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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

2016年夏、高校野球で最も弱かった高校は?

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第98回全国高等学校野球選手権大会作新学院(栃木)が優勝した。

つまり今年の夏、高校野球で最も強いチームは作新学院、ということになる。

 

では、一番弱い高校はどこだったのだろう?

それを調べるには、地方大会の初戦で敗れたチーム同士で、負け進んで行く逆トーナメントをするしかないが、もちろんそんな大会を開催する主催者がいるわけがない。

 

そこで、地方大会初戦で敗れた高校に勝った高校が次の試合で敗れて、その高校に勝った高校がまた次の試合で敗れて……、という形で「一番弱い高校」を選定するしかない。

もっとも、だからと言ってそんな方法で一番弱い高校を指定できるわけではないが、そこはご容赦いただきたい。

なお、昨年夏の最も弱かった高校はこちら

(昨年の記事を読めばわかるが、今回の記事は校名以外はほとんど去年のコピペだ。なお、一昨年の記事も同様)

 

地方大会から調べていくと大変だが、甲子園の決勝戦から逆算していけば、容易に探り当てることができる。

 

甲子園大会

勝戦  ○作新学院(栃木)7-1北海(南北海道)●

準決勝  ○北海(南北海道)4-3秀岳館(熊本)●

準々決勝 ○秀岳館(熊本)4-1常総学院(茨城)●

三回戦  ○常総学院(茨城)7-4履正社(大阪)●

二回戦  ○履正社(大阪)5-1横浜(神奈川)●

一回戦  ○横浜(神奈川)7-1東北(宮城)●

 

つまり、夏の甲子園で最も弱かった高校は東北ということになる。

なんと、大魔神・佐々木やダルビッシュといったメジャー・リーガーを生み出した東北が甲子園最弱校というわけだ。

だが、前述したように、本当に最も弱いというわけではないので、関係者の皆様はお気を悪くなさらないように。

そして、東西の両横綱と言われた横浜と履正社に勝ったチームは、次の試合でことごとく敗れているのも意外だ。

 

さて、東北は宮城代表の高校なので、日本一弱い高校は宮城県にある。

では、今夏の宮城大会を見てみよう。

 

宮城大会

勝戦  ○東北5-0利府●

準決勝  ○利府3-1東陵●

準々決勝 ○東陵6-1登米

四回戦  ○登米7-5塩釜●

三回戦  ○塩釜4-2富谷●

二回戦  ○富谷8-4宮城工●

一回戦  ○宮城工8-1仙台東●(8回コールド)

 

というわけで、今夏の日本一弱い高校は仙台東と決定した。

くどいようだが、本当に日本一弱いというわけではないので、そこはお許しいただきたい。

まあ、この学校に勝った高校は、次の試合では必ず負けるのだから、弱いというよりは呪いをかけられた、と言った方が適切な気がするが。

 

では、仙台東とはどういう高校なのか?

調べてみると、1987年に開校した比較的新しい男女共学の県立校で、正式には宮城県仙台東高等学校という。

頭に「宮城県」と付くのは、宮城県立高校の特徴だ。

 

野球に力を入れているわけではなく、歴史が浅い高校だけに他の卒業生にも特に有名人はいない。

ウィキペディアで調べてみると、卒業生の著名人には熊谷大(くまがい・ゆたか)という、大学名のような前参議院議員がいるだけだ。

 

う~む、特に書くべきことがないので困った。

今までの「高校野球最弱校」には、意外な発見があって面白かったのに。

でも仕方がない。

これが現実なのだから。

 

ちなみに、仙台東の今年度の戦績を見てみると、昨年秋季大会の宮城県中部地区予選では、聖和学園に1-24で5回コールド負けするなど0勝2敗で敗退。

今年の春季大会では、宮城県中部地区予選で3勝3敗と健闘するものの、敗者復活戦でことごとく敗れて惜しくも県大会進出はならなかった。

 

そして今秋の新チーム、秋季大会の宮城県中部地区予選ではいきなり初戦で強豪の仙台育英と対戦、2-9で7回コールド負け。

しかし敗者復活一回戦では、宮城広瀬に延長11回の末4-3でサヨナラ勝ち、来春のセンバツ出場に望みを繋げた。

仙台東の健闘を祈りたい。

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「あしたのジョー」で見える、時代の変化

ボクシング漫画の金字塔と言われる「あしたのジョー(原作:高森朝雄、作画:ちばてつや)」。

1968年(昭和43年)の1月1日号から1973年(昭和48年)の5月13日号まで約5年間、週刊少年マガジンで連載された。

これはどんな時代だったかというと、日本が戦後の混乱期から脱して、高度経済成長に邁進していた時期。

 

しかし、日本が先進国の仲間入りしたからと言って、決して浮かれてばかりいた時代でもなかった。

連載初期は安保闘争の真っ只中であり、連載後期には連合赤軍によるあさま山荘事件も起こった。

日本の世の中は、まだまだ混沌としていたのである。

 

そんな中、「あしたのジョー」のアニメーションによるテレビ放映が始まったのは1970年(昭和45年)4月1日のこと。

この年は大阪万博が開催され、日本の未来は約束されたように思われた。

が、その反面、アニメ放送の前日には赤軍派によるよど号ハイジャック事件が起こる。

この時、赤軍派のリーダーである田宮高磨は、こう言い放った。

「最後に確認しよう。我々は『あしたのジョー』である」

と。

つまり、田宮ら赤軍派のメンバー(ほとんどが大学生か、それぐらいの若い連中)は、「あしたのジョー」を読んでいたということになる。

要するに「あしたのジョー」は、それまでの「漫画は子供が読むものだ」という固定観念から解き放たれ、若者たちのバイブルとなっていたわけだ。

 

1970年にフジテレビで始まった「あしたのジョー」は、1年半後の1971年(昭和46年)9月29日で終わりを告げた。

漫画の連載が終わったのは1973年だから、途中で打ち切りという形である。

しかし、人気低迷による打ち切りというわけではない。

主人公の矢吹丈にとって、最大のライバルである力石徹との試合がアニメ第1作でのクライマックスだったのだ。

リング上でのこととはいえ、力石を死なせてしまったことによる後遺症に悩まされるジョー

しかし、南米の陽気な無冠の帝王、カーロス・リベラと戦うことによってジョーが吹っ切れたところでアニメは終わっている。

 

あしたのジョー」がテレビアニメとして復活するのは、第1作が終了してから9年後の1980年(昭和55年)10月13日。

今度はフジテレビのライバル局、日本テレビでの放送だった。

内容は最初こそ第1作とやや被るが、力石戦以降から最後のホセ・メンドーサ戦までである。

 

問題は、この9年間で日本がまるっきり変わってしまったことだ。

いや、連載が終わった1973年からの7年間と言ってもいい。

1970年代から80年代にかけて、日本は全く変わってしまったのだ。

 

80年代、日本にはもはや赤軍派などのイデオロギー闘争など全くなく、経済大国として我が世を謳歌していた。

まもなく迎えるバブル時代に備え、社会全体が浮かれていたのである。

その反面、やるせない空気も充満し、校内暴力や家庭内暴力、過労死などの社会問題も表面化しつつあった。

この70年代から80年代の約10年間で、日本は劇的に変化したのである。

 

その象徴と言えるのが「あしたのジョー」のテーマ曲だ。

同じ作品を扱っているのに、これほどまでに違うのかと感心してしまう。

「歌は世につれ、世は歌につれ」

などと言われるが、歌が世につれることはあっても、世が歌につれることは決してない。

歌で世の中が変わることなんて、ありはしないのだ。

しかし、歌は世の中を反映する鏡だということは確かである。

 

あしたのジョー」のアニメによるエンディング、これこそは70年台と80年代をハッキリ分ける歌だと言えよう。

この二つの歌こそが、時代をよく表しているのである。

 

80年代「あしたのジョー」第2作のエンディング「果てしなき闇の彼方に」

www.youtube.com

 

 

70年代「あしたのジョー」第1作のエンディング「ジョーの子守唄」

www.youtube.com

メダルにまつわるエトセトラ

熱闘が続くリオデジャネイロ・オリンピック。

日本では、かつてないほどの金メダル・ラッシュに大きく沸き上がっている。

 

では、この金メダルの値段とはいくらぐらいなのだろうか?

金メダルを獲った場合の報酬ではなく、ズバリ金メダルそのものの価格のことだ。

 

金メダルは、文字通り金で出来ているのかと言えば、さにあらず。

実は金メダルは、銀で出来ているのだ。

つまり、銀メダルの上に金メッキを塗った物、これが金メダルである。

 

値段にすると、年によって違うが約6万円

一般サラリーマンでも充分に買える値段である。

これは、経済的に貧しい国のための救済措置だ。

金メダルが本当に純金製だと、極貧国が開催地となれば、たちまち国の経済が破綻してしまうだろう。

もっとも、1912年のストックホルム・オリンピックまでは、金メダルは本当に純金製だったそうだ。

 

銀メダルは看板に偽りなく銀製で、値段は金メダルのほぼ半分の約3万2千円

金メッキが無い分だけ半分の価格になるが、金メッキと銀の塊がほぼ同じ値段というわけだ。

銅メダルは当然、銅で出来ていて、価格はグーンと下がり、なんとたったの約300円

「『金と同じ』と書いて『銅』になるね。……、ホワイ!?ジャパニーズ・ピーポー!金と銅では全然違うだろ!!」

厚切りジェイソンが嘆くのも無理はない。

 

ちなみに新日本プロレスの最高峰、IWGPの初代チャンピオン・ベルトは純金製で時価1億円(らしい)。

1円置くんとちゃいまっせ!(トミーズ雅のギャグ)

 

金メダルと言えば有名なのが、今年亡くなったモハメド・アリのエピソード。

1960年のローマ・オリンピックで金メダルを獲得したアリ(当時はカシアス・クレイ)はアメリカに帰国後、白人専用のレストランに入ろうとしたが断られ、

「金メダルを獲っても結局、黒人は差別される。こんな金メダルなど何の価値もない」

と金メダルを川に投げ捨ててしまった。

というのは創作で、実は単に紛失しただけらしい。

 

金メダル紛失と言えば、日本人では小林孝至が有名。

1988年のソウル・オリンピックで、レスリングのフリー・スタイル48kg級で金メダルを獲得した小林は帰国後、上野駅公衆電話にバッグごと金メダルを置き忘れてしまった。

結局、江戸川区の歩道で発見され事なきを得たが、なぜ上野駅からそんな遠く離れた場所へ移動したのかは不明。

この一件により、小林は「世界で一番、金メダルを粗末に扱った男」として知られるようになった。

 

なお、2000年のシドニー・オリンピックの金メダリスト、柔道の井上康生も、オリンピックの解団式や帰国会見、さらには首相官邸訪問の時まで金メダルを忘れるという、まるで健忘症のようなエピソードを残している。

今回のリオ五輪で男子柔道の監督となり、金メダル2個を含む計7個のメダル獲得という手腕を発揮した井上だが、メダルの管理は大丈夫だろうか?