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ネターランド王国

国王:ハードフォーク安威川トークン

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:ハードフォーク安威川トークン」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

20回忌

1995年5月29日、即ち20年前の今日、一人の作家が亡くなった。

スポーツ・ライターの山際淳司さんである。

そして僕は今日、本当の意味で山際さんの享年を超えてしまったわけだ。

 

山際さんは、日本に現れた初めてのスポーツ・ノンフィクション作家と言っていい。

もちろん、それまでも同じ肩書きのライターはいたが、それは単に試合の経過を追ったり、選手の生い立ちを語ったりとか、その程度のもの。

しかし山際さんは、スポーツを全く違う切り口から語ったのだ。

その作品が、山際淳司という作家を世に知らしめ、現在でもスポーツ・ノンフィクションの金字塔と言われる「江夏の21球」である。

「江夏の21球」では、たった1試合の、たった1イニングだけを描き、そこに携わる人間たちの深層心理を鮮やかに暴いて魅せた。

 

1979年11月4日。

大阪球場では日本シリーズ第7戦、近鉄バファローズ×広島東洋カープの試合が行われていた。

3勝3敗のイーブンで迎え、この試合に勝ったチームが初の日本一という栄光を手に掴む。

4-3と広島が1点リードで迎えた9回裏、近鉄にとって最後の攻撃を迎えていた。

この回を無得点で凌げれば広島初の日本一が決まる場面で、マウンドに立つのはリリーフ・エース(クローザー)のサウスポー江夏豊

 

江夏は途中で無死満塁という絶体絶命のピンチを迎えるも、冷静な投球で無失点に切り抜け、見事に日本一を手繰り寄せた。

この試合のハイライトとなったのは、「江夏の21球」のうちの19球目。

一死満塁から石渡茂スクイズを見破り、大ピンチを脱したのだ。

どのスポーツ・ニュースでも、このシーンを繰り返し放送し、あらゆる野球評論家もスクイズ失敗について書き立てた。

しかし山際さんは、全く違う場面に光を当てたのである。

 

9回裏の15球目。

それを投げる前に、一塁手衣笠祥雄がマウンドに駆けつけ、江夏と何やら話をしている。

野球ではよくある、何の変哲もないシーンだ。

ところが、山際さんはこの場面にこだわった。

 

日本シリーズ終了後、山際さんは江夏にインタビューしたとき、この場面を何度もビデオ再生して、江夏に訊いた。

「この時、衣笠選手と何を話したんですか?」

と。

 

江夏は口をつぐんだ。

それでも、山際さんは何度もビデオを巻き戻し、同じ質問を繰り返した。

この時、山際さんは確信していた。

このシーンにこそ、江夏の野球人生の全てが詰まっている、ということを。

 

山際さんの、あまりにもしつこい問いかけに、江夏は遂に落ちた。

衣笠はこの時、江夏にこう言ったのである。

「オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな」

(「江夏の21球」より)

 

これには伏線がある。

これより前、無死一、三塁になった場面で、広島のブルペン池谷公二郎北別府学が走っていく姿を江夏は見たのだ。

現在、多くの球場はブルペンが室内にあってマウンドからは見えないのだが、当時の大阪球場ブルペンが内野のファウル・グラウンドにあったので、誰が投球練習しているのかは手に取るようにわかる。

 

メロスではないが、江夏は激怒した。

なんでリリーフなんか用意するねん、と。

古葉竹識監督はシーズン中、ずっと「江夏と心中する」と言ってきた。

最後には必ず江夏を出す、江夏が打たれて負けたのなら仕方がない、と言い続け、事実その通りにしてきたのである。

ところが、日本シリーズの最終戦、この試合で勝てば日本一、負ければ全てが水泡に帰すという一番大事な場面で、古葉監督は江夏と心中することを拒んだのだ。

所詮、俺は信用されてないんか、と江夏は怒りと共に、孤独感という寂しさがこみ上げてきたのである。

 

阪神タイガース時代は、絶対的エースに君臨しながらワガママというレッテルを貼られ、チームの和を乱すとして「江夏がいるから阪神は優勝できない」とすら言われていた。

事実、江夏の野球人生に優勝の二文字は縁がなかったが、広島に移籍して初めて古葉監督の下で優勝の美酒を味わったのである。

その古葉監督に信用されていない。

江夏の心境はいかばかりだっただろう。

 

だが古葉監督にすれば、監督として当然のことをしたに過ぎない。

当時は、シーズン中は3時間を超えて新しいイニングに入らないという規定だったのだから、江夏を登板させた時点でリリーフを用意する必要もなかった。

しかし日本シリーズ規定では、17時半まで行うことになっていて、この時点ではまだ16時半だったので1時間も猶予があり、リリーフを準備する必要があったのである。

もし同点に追い付かれると延長戦になり、江夏に代打を送る場面も考えられる。

その時になって、慌ててリリーフの準備をしても遅いのだ。

 

江夏は、そのことを頭の中ではわかっていても、やはり納得は出来なかった。

そのため、投げる前にベンチとブルペンを睨んでいたのだ。

投球に集中できなかった分、コースが甘くなっていた。

ファーストから見ていた衣笠は、そんな江夏の心理を見抜いていたのである。

江夏はこの試合が終われば、広島を辞めるつもりだ、と。

 

江夏が山際さんに、衣笠とのやり取りを話したがらなかったのは、監督批判になりかねないと思ったからだ。

なにしろ、江夏も古葉監督も、この時点では広島に所属していたのである。

それだけではない。

衣笠も「お前(江夏)と同じ気持ちだ」と言っていたのだから、衣笠まで監督批判をしていたことになる。

そうすれば、盟友の衣笠にまで多大な迷惑をかけてしまう。

それだけは避けたかったので、江夏は山際さんの執拗な質問にも口を閉ざしていたのだ。

 

だが、江夏も山際さんの熱心さに、遂に折れてしまった。

山際さんと江夏は、この時が初対面。

江夏は、メガネをかけて青白い風貌の山際さんを見て、

「何、この人?野球のことを本当にわかってるの??」

と思ったという。

 

ところが、いざ話してみると、山際さんは本質をズバズバ突いてきて、百戦錬磨の江夏も引き込まれていった。

そして、一番喋りたくない秘密も話してしまったのである。

山際さんと江夏は、同じ1948年生まれの、いわゆる団塊世代

歩んで来た道は正反対でも、通ずるものがあったのかも知れない。

 

江夏は引退後に過ちを犯し、塀の中に入っている頃、山際さんは病魔に襲われていた。

江夏が罪を償い、出所した1ヵ月後に山際さんはこの世を去ったのである。

まるで江夏の出所を待っていたかのようだった。

江夏は「山際さん、ごめんなさい」と自らの罪を悔いたという。

江夏は、山際さんのご遺族に迷惑をかけるのではないかと思ったが、迷いに迷った末、山際さんの葬儀に出席した。

すると、山際さんの奥様である幸子夫人から、

「どうぞ、主人の顔を見てやって下さい。主人は病床でもずっと『江夏に会いたい』と申してましたから」

と言われ、江夏は涙を止めることが出来なかった。

 

それより前。

山際さんは体調を崩し、病院で診察を受けた。

自分の病状がただならぬことは、山際さんが一番よくわかっていた。

そして、山際さんは医師にこうお願いしたという。

「長いものを書きたいので、病名を教えてくれませんか」

 

医師は「胃癌です」と非情の通告をした。

山際さんは幸子夫人に、

「癌だってさ、参ったね。君、大丈夫?」

と、自分のことよりも、自分がいなくなった時の妻に対して気遣ったという。

そして、何事にも客観的に、冷静に分析するというスポーツ・ライターとしての習性は、自らを襲う病魔に向けられた。

 

医師に対し、山際さんは治療方法と時間を訊いて、病魔に打ち勝つスケジュールを自ら立てたのだ。

「病気は自分の意思とは関係ないところから来たけれど、仕事は自分の意思でやっているのだから、僕は自分の意思でやっている仕事を優先する。自分の意思とは関係なくやって来た病気に対しては、空いた時間で立ち向かえばいい」

 

こうして山際さんの闘病生活が始まった。

そのことを知っていたのは、幸子夫人だけだったのである。

 

その間にも、山際さんは精力的に仕事をこなしていた。

その一つが、山際さんがメイン・キャスターを務めていたNHKの「サンデースポーツ」である。

山際さんが亡くなる1週間前でも、山際さんは生放送に出演していた。

当時、山際さんのパートナーを務めていた草野満代は、

「山際さんは凄く痩せていて、『大丈夫ですか?』と声をかけたかったけれど、それを言ってしまうと山際さんに答えを無理強いしているようで、とても山際さんには訊けなかったですね」

と語っている。

 

ある日、幸子夫人は一人息子を連れて、ママ友たちと一緒にテーマパークへ遊びに行った。

幸子夫人親子と、二人のママ友もそれぞれ一人の子供を連れて、合計6人の息抜きである。

テーマパークでは、大道芸人たちが面白いパフォーマンスを魅せて、みんなで笑っていた。

その時、幸子夫人はふと我に帰った。

「夫の病状を知っているのは私一人だけ。こんな寂しい思いをしているのは、私だけかも知れない」

幸子夫人は、必死で涙をこらえた。

 

ママ友たちと別れたあと、幸子夫人は夫が入院している病院に立ち寄った。

「こんなことがあって、急に不安になったの」

と幸子夫人は、山際さんに包み隠さず言った。

 

すると、山際さんはこう答えた。

「ないものをカウントしたら、不安が募るのは当たり前だよ。それよりも、あるものをカウントしてごらん。そうすれば、自ずから不安なんてなくなるから」

 

そう言われて、幸子夫人はハッと思った。

今こうして、最愛の夫を看病している時間が最高に幸せなのに、私は何を考えていたのだろう、と恥ずかしく思えたのである。

そして、山際さんの言葉によって、気が楽になったのだ。

 

山際さんは万事この調子で、他人に対してどうしろ、とかは決して言わないのだが、ふと漏らした言葉が他人に勇気を与えていたのである。

それは身内に対しても同じだった。

 

幸子夫人は、我が夫のことを「山際さん」と呼んでいた。

夫の本名は、犬塚進。

山際さんの本名を知っている人は、ほとんどいないだろう。

愛妻からペンネームを「さん」付けされる。

これほど「山際さん」という呼び方が似合う人はいない。