今日(3月20日)の朝日新聞朝刊「天声人語」で、こんなことが載っていた。
2013年(平成25年)の調査で、「あの世」を信じている人は、20歳代で45%にものぼるという。
なんと、半分近くの若者が、死後の世界を信じているのだ。
その55年前の1958年(昭和33年)の調査では、3分の1以下の13%だったらしい。
半世紀もの間、文明はこれだけ進歩したのに、人間は退化しているのだ。
戦争で焼け野原になりながら奇跡的復興を遂げた昭和30年代、そして高度成長期を経て平成の世を迎える頃にはバブル景気で日本は沸き立っていた。
しかし、バブルが弾けて日本は一転して泥沼にのめり込む。
さらに阪神淡路大震災が追い打ちをかけた同じ年、東京では日本史上最も凄惨な忌々しい事件が勃発した。
今からちょうど20年前、1995年(平成7年)3月20日にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きたのである。
世界に冠たる先進国で起きた、宗教団体による大量無差別殺人事件は、日本のみならず世界中を震撼させた。
そして今でも、サリンによって苦しんでいる人が大勢いる。
あれから20年、日本人は、そして人間は進歩したのだろうか。
冒頭で書いた「天声人語」を読むと、どうもそうではなさそうだ。
オウムに集まった若者たちは、教祖たる麻原彰晃(現・死刑囚)の教義を信じ、人格を信じ、そして空中浮遊をはじめとする霊能力を信じたのである。
オウムを信じていれば、来世では天国に行けると教えられ、オウムに反発する者は地獄に落ちると教育された。
そして、オウムに逆らう者は愚か者であり、彼らをポアする(殺す)ことは、彼らを天国に導く良い行いだと洗脳されたのだ。
よって、オウム信者たちは東京の地下鉄でサリンを撒いて、彼らをポアするという「善行」を行ったのである。
「若者」と書いたが、オウムを信じていたのは若者だけではなく、年配信者も多数いた。
日本全体が混沌としていた世の中だったと言ってよい。
ちょうどその頃、テレビでは霊能者や超能力を取り扱ったインチキ番組が横行していたのも事実だ。
そんなインチキ番組が高視聴率をマークしていたのである。
つまり、それだけ不安な世情だったのか、あるいは頭の悪い人間が多かったのか。
いや、オウムの幹部には高学歴な連中が多かったのだから、単に頭が悪かったわけではあるまい。
ただ一つ言えることは、そういうインチキを信じてしまうのは無思考から来る、ということである。
しかしオウム事件以降、そういうインチキ番組は影を潜め、正反対のインチキを糾弾するという番組が激増した。
言うまでもなく、インチキ番組を放送すると大バッシングを受けるからである。
テレビ局の無節操ぶりも呆れるばかりだが、インチキ番組が氾濫するよりはマシだ。
だが、それも長くは続かず、喉元すぎれば何とやらで、数年後にはまたインチキ番組が横行し始めた。
今度はノストラダムス関連の番組である。
1999年7月に人類は滅びる、と主張するノストラダムス信者がテレビ番組に多数出演した。
さすがに今度はオウム事件前と違って、否定派の論客も呼んでバトルを繰り広げるという内容だったが、結果は言わずもがな。
1997年7月になっても人類はピンピンしており、ノストラダムス信者の完全敗北となったのである。
それでも厚顔無恥なノストラダムス信者たちは、「実際には1999年7月ではなく、20✖✖年✖月だった!」などという本を出版し続けているが……。
これだけ超自然の力が否定されても、人間はまだ目覚めようとしない。
ノストラダムスを過ぎてほとぼりが冷めると、またインチキ番組が横行し始めた。
視聴率が取れるという安直な考え方なのだろう。
過去の事件から、何の教訓も得ていない。
だが、テレビ番組でそれらが横行するというのは、それが世相だとも言える。
ちょうどその頃、僕もそんな連中と会ったことがあった。
「テレポーテーションが出来るオッサン」や、そのオッサンを信じている「霊が降りてくる女」とか。
彼らを信じる人たちは、何の疑いも持たないのだ。
これを無思考と呼ばずになんと言おう。
そして現在の世界情勢では、宗教の名による殺戮が行われている。
言うまでもなく「イスラム国」の連中である(イスラム教が殺戮を行っているわけではない)。
彼らは「神」と「正義」のために、容赦なく人殺しをしているのだ。
根本的にはオウム真理教と何ら変わり無い。
もっとも「イスラム国」の連中に言わせれば「オウムなんかと一緒にするな」というところだろう。
まあ、規模の面ではオウムよりも遥かに大きいが。
今から遥か70年前の太平洋戦争で、日本は敗戦必至の状況に追い込まれながら、
「日本は神国である。建国以来2600年以上、一度も負けたことがなかった。元寇により危うく負けそうになった時でも、神風が吹いて日本を守ってくれた」
という根拠のない論理で戦争を遂行し、神風特攻隊が結成されて多くの尊い命を犠牲にした。
その頃から日本人は、そして人間は進歩したのだろうか。
現状を見ると、全く進歩していないように思える。
人間は歴史から何も学ぼうとしないのだろうか。
そして最近では、「死ぬことが美徳」という考え方が、また頭をもたげてきたような気がしてならない。
冒頭の「天声人語」によると、現代の若者の半数近くが「死後の世界は存在する」と信じている。
では、「死後の世界」という概念が生まれたのはいつからだろうか。
それはおそらく、人間が「知恵」というものを身に付けてからだろう。
それまでは他の動物と同じように、本能のみによって死を恐れていたが、物事を考えることが出来る脳を手に入れてからは、誰の身にも襲いかかる「死」について考えるようになった。
それは現代人と同じく、とてつもなく恐ろしいことだっただろう。
そして人間は、「死後の世界」を作り出すことによって、その恐怖を和らげることに成功した。
「死後の世界」は、決して怖くはない、と。
それが宗教の始まりである。
人間の歴史は宗教の歴史でもあるのだ。
だが皮肉なことに、現代ではその宗教が無思考を助長することになっている(当然、そんな宗教ばかりというわけではない)。
本来なら、人々の心に安らぎを与え、道徳心を植え付けるための宗教が、全く逆の効果を生み出しているのだ。
これを「本末転倒」と言うのである。
つまり、宗教とは人々が利用すべきものなのだが、今では人々が宗教に利用されているのだ。
もちろん、実際に利用しているのは「宗教」という実体のないものではなく、教祖様や一部の権力者であることは言うまでもない。
死後の世界を信じている、という人達にハッキリ言っておく。
死後の世界なんて存在しない。
これは疑いようのない事実だ。
死ねば脳の活動が停止し、全てが無になる。
もちろん、魂などというものも存在しない。
その事実を受け入れなければならないのである。
ただし、たった一つだけ生き残れる場所がある。
それは、生きている人々の心の中だ。
人々の記憶によって、死後も生き長らえる。
大切な人が死ぬと、
「私も早くあなたの所へ行きたい」
という気持ちになるが、それは間違いだ。
なぜなら「あなたの所(即ち、死後の世界)」なんてないのだから、その人が死んでしまえば本当の意味での「永遠の別れ」になってしまうのである。
だが、その人が生き続けている限り、死んだ人はその人の脳の中で生き続けるのだ。
その方が「死後の世界」より、よっぽど素敵なことではないか。
昨日(3月19日)、人間国宝である落語家の桂米朝さんがこの世を去った。
死後の世界なんてない、と言いながら「この世を去った」などという表現はおかしいのではないか、と思われるかも知れないが、ここではこのフレーズを使わせて欲しい。
米朝師匠はもちろん死後の世界になど行かないが、多くの人々の脳裏に残っている。
その遺伝子は、落語界に生き続けるだろう。
米朝師匠に「死後の世界」なんて、仮にあったとしても必要ない。
今日(3月20日)の朝日新聞夕刊「素粒子」で、こんなことが載っていた。
こういうサゲなら、たとえ地獄でも「死後の世界」があってもいいかな。
桂米朝「地獄八景亡者戯」