ここからは推測にすぎないのだが、第3回大会で東京六大学に対する異常なまでの優遇措置を採ったのは、レベルが高かったからではなく、むしろ救済する目的があったのではないか。
前述したように第3回明治神宮大会の3年前は全日本選手権で東海大が、2年前は中京大が優勝した。
そしてその年から始まった明治神宮大会では第1回は東海大、第2回は東都勢同士の決勝戦で日大が春の覇者である亜大を倒して優勝している。
東京六大学勢はというと、第1回、第2回とも優勝、準優勝はおろか準決勝にすら進出できなかったのだ。
日本で最も古い歴史を持つ超ブランドの東京六大学、しかもお膝元とも言える明治神宮主催の大会でこの体たらくでは、これ以上の屈辱はないだろう。


そして迎えた第3回では、その年の全日本選手権を制した関大が出場する。
第3回からは全日本選手権優勝枠がなくなったため無条件出場ではないが、秋の関西六大学リーグをきっちり優勝を飾って、春秋連覇を狙って神宮に乗り込んでくる。
しかも関大の絶対的なエースである山口は、この年から始まった日米大学野球選手権でも日本のエースとして登板し、後にメジャーリーグで活躍する連中をきりきり舞いさせて、3勝を挙げて見事MVPに輝いている。
関大の山口がいる限り、東京六大学勢の優勝は難しい。
そこで東京六大学から4校出場という、異例の措置が採られたとも考えられる。


明治神宮野球大会は元々、明治神宮鎮座50周年を記念して行われた奉納野球である。
明治神宮に奉られている神様に捧げる野球、つまり神事でもあるわけだ。
だから野球大会としては他に類を見ない、明治神宮という宗教法人が主催しているのである。
明治神宮と東京六大学の結びつきは強く、明治神宮野球場を建設するときには東京六大学連盟が建設費の10分の1に当たる5万円も寄付した。
以来、神宮球場の使用は東京六大学が優先され、後に本拠地として使用するようになったプロ野球のヤクルトでさえ日本シリーズに出場した時も、東京六大学の試合を優先するために、巨人の本拠地だった後楽園球場を借りざるを得なかったこともあった。
そんな明治神宮主催の大会に東京六大学のチームが優勝争いに加われないなんて、神様を冒涜していると考えたのかも知れない、というのは穿ち過ぎだろうか。
そんなことはないとしても、東京六大学勢が上位進出しなければ盛り上がりに欠けてしまうという危機感はあっただろう。
そうでも考えなければ、たった6校しかないリーグから4校も選ばれるという異常事態は説明できない。
しかも、東都のように前年度の決勝を2校で争った故の優遇措置ならともかく、東京六大学勢は過去にベスト4すら経験していないのだ。


思惑通り法大が決勝進出、早大も準決勝に進出して、東京六大学勢が優勝争いに加われた。
しかし、そんな主催者側の陰謀(?)も、山口の快速球が粉々に打ち砕いた。
慶大、早大、法大の名門3校を合わせて山口に対し、27回で33三振、ノーヒットノーランを含む無得点。


せっかくの優遇措置も、却って東京六大学が赤っ恥をかく結果になってしまった。