大阪の街をゴトゴト走る府下唯一の路面電車。
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第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。
今年(2017年)の1月16日、5人の野球殿堂入りが発表された。
そして、特別表彰としてアマチュア野球から故・郷司裕(ごうし・ひろし)氏と故・鈴木美嶺(すずき・みれい)氏が選ばれた。
特に、特別表彰となった郷司さんと鈴木さんが選ばれたのは、非常に嬉しく思う。
やっぱり、見ている人はちゃんと見ている、と思ったものだ。
この2人がどんな人物だったか、筆者が知っている限りで書いてみたい。
「郷司」という珍しい苗字を憶えている、古い高校野球ファンは多いと思う。
アマ野球の審判として鳴らし、特に高校野球では何度も甲子園決勝の球審を務めるという、名審判として知られた人物だ。
ところが、そんな郷司さんがとんでもない誹謗中傷を浴びたことがある。
1969年、夏の甲子園決勝は、史上最高の名勝負と言われた。
名門の松山商業(愛媛)と、東北の無名・三沢(青森)との対戦である。
実績では野球どころの四国から出場してきた松山商の方が圧倒的に上だが、弱小県の青森で実績もない三沢には絶対的エースの太田幸司(元:近鉄ほか)がいた。
「元祖・甲子園アイドル」と呼ばれた太田と、松山商の技巧派エース井上明との投げ合いは、思わぬ名勝負を生んだのである。
結論から先に言えば、この試合は当時の規定により延長18回、0-0で引き分け再試合となった(再試合では4-2で松山商が勝利して優勝)。
この試合で球審を務めていたのが郷司さんである。
そして、問題は0-0の延長15回裏、三沢の攻撃中に起こった。
三沢は一死満塁と攻め立て、打者は九番の立花五雄。
ここでカウントは3-1と、松山商は絶体絶命に追い込まれる。
運命の5球目、井上が投じた球は低かった。
この時、NHKのアナウンサーは思わず「ボ……」と言いかけている。
ここでボールだと押し出し、三沢が東北勢として初優勝を飾るところだった。
しかし、郷司さんの右腕は大きく上がり「ストライク!」とコール。
カウントは3-2となる。
試合終了後、記者団から郷司さんに質問が飛んだ。
「あの時の球、ボールだったんじゃないんですか?」
郷司さんはドキッとした。
郷司さんにとって、この時の球は何の躊躇なくストライクと判定したからである。
しかし他人からは、あの球がボールに見えたのか……。
いくら自信を持って判定したつもりでも、間違いがないとは限らない。
そして、その1球が勝負を、あるいは選手の人生を左右することもある。
審判にとって、自信と不安はいつも背中合わせだ。
しかも、後に週刊誌で「あれは『明治ストライク』だ」などと言われもした。
明治ストライクとは、明治時代のストライク・ゾーンという意味ではなく、明治大学のストライクということである。
郷司さんは明治大の出身で、松山商の一色俊作監督も明治大出身、井上投手も松山商の卒業後は明治大に進学した。
要するに、井上投手を明治大に引き抜くために、あの時のボール球をストライクとコールしたというわけである。
まったくもってバカバカしい論理だが、当時はそれを真に受ける人もいた。
さらに、カウント3-2となった次の球で、また問題が起きた。
立花が打った打球はショートゴロ、ショートがバックホームすると三塁ランナーは本塁憤死。
ところが、郷司さんのアウト・コールが波紋を呼んだ。
キャッチャーがランナーにタッチする前に、アウトをコールしたからである。
「なんでタッチもしてないのにアウトなの?信じられなーい!あの審判、松山商びいきなのね」
などと言われる始末。
しかし、この時は満塁だったので、タッチアウトではなくてフォースアウトだったのだ。
だが、松山商のキャッチャー大森光生は緊張していたのか、しなくてもいいタッチをわざわざしにいっている。
もちろん、郷司さんはフォースアウトを確認したので、タッチする前にアウトをコールしたわけだ。
しかし、太田が目当ての女の子は、野球のルールなんて知らない。
そしてヒステリックに郷司さんを非難したのだ。
しかも、そんな女の子たちのご機嫌取りか、あるいは売らんがために乗っかったのか、マスコミは郷司さん批判を展開したのである。
郷司さんにとって、忸怩たる思いだっただろう。
しかも、間の悪いことにNHKのアナウンサーは「タッチアウト!」と叫んでいた。
実際はフォースアウトなのに。
もちろん、日本高等学校野球連盟(高野連)はそんなマスコミに惑わされることはなく、郷司さんの審判としての力量を高く評価して、春夏の決勝戦では11年連続で球審を務めている。
郷司さんは、ある強豪校の監督から、こんな質問を受けた。
「どんな動作がボークになるんですか?(ボークすれすれの動きをして)こういう動作ならどうでしょう?」
しかし、郷司さんは言い放った。
「そんなことを訊いてどうするんです。走者を騙そうとするのがボーク。公認野球規則に書いてある通りです」
野球は騙し合いではなく、正々堂々とプレーするスポーツ。
郷司さんは、野球の原点を貫いた審判だった。
郷司さんは知っていても、鈴木美嶺さんの名前を知っているのは、よほどの野球通だろう。
鈴木さんは戦後間もない頃に、毎日新聞の運動部記者となった。
そして、東京六大学野球連盟の規則委員も務めている。
さらに、プロとアマの公認野球規則を一本化したのも、鈴木さんの功績だ。
つまり、野球のルールについては熟知していたのである。
筆者が初めて鈴木さんのコラムを読んだのは、中学生の時だった。
高校野球雑誌に載っていたコラムで「勝たんがために、ルールの抜け穴を利用しているチームが多すぎる」と痛烈に批判した記事だった。
当時の筆者は、
「なに固いこと言うてるねん、このオッサン。ルール違反してなければ、勝つためにルールを利用するのは当たり前やろが」
と思っていた。
しかしその後、筆者も野球を深く知るようになり、鈴木さんの言わんとすることがわかってきた。
鈴木さんは、正々堂々とする野球を提唱していたのである。
たとえば、郷司さんの項でも触れたが、ボークすれすれのモーションで走者を騙す行為を鈴木さんは嫌った。
あるいは、走者が盗塁を企てた時に打者がわざと空振りして、よろけるように本塁へ踏み出して捕手の送球を妨げる、という行為も同じだ。
そして、捕手の危険なブロックも、一つ間違えれば大怪我に繋がる。
これらは、たとえルールの抜け穴となって違反とはならなくても、野球というスポーツから逸脱した行為だ。
しかも、こんな”ずるいプレー”を、”巧いプレー”として称賛される風潮を嘆いていたのである。
要するに、勝利至上主義が横行していたのだ。
遥か昔ですらそうだったのだから、今ではもっと酷いのだろう。
野球とは、いや全てのスポーツがそうであるが、ルールすれすれのプレーが増えるとつまらないものになり、そのルールすれすれのプレーを取り締まるために、つまらないルールが増えてくる。
それ故、そのスポーツそのものが、さらにつまらないものになる。
コリジョン・ルールなんて、その最たるものだろう。
捕手が走路を妨害するような場所に立つ。
そのためアウトになることが増えたので、走者は捕手が走路を空けていても体当たりをかませる。
そして怪我人が続出する。
すると、コリジョン・ルールを制定して、捕手のブロックを禁止する。
そうなれば、本塁上のスリリングなプレーが無くなる。
しかも「捕手はどの位置に立っていればいいのか。この位置だと違反ではないのか」などと下らない議論になり、結局はビデオ判定になって試合が中断、ゲームは間延びしてますますつまらないものになる。
最初から、捕手は走路を邪魔しない位置に立ってブロックし、走者はそれをかいくぐるスライディングをすれば、野球の醍醐味を味わえるのに。
これを勝利至上主義の弊害と言わずして、なんと言おう。
しかも、その勝利至上主義で一時的には勝つことがあったとしても、本当の実力は身に付いていないので、結局はまた負けてしまう。
これを「負のスパイラル」というのである。
もちろん、鈴木さんは勝利を目指すことを否定していたのではない。
鈴木さんは毎日新聞記者の出身ということで、同社が主催する春のセンバツにも提言していた。
センバツ出場校を現行の半分、即ち16校に絞り、文字通り強いチームのみを選抜(つまり選び抜く)せよ、ということである。
そして一発勝負をやめ、社会人野球(これも毎日新聞社が主催)の地区予選で行われている敗者復活戦を採用すれば、強豪校同士によるレベルの高い試合が続くし、夏の甲子園とは違うセンバツの特色を打ち出せるのではないか、というわけだ。
この案は非常に面白いと思ったし、実現すればどんなセンバツになるのだろう、と想像したりもする。
郷司さんと鈴木さん、上記を読んでもらえればわかると思うが、共通しているのは「正々堂々と野球せよ」という考え方の持ち主だということである。
相手を騙すことなく、正々堂々とプレーをして、相手チームを尊敬する野球。
野球に限らず、これがスポーツの原点である。
これは、きれいごとでもなんでもない。
そして、これは当時の高野連会長だった故・佐伯達夫さん(もちろん野球殿堂入り。しかし生前は「自分はその器ではない」と野球殿堂入りを拒否した唯一の人物)の考え方と一致する。
佐伯さんもまた、ずる賢い野球を嫌った。
そんな佐伯さんが、郷司さんを信頼したのはわかるような気がする。
また、佐伯さんと鈴木さんの関係は知らないが、やはり同じような考え方だったのではないか。
ただ、現代はスポーツの勝敗によって大金が動く時代である。
ある程度、勝利至上主義になってしまうのは仕方がないのかも知れない。
それでも、スポーツの本質だけは失わないで欲しいものだ。
郷司さんと鈴木さん、もうこの世の人ではないが、そのイズムを語り継ぐための野球殿堂入り、そうであってもらいたい。
日本国ではカジノ法案なるものが衆議院で可決されたようだ。
もっとも、正式には「IR推進法案」という名称で、目的は観光立国を目指すものだという。
もちろん、そんな理由は建前で、実際にはギャンブルを合法化しようという法案であることは、どんなアホでもわかる。
しかも戦後の日本は、大衆をギャンブル漬けにして1億総白痴化を狙い、政府にとって都合のいいように、ものを考えない国民を生み出してきた。
冠に天皇の名をかざした国民的大バクチの競馬、誰でもいつでも気軽にギャンブルができるパチンコ、「世界は一家、人類はみな兄弟」「お父さん、お母さんを大切にしよう」と美辞麗句を並べながら「ギャンブルはやめよう」とは決して言わない競艇……。
日本ほどのギャンブル天国は、世界にはあるまい。
それなのに、日本政府はカジノ法案を成立させた。
日本国民を、さらなる「何も考えない民」にしようというのか?
そうすれば、ますます日本国民は「政府にとって都合のいい民」になるだろう。
カジノ法案に反対する人が根強いこともよくわかる。
では、筆者はというと、実はカジノ法案には賛成だ。
と言っても、今のままでは、当然のことながらいいわけがない。
そこで、カジノ法案が日本のためになる政策を提案してみよう。
カジノ法案は、建前では観光立国にするため、外国人観光客を取り込む法案のはずだ。
だったら、無理に日本人を入れる必要はない。
もちろん、カジノが日本にあるのに日本人が入れないのはおかしな話で、日本人を立ち入り禁止にするのは反対である。
そこで、日本人および日本居住者については、入会金200万円、年会費100万円を払えばカジノに出入りすることが許されるようにする。
つまり、最初は300万円払わせるようにし、それ以降は年に100万円の徴収を義務付けるのだ。
もちろん、スッカラカンになって年会費が払えなくなれば、カジノに出入りできない。
これならば、低所得者が容易にカジノへは出入りできないだろう。
これは低所得者に対する差別ではなく、あくまでも低所得者を守るためである。
ギャンブルなんて、所詮は客が負けるようになっているのだから。
日本には競馬、競艇、競輪、オートレースという公営ギャンブルがある。
筆者は20年ほど前、一度だけ住之江競艇場に行ったことがあるが、入場料が僅か100円だったので驚いた。
調べてみると、現在でも入場料は100円らしい。
どこの世界に、100円で観戦できるプロ・スポーツがあるのだろうか。
ちなみに言うと、プロ野球(NPB)で一番安い席でも2000円ぐらいはかかる。
これで経営が、どうやって成り立つのだろうか。
答えは簡単で、客が賭ける金(ほとんどが客の負け)でボロ儲けしているのである。
競馬でも、G1レースが行われるような競馬場では、一番安い席で200円である。
あの、10万人もの客を集める超人気の競馬でも、入場料はたったの200円。
しかも、15歳以下は無料という、信じられない料金設定だ。
JRAはこうやって、せっせと未来のギャンブラーを育てているのだろうか。
もちろん、場外馬券売場は入場無料である。
そこで、競馬、競艇、競輪、オートレースといった公営ギャンブルは、一番安い席でも1万円の入場料を取るようにする。
そして、競馬でいう場外馬券売場のような場所でも、入場料を最低1000円取るようにすればいい。
そうすれば、一獲千金を狙う連中ではなく、これら公営ギャンブルを本当に愛する人たちが集まるだろう。
だいたい、スポーツとは金を賭けなければ楽しめないものなのだろうか?
日本をギャンブル大国にした最大の元凶は、言うまでもなくパチンコだ(パチスロも含む)。
パチンコほど怖いギャンブルはない。
公営ギャンブルは日にちもレース回数も決まっているのでまだマシだが、パチンコは年中無休で、しかも朝から晩まで1日中打てる。
どんな田舎でも、日本中のあちこちにパチンコ屋はあるし、入場無料で100円から玉を買える。
負けても負けてもパチンコを続けることができ、しかもたまに勝ったりするから、その快感が忘れられなくてギャンブル依存症にハマっていってしまう。
こんな怖いバクチはない。
そこで、パチンコの最大の元凶である「三店方式」という、詐欺そのもののシステムを禁止することだ。
「三店方式」とは、出玉を持ってきた客に対し、特殊景品を渡して、それを景品交換所に持って行けば金に換えてくれる、というものだ。
早い話、パチンコ屋で直接お金を渡すと「賭博」になって日本の法律に触れるので「パチンコは景品を渡すだけで、ギャンブルじゃないよ」と見せかけているだけである。
これを詐欺と言わずして、なんと言おう。
もっとも、そんなことを信じているヤツは一人もいないが。
ドラマなんかで、缶詰などがいっぱい入った紙袋を抱えて「いやー、パチンコで大勝ちしました」なんていうシーンがあるが、筆者はそんな人を見たことは一度もない。
なぜなら、みんな特殊景品を換金しているからだ。
せいぜい、余り玉をタバコに替えるぐらいだろう。
換金できずに景品だけだったら、パチンコなんてあんなに流行るわけがない。
それでも、パチンコで大勝ちしたシーンで、換金している場面が出て来ないのは、見えない力が働いているのだろうか?
そこで、一般大衆を食い物にする「三店方式」という詐欺的システムを一切禁止する。
勝った人には、文字通り景品を与えるだけにするのだ。
あるいは、景品の中に図書券を含めてもいい。
これなら、パチンコをギャンブルだとは誰も言わず、健全娯楽と認めるだろう。
さらに、人口1万人以下の自治体にあるパチンコ屋には、景品の中に地域振興券を含める。
パチンコで勝った人には、その自治体(要するに田舎)で買い物をしてもらうのだ。
これならば、地域再生に繋がるだろう。
換金できなければ、多くのパチンコ屋が潰れる?
そのために、カジノ特区があるではないか。
カジノの中にパチンコやパチスロを納入すれば、外国人の観光客に「これが、ジャパンが生んだギャンブル・マシーン、パチンコか」と世界に紹介できる。
ハッキリ言うと、今のままではパチンコなんて日本にしかない、ガラパゴス的なギャンブルである。
でも、カジノ特区にパチンコを導入すれば、世界中のカジノからパチンコの輸入注文が殺到するかもしれない。
そうなれば、日本のパチンコ産業も潤うだろう。
ここまでやってくれたら、カジノ法案には賛成である。
まあ、一部の人には甘い汁は吸えなくなるかも知れないが。
前回からの続き。
「スコットランドには、勝てると思います」
日本代表の監督に就任したばかりの宿沢は、記者会見でそう言い放った。
1989年5月28日に予定されていたスコットランド戦、その抱負を訊かれた時の言葉である。
これはトンだビッグマウスが監督になったものだ、その場に居合わせた記者連中はみなそう思った。
ジャパンがスコットランドに勝つ?
どの口が言ってるんだ。
誰もが心の中でそう嘲笑したのである。
当時の日本代表は、まさしくどん底状態だった。
1987年に行われた第1回ワールドカップでは3戦全敗。
その年にはアイルランド学生代表に敗れ、さらにニュージーランド代表(オールブラックス)には100点差試合を含む2戦大敗。
翌88年にはオックスフォード大にも敗れ、アジア大会では韓国代表に敗れて「アジアの盟主」の座から滑り落ちた。
ジャパンは全ての面で自信を失っていたのである。
しかし平尾は「いい時に、いい人が監督になってくれた」と歓迎した。
と言っても「いい時」とは要するに「悪い時」でもあったのである。
こんな時に、どんな立派な指導者が来ても、誰も反応しない。
いくら名監督でも、失敗例があるからだ。
だが宿沢には、指導歴がなかった。
指導歴がないということは、要するに失敗歴がないということである。
しかも宿沢は、早稲田大の在学中に日本代表に選ばれながら、卒業後はスパッとラグビーを辞めて銀行マンになった伝説のスクラムハーフ(SH)。
イギリス勤務で銀行業務の傍ら、本場のラグビーを観察し、レポートをラグビー専門誌に書いたり、あるいはテレビ解説も引き受けていた。
その卓越したラグビー理論に、平尾ら日本代表の選手たちは「何かやってくれるのでは?」と、38歳の若き指導者に期待を寄せていたのである。
宿沢は平尾をキャプテンに指名した。
宿沢ジャパン平尾組の誕生である。
他にも大八木や林など、平尾より年上の選手がいたが、敢えて平尾にしたのだ。
宿沢は、神戸製鋼での平尾のキャプテンシーを高く評価していた。
特に平尾の長所は、キャプテンだからと言って気負うことなく自分の色を出して、サラッと主将業をこなしてしまう点である。
キャプテンに指名すると、責任感を重く感じすぎてしまい、せっかくの自分の持ち味を殺してしまう選手が往々にしているが、平尾にはそんな部分は全くなかった。
あくまでも自分の色を出す、それが平尾だったのである。
もちろん、ラグビーにおいてキャプテンシーというものが、他のスポーツよりも重要なことは言うまでもない。
キャプテンシーはもちろん、平尾はプレーヤーとしても超一流である。
しかもイケメンで知名度もあり、スター性も申し分ない。
だがそれでは、あまりにも人間味が無さすぎるではないか?
そんな平尾にも欠点があるに違いないと、宿沢は平尾の粗探しを始めた。
そして、宿沢はハタと思い付いたのである。
アイツはもしかして、音痴なのではないか、と。
そこで宿沢は平尾を銀座へ呑みに連れて行き、無理やり歌わせることにした。
ところが、サザンオールスターズの「いとしのエリー」を歌い始めた平尾に対し、宿沢のみならず他の客も聴き惚れてしまったのである。
残念ながら、宿沢の目論見は外れた。
宿沢にとって、スコットランド戦の勝利は悲願だった。
当時の世界ラグビー・ユニオンは、現在と違ってワールド・ラグビー(WR)のような組織はなく、その前身であるインターナショナル・ラグビー・フットボール・ボード(IRFB)が取り仕切っていた。
そのIRFB加盟国は僅か8ヵ国で(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ)、当然のことながらスコットランドもその一員だったのである。
だが日本は、IRFBの準加盟国に過ぎなかった。
そのため、日本代表がIRFB加盟国の代表チームと試合をしても、一部を除いてテストマッチ(国の代表チーム同士の試合で、出場した選手にはキャップを与えられる)とは認めてもらえなかったのである。
ちなみに言うと、1989年に対戦したこの時の日本×スコットランドも、スコットランド協会はテストマッチ扱いしていない。
その理由として、この年は4年に1度のブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズ結成のため、スコットランド代表からは何人か主力選手を獲られていたので、必ずしもベストメンバーではなかったからだ。
そのため、この時のスコットランドは「スコットランド代表」ではなく「スコットランドXV」という呼び方をしている。
当然、スコットランドXVの選手にはキャップは与えられないが、日本代表の選手にはキャップを与えられるという「準テストマッチ」のような試合だったのだ。
でも、仮にスコットランドがベストメンバーだったとしても、スコットランド協会は、テストマッチとは認めなかっただろう。
ベストメンバーではないとはいえ、スコットランドXVは日本代表より遥かに格上である。
そもそも日本代表は、IRFB加盟国とのテストマッチ(IRFB加盟国はテストマッチ扱いしていないが)で一度も勝ったことがなかったのだ。
イギリスに勤務していた宿沢にとって、テストマッチの重みは日本のラグビー関係者の誰よりもよくわかっていた。
それだけに、自分が監督でいるうちに、IRFB加盟国に勝ちたい、そう願ったのである。
IRFB加盟国に勝って、日本代表との試合を、テストマッチと認めさせてやろう、と。
そして宿沢は、イギリス勤務の経験から、スコットランドの弱点を知り尽くしていた。
スコットランドは、一流国としてはディフェンスが弱い。
宿沢はそう睨んでいた。
スコットランド相手なら、ジャパンのバックス(BK)陣はかなりトライを獲れるだろう、と。
そのカギを握るのは、インサイドの平尾とアウトサイドの朽木英次とのセンター(CTB)・コンビだった。
平尾&朽木のCTB陣はかなりレベルが高く、世界に通用するジャパン自慢のコンビだ。
ボールさえ獲れれば、ボールを外へ振り回し、トライの量産を期待できる。
さらに、スコットランドはスクラムが弱いので、ジャパンはフォワード(FW)第一列にスクラムの強い選手を選んだ。
スクラムで確実にボールを奪い、ジャパンお家芸のBKオープン攻撃に持ち込めば、かなりの得点力がある。
あとはディフェンスだ。
FW第三列にタックルの強い選手を揃え、失点を20点前後に抑える。
これなら充分に勝算はあるだろう。
宿沢の期待が高まっていった。
1989年5月28日、東京の秩父宮ラグビー場で日本×スコットランドが行われた。
イギリス北部から来た大男たちは、日本特有の蒸し暑い気候に悩まされる。
一方のジャパンは、FWがスクラムで押しまくり、BKが縦横無尽に走りまくる。
内容的にもジャパンが上回り、スコットランドをタジタジさせた。
さすがに最後にはスコットランドも意地を見せ、あと一歩のところまで迫るもジャパンが逃げ切り、結局は28-24で日本代表の勝利。
秩父宮ラグビー場は大歓声で爆発しそうになった。
我がジャパンが遂に、IRFB加盟国に初めて勝ったのだ!
スコットランド協会はテストマッチ扱いしなかったにもかかわらず、すぐにこの結果はイギリス本国に打電された。
2015年のワールドカップで、日本代表が南アフリカ代表(スプリングボクス)に勝ち、世界中から称賛されたが、この意味の大きさがわかるだろう。
それでも、日本代表がスコットランド(代表チームではなかったとはいえ)に勝ったということは、驚愕の事実だったのだ。
「平尾を胴上げしてやれよ」
宿沢はそう言ったが、平尾らジャパン戦士たちは意に介さなかった。
「宿沢さんを胴上げや!」
平尾はそう叫び、宿沢は歴史的快挙を成し遂げたフィフティーンに胴上げされた。
だが、宿沢にはもう一つ、仕事が残されていた。
記者会見である。
そこで、宿沢はこう言い放った。
「約束通り、勝ちました」
宿沢ジャパン平尾組がスコットランドに勝ったからと言って、安穏としている時間はなかった。
本当の勝負は、翌1990年に行われるアジア太平洋予選である。
この予選に勝ち抜かなければ、1991年に行われる第2回ワールドカップの参加資格を失い、スコットランド戦の勝利は絵に描いた餅となる。
1987年に行われた第1回ワールドカップでは、日本はアジア代表として予選なしで推薦出場したが、第2回大会は予選を勝ち抜かなければならない。
しかもそのシステムは現在とは違い、アジア予選ではなくアジア太平洋予選なのだ。
現在のアジア予選だと、敵は香港と韓国ぐらいで、しかも日本はその両国よりも実力は圧倒的に上であり、日本にとってワールドカップ出場は自動ドアのようなものだ。
ところが90年当時は、アジア予選ではなくアジア太平洋予選だったのだ。
この4ヵ国から、ワールドカップに出場できるのは2ヵ国。
つまり、このリーグ戦で2勝しなければならない。
韓国は手の内を知っている相手とは言えアジア大会で敗れており、トンガと西サモアは当時の日本にとって、全く未知数の相手だった。
どう考えても、予選突破は厳しいことが予想される。
特に難敵と思われたのが、トンガと西サモアだった。
第1回ワールドカップでは、太平洋のトライアングル3国からトンガとフィジーが推薦出場、西サモアは出場できなかったのである。
しかし、この3国の実力はほぼ互角、その中で第1回ワールドカップではフィジーがなんとベスト8に進出したのだ。
そのため、第2回大会ではフィジーは予選免除で出場が決まっていたのである。
だが、レベル的に「世界8強」のフィジーと、トンガおよび西サモアはほぼ同じだ。
だがジャパンは、この3国との対戦経験はない。
つまり、トンガと西サモアは日本にとって未知なる強豪だったのである。
そこで宿沢は、若手チームをトンガと西サモアに遠征させて手の内を探り、さらにフィジーを招いてテストマッチを行い、トライアングル3国の実力を測った。
そして、第2回ワールドカップ出場を賭けた、アジア太平洋地区予選に挑んだのである。
アジア太平洋地区予選は1990年、秩父宮ラグビー場で行われた。
ジャパンにとって第1戦はトンガ、第2戦が韓国、そして第3戦が西サモアである。
宿沢は、韓国には勝てるとして、第1戦のトンガ戦に全てを賭けよう、と決意した。
西サモアは、第1回大会で出場できなかったことにより、相当に準備万端でアジア太平洋予選に出場してきている。
むしろ、第1回大会に出場したトンガの方に隙はあると読んでいたのだ。
トンガとの第1戦、ジャパンは全てを出し尽くし、トンガ自慢の強力FWに襲い掛かった。
ジャパンの、あまりの気迫に押されて、たまらず反則を繰り返すトンガ。
そのチャンスを、平尾の従弟であり神鋼の後輩でもある細川隆弘が確実にペナルティ・ゴール(PG)を決めて得点を重ねた。
終わってみれば、難敵中の難敵と思われたトンガに28-16の完勝。
ジャパンは最高の形で第一関門をクリアした。
第2戦はアジアのライバル・韓国戦。
この試合に勝てば、第2回ワールドカップの出場が決まる。
しかし、現在とは違い、当時の日本と韓国との差は僅かだった。
負けてもおかしくない相手である。
案の定、韓国は初戦の西サモア戦で敗れて背水の陣、しかも相手が日本とあって、死に物狂いでぶつかって来た。
そのため、前半は6-10とリードを許す苦しい展開となったが、後半は韓国のスタミナ切れを待って一気に逆襲、26-10で勝って第2回ワールドカップ出場を決めた(第3戦の西サモア戦では11-37で完敗)。
スコットランド戦で選手たちに胴上げされた宿沢は、今度は秩父宮ラグビー場のスタンド裏で、ファンたちに胴上げされたのである。
後に、平尾は韓国戦を振り返って、こう語っている。
「試合前、韓国の選手たちのスパイクを見たら、汚れていた。僕らが試合前日になったらワクワクして、あれこれ試合の想像をしながらスパイクを磨きますよ。でも、彼らのスパイクは汚れているんです。要するに、韓国の選手たちは勝つことを強要されていて、スパイクを磨く余裕がないほど、全くラグビーを楽しんでいない。そんな連中には負けませんよ」
1991年、宿沢ジャパン平尾組はイギリスへ飛び立った。
ワールドカップでの相手は、IRFB加盟国のスコットランドとアイルランド、そしてアフリカ代表のジンバブエだ(当時の南アフリカはアパルトヘイトのためボイコットされ、出場せず)。
第1戦の相手はスコットランド。
秩父宮でジャパンが倒した相手である。
場所は、スコットランドの「首都」エディンバラのマレー・フィールドだ。
6万人の大観衆はみんなスコットランドの応援であり、ジャパンは完全アウェイである。
そして、スコットランドの大男たちは、2年前にトーキョーで受けた屈辱を忘れていなかった。
当時は来日していなかった選手たちがズラリと顔を揃え、ベストメンバーでジャパンを叩き潰すつもりでいる。
それでもジャパンは前半、9-17と好勝負を演じた。
平尾は「前半だけでは、ジャパンの中で3本の指に入る名勝負」と述懐する。
しかし後半、スタミナが切れたジャパンにスコットランドが一斉に襲い掛かった。
終わってみれば9-47、ジャパンの完敗である。
スコットランドはこの上ない形で、トーキョーの仇をエディンバラで果たした。
もちろん、この試合はスコットランド代表にとってもテストマッチ扱いである。
第2戦は、アイルランドの首都であるダブリンでのランズダウンロード、アイルランド戦である。
もちろん、こちらも敵地であり、ジャパンは苦戦が予想された。
ところが、アイルランドのパワーに対し、ジャパンはスピードで対抗、思わぬ好勝負となった。
だが、ジャパンの抵抗に手を焼いたアイルランドはなりふり構わぬパワー勝負に出て、ようやくジャパンを振り切る。
終わってみれば、ジャパンの健闘が光ったが、結局は16-32のダブルスコアで敗退。
IRFB加盟国の、本気になった時の強さを思い知らされる結果となった。
そして、この時点でジャパンの予選リーグ敗退が決まったのである。
第3戦はジンバブエとの対戦、北アイルランドのベルファストにあるレイベンヒル・パークでの試合となった。
決勝トーナメント進出には全く関係ない消化試合、しかも北アイルランドとは縁もゆかりもない試合で、平日の昼間にもかかわらず9千人のファンが集まった。
平尾は「この試合のために、イギリス・アイルランドまで来たのだ」という思いを決意したのである。
まだジャパンは、IRFB国とのテストマッチに勝てるレベルではない。
でも、ワールドカップでの1勝は、限りなく重いものになる、と。
そのためには、ジンバブエには勝たなければならなかった。
ジンバブエには、ワールドカップ前に偵察遠征して、手の内はわかっている。
それでも前半は、16-4とリードするものの苦戦。
しかし後半は、ジャパンのBK陣が走りまくって、ジンバブエを圧倒した。
終わってみれば、52-8の大勝。
ベルファストのファンも、ジャパンの素早いオープン攻撃に大満足だった。
そしてこれが、日本代表のワールドカップでの初勝利だったのである。
だがそれが、日本代表にとって、そして平尾にとっても、苦難の始まりだった。
このジンバブエ戦勝利後、ワールドカップ2勝目を挙げるのは、24年後のスプリングボクス戦だったのである。
大会終了後、宿沢監督は退任を明らかにした。
そして平尾も、日本代表からは引退する、と表明したのである。
だが、そう簡単に日本代表は、平尾を手放してはくれなかった。
(つづく)