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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

江戸時代に造られた人工河川

大阪には二本の大河が流れている。
淀川と大和川だ。
大阪市は大部分がこの二つの川に挟まれている。
大阪市の北側を流れているのが淀川で、大和川は南を流れる。
大和川を隔てて南側が堺市になる。


同じ大阪府民でも、淀川の北に住む府民と、大和川の南の住民では意識がかなり異なる。
特に淀川の北の住人は、淀川を越えて大阪市内に入ることはしょっちゅうあるが、さらに南下して大和川の南へ出ることは用がない限りほとんどないだろう。
そのため、北大阪の府民は、大阪府内でも大和川より南の地域のことに関しては無知の人が多い。


だが、南大阪の府民にとって、大和川は大阪市に入るためには越えねばならぬ重要な河川である。
朝日放送の名物番組「探偵!ナイトスクープ」で、「奈良県から堺市へ、大和川を使って船で通勤できるか?」という名作があった。
奈良県北西部の大和川沿いにある斑鳩町に住む会社員が、堺市の大和川沿いにある会社にモーター付きゴムボートで行けば、電車よりも早いか?という試みである。
この会社員は普段、自宅からバスに乗ってJR王寺駅に出て、そこからJR大和路線で北上して大阪市内の新今宮駅に出て、南海高野線に乗り換えて再び南下するという、大回りで通勤していた。
だが、自宅の目の前にある大和川の流れに乗れば、堺市の会社まで真っ直ぐ一本で行けるのである。

成功したかどうかは上の動画を見ていただくとして、大和川を生活圏としている者ならば誰でも一度は考えるロマンだ。


ところでこの大和川、実は自然にできた河川ではない。
江戸時代、人工的に作られた川である。


大和川はその名のとおり大和国、つまり現在の奈良県から河内国、即ち大阪府に流れてくるが、河内国に入って間もなく現在の柏原市で北に流れを変え、そのまま北上して何本もの川に分かれ、再び合流し、大坂城付近で淀川に合流して大阪湾に注いでいた。
つまり現在と違い、淀川と大和川は同じ水系だったのである。
大和川が北に流れを変えたのは、現在の大和川と石川が合流している付近である。
石川は南河内から北上し、そのまま大和川に合流する。
つまり、大和川が柏原で北に流れを変えていたのは、石川の流れに沿っていただけで、元々の本流は石川だったのかも知れない。
それが江戸時代に、堺に向けて一気に西へ流れるように付け替えたのである。


ではなぜこれだけの大河を、わざわざ付け替える必要があったのか?
それは、大和川が何度も氾濫を起こし、そのたびに中河内地方の地域住民が飢饉に見舞われていたからである。
堤防が決壊するたびに川底を掘る工事をしたが、何度やっても無駄だった。
いくら川底を掘っても、大量の土砂が運ばれてくるのですぐに埋まってしまう。
しかも当時の大和川は複雑に曲がりくねっていたので、ちょっとした暴風雨ですぐに堤防が決壊してしまうのであった。
そこで、大和川を西へまっすぐ大阪湾まで伸ばしてしまおうと、中河内の人々は考えた。


だが、勝手に大和川付け替え工事をするわけにはいかない。
当然、江戸幕府の許可が必要だ。
しかし江戸幕府は簡単には工事を許してはくれなかった。
それはそうだろう。
中河内は氾濫もなくなり、川がなくなって土地もできるのでメデタシメデタシだが、新たに川を通される堺周辺の住人は、自分の土地を奪われてしまう。


だが、大和川付け替え工事運動は何代にもわたって中河内住民の親子に受け継がれ、度重なる大和川の氾濫に幕府もようやく重い腰を上げ、遂に付け替え工事を許可する。
時に1704年、江戸幕府が開府してから約100年後のことだった。


新大和川の完成により、河の氾濫はほとんどなくなった。
川が無くなった土地では農業も可能になった。
現在でも残っている中河内地方の「鴻池新田」や「深野新田」という地名は、大和川付け替えの名残である。
ただし、「新田」と呼ばれた新しい土地は砂地で水田には向かず、綿や菜種の栽培が行われた。


しかし、新大和川には新たな問題も残した。
最も大きな損害をもたらしたのは、前述したように新大和川が流れる堺付近の住民は土地を奪われ、農地が潰れてしまった。
さらに、大坂と地続きだったのが新大和川によって陸路を寸断された。
また、浅香山付近(上の動画で紹介されている会社の近く)はその名の通り小高い丘になっており、そこを避けるため川を湾曲させ、そのために新たな氾濫ポイントとなった。
そして、中世は「東洋のベニス」と言われた堺港が新大和川が運ぶ土砂によって埋まったため縮小され、世界に名だたる自由都市・堺の地位は低下した。
「あちらが立てばこちらが立たず」の典型例であろう。
ただし、江戸時代の治水工事が河内平野の河の氾濫を軽減したことは確かである。


これらのことを僕が習ったのは、実は小学四年生の時の社会科である。
まだ日本史すら習っていない学年だった。
当然、その頃の僕は「江戸幕府」という意味すら知らなかった。
当時の南大阪に住む小学四年生は、みんな大和川付け替えのことを習ったのだろうか?