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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

昭和40年会の高校日本選抜

 

アメリカ・フロリダ州で9月9日(現地時間)からWBSC U-18ワールドカップが始まる。

同大会は18歳以下、即ち高校世代の野球ワールドカップだ。

基本的には隔年開催で、今回で30回を数える。

第1回大会は1981年にアメリカで開催され、当時はAAA世界野球選手権大会という名称だったが、開催時期が夏の甲子園大会と重なるため、日本の高校選抜という形では長らく参加していなかった。

しかし、今回は春夏の甲子園大会で活躍した選手をはじめ、ドラフト候補の精鋭が高校侍ジャパンを結成して参加する。

 

▼2015年、阪神甲子園球場で行われた日本×キューバ。四番打者は清宮幸太郎

 

最近の高校侍ジャパンは、甲子園に出場したか否かにかかわらず、全国から実力ある選手が選ばれるわけだが、かつてはそうではなかった。

世界選手権には出場しなくても、夏の甲子園大会終了後に高校日本選抜が結成されて韓国などと親善試合が行われていたが、メンバーに選ばれていたのは夏の甲子園に出場した選手に限られていたのである。

それも、甲子園ベスト8以上の上位進出した高校からの選出がほとんどで、一、二回戦で敗れた高校の選手が選ばれるのは、たとえドラフトの目玉選手でも稀だった。

 

筆者の記憶に残っているのは、1983年の高校日本選抜。

この頃の高校野球事情は、池田が史上初の夏春夏3連覇を目指したものの、夏の甲子園準決勝で一年生のKKコンビ(桑田真澄清原和博)を中心とするPL学園に0-7で完敗し、勢いに乗ったPLが優勝した年である。

高校日本選抜も、当然のことながら夏の甲子園に出場した選手の中から選ばれた。

 

たとえば、この年のドラフト超目玉と言えば藤王康晴(享栄→中日1位)だったが、春のセンバツでは3本塁打を打つなど大活躍したものの、夏の甲子園には出られなかったため、選出されなかったのである。

現在の高校侍ジャパンなら、間違いなく選ばれていただろう。

 

何しろ、この年の三年生はいわゆる昭和40年会。

数々のスターを生み出した、豊作の年だ。

しかし、後にプロで大活躍する多くの選手が夏の地方大会で敗退したために、たとえば渡辺久信前橋工→西武1位)や佐々木誠(水島工→南海6位)らは高校日本選抜には選ばれなかったのである。

 

また、夏の甲子園に出場しても、早い段階で姿を消したために、高校日本選抜に選出されなかった選手もいた。

初戦で敗退した小野和義(創価近鉄1位)や、二回戦敗退のマイクこと仲田幸司興南阪神3位)という、左腕の双璧と言われた2人が選ばれていない。

そして、三回戦敗退の吉井理人(箕島→近鉄2位)や準々決勝進出の津野浩(高知商日本ハム3位)といった後のプロ野球のスターたちは、甲子園で安定した投球を見せることが出来なかったため選から漏れた。

変わり種では、大会一の剛腕と言われた秋村謙宏(宇部商)は準々決勝進出しながら選出されず、大学・社会人を経てプロ入りするも現在はNPB審判員となっている。

 

この年の高校日本選抜に選ばれたのは17名で、そのうち三年生、即ち昭和40年会メンバーが15名だった。

このうち、高校卒業後に即プロ入りしたのは水野雄仁(池田→巨人1位)、野中徹博(中京→阪急1位)、三浦将明(横浜商→中日3位)、池山隆寛(市尼崎→ヤクルト2位)、林哲雄(岐阜第一→巨人3位)の5名だけ。

大学や社会人を経てプロ入りしたのは、加藤正樹(PL学園)や荻原満(仙台商)がいた。

 

この中で特筆すべきは池山だろう。

大会中は大して騒がれず、甲子園ではホームランも打たず三回戦敗退(二回戦からの登場だったので、出場したのは二試合のみ)だったのに、高校日本選抜に選ばれて四番打者まで務めた。

このメンバーの中で、プロで大成したのは池山だけ、ちょっと良かったのは水野ぐらい。

この年、№1スラッガーと呼び声の高かった藤王がプロでは大成せず、池山がプロで大活躍したのだから、選考委員の目は正しかったのだ。

 

さて、この年の高校日本選抜が行ったのは、恒例の日韓野球ではなく、アメリカ遠征だった(韓国高校選抜は来日し、関東の各都県選抜チームと戦い1勝3敗)。

アメリカでは西海岸で4試合、ハワイで2試合を行ったのである。

 

西海岸での相手は、全てカリフォルニア州高校選抜だった。

初戦はエースの水野が好投するも、T.ブラウンに手痛い一発を浴びて7-8で敗戦。

 

第2戦は、野中や荻原など後にプロ入りする投手が打ち込まれ、7回を終わってなんと15-15のラグビー・スコアとなる。

8回からリリーフ登板したのは唯一の一年生である桑田で、それまで日本の三年生投手を打ちまくっていたカリフォルニア打線を無安打3奪三振と完璧に封じ込めた。

さらに桑田は決勝打を放って日本が17-15で制し、1勝1敗とする。

やはり桑田の甲子園での活躍は、フロックではなかったのだ。

 

第3戦は三浦が先発し、大きなカーブで三振の山を築くも、またもやT.ブラウンに本塁打を浴びて2-8で完敗。

第4戦は先発の桑田が5回途中まで完璧なピッチングを見せるも、打球を足に当てて降板すると大乱戦になる。

それでも、池山や加藤のホームランなど日本打線が爆発、19-10と打撃戦を制してアメリカ本土での対戦成績を2勝2敗で終えた。

結局、カリフォルニア打線に通用した日本の投手は、一年生の桑田だけだったのである。

 

ハワイに移動した高校日本選抜はホノルル選抜と対戦し、遠征の疲れからか守備のミスを連発して5-6の敗戦。

終戦となったオアフ島選抜との試合では13-4で日本が大勝、全日程を3勝3敗のタイとし有終の美を飾った。

 

この年、甲子園出場云々に関係なく、昭和40年会で高校日本選抜を組んでいたら、どんな戦績を残していたのかと想像してしまう。

さらに、アメリカもカリフォルニア州という地域限定ではなく、全米選抜として対戦していたら、と考えると面白い。

 

実はカリフォルニア州高校選抜、翌年には日本に遠征している。

関西各地で試合をしたが、惜しかったのは大阪代表との試合だ。

この時、カリフォルニア州高校選抜は春季大阪大会の優勝校と対戦する予定で、センバツ準優勝のPL学園との試合が期待された。

ところが、PLは準々決勝での近大付との対戦で桑田を温存し、敗れている。

結局、優勝したのは上宮で、上宮はカリフォルニア州高校選抜に大敗を喫した。

もし、二年生になった桑田や清原が中心のPL学園が、単独チームとしてカリフォルニア州高校選抜と対戦していたら、どんな試合になっただろうか。