新聞は三面記事から読む、という人は多い。
三面記事を読むと世の中の動きがわかるし、面白い記事が多いからだろう。
ところで、社会面のことをなぜ三面記事と呼ぶのか?
三面記事はどう見ても「三面」じゃないし、手元にある新聞を見ると三面記事は33面になっていた。
33面を縮めて三面記事と呼ぶわけではないことはわかるだろう。
なぜなら、日によっては三面記事が33面とは限らないからだ。
この謎を解くには、新聞創成期まで遡る必要がある。
日本で初めて新聞が発行されたのは明治時代だが、この頃の新聞は1枚の紙で成り立っていた。
その紙を二つ折りにすると、全部で4ページの冊子になる。
そして、一面が広告面、二面が政治・経済面、三面が社会面、四面が小説などの文化面という構成になっていた。
つまり、最終面の一つ前、三面が社会面となっていたのである。
社会面のことを三面記事と呼ぶ理由がここにあるのだ。
この構成は現在も続いていて、最終面の一つ前は社会面となっており、未だに三面記事と呼ばれる所以である。
先日、国立国会図書館関西館に行って、戦後まもない頃の毎日新聞縮刷版を調べていた。
1952年(昭和27年)の10~11月頃の記事を閲覧していたのだが、この年の10月はまだ四面仕様だった。
ただし、構成は明治時代とはやや異なっていて、一面の広告面は既になく、現在と同じように見出しとなるニュースを大きく取り上げており、二面はやはり政治・経済面。
三面は社会面、四面の文化面(あるいは地域版)も変わらないが、スポーツ欄が三面になったり四面になったりしていた。
現在では一般紙でもスポーツ欄に3ページや4ページぐらい取るようになっているが、当時の新聞は全体で4ページしかなかったのだから、当然のことながらスポーツに関する扱いは小さい。
たとえば、毎日新聞が主催しているセンバツ高校野球ですら、決勝戦でも申し訳程度の記事だった。
これは朝日新聞でも同じことで、夏の甲子園決勝でも、ほとんどベタ記事に近い。
なお、プロ野球に関しては、毎日新聞では「パ・セ」の順番で報じていた。
これは毎日新聞社が毎日オリオンズ(現:千葉ロッテ・マリーンズ)の親会社だったからだろう。
それでも、当時はプロ野球よりも東京六大学野球の記事の方が遥かに大きかった。
早慶戦などは写真入りで1ページの半分ぐらいを使っているが、プロ野球では日本シリーズで日本一が決まった試合でも1ページの6分の1程度の記事で写真はなし。
また、当時はテレビがまだなかったので、ラジオ欄が三面あるいは四面の隅っこに載っていた。
昔の新聞を読むと、当時の世相がよくわかる。
ちなみに、僕が調べていた1952年の10月と11月というのは、新聞にとって転換期だったようで、11月から毎日新聞の朝刊では隔日で八面仕様となっている。
以前にもたまに八面仕様があったようだが、それまでの紙1枚から1日おきに紙2枚となったわけだ。
即ち、三面記事が「三面」ではなくなった瞬間である。
朝日新聞ではこの時から朝刊が八面となったようだ。
月曜日のみ六面だが、要するに一枚の紙の間に、半分の紙を挟んだのだろう。
現在の新聞の30面以上から見ると随分貧弱な印象だが、それでも日曜日や祝日でも夕刊はあった(夕刊は四面)。
休日の夕刊が廃止されたのは、1965年(昭和40年)のことである。
昭和20年代後半の新聞は、文字こそ小さいものの、思ったよりも読みやすかった。
漢字や送り仮名が現在とほとんど変わらなかったからである。
おそらく、この頃に現在まで繋がる当用漢字などの基本的な日本語が決まったのだろう。
それでも、広告面などは当時の社会情勢を反映していて、ストレプトマイシンの広告などが出されている。
ストレプトマイシン、と言っても今の人にはピンと来ないだろうが、要するに結核の治療薬だ。
こんな発見があるのも面白い。
プロ野球では、秋でもオープン戦が盛んに行われていて、毎日オリオンズと読売ジャイアンツという新聞社同士の定期戦もあったようだ。
また、IBC(現在の国際野球連盟=IBAFの前身か?あるいは無関係かも知れない)が主催するノンプロ野球世界選手権なる大会が、ブルックリン・ドジャース(現:ロサンゼルス・ドジャース)の本拠地であるエベッツ・フィールドで開催される、と発表している。
アメリカではアマ野球はマイナー・スポーツだが、それでもメジャー・リーグの本拠地球場を使用するのだ。
参加国は、日本、アメリカ、キューバ、プエルトリコ、ベネズエラ、メキシコ、カナダ、フィリピン、ハワイ、ドミニカ共和国の10ヵ国である。
なぜハワイがアメリカとは別の国として扱われていたのかは不明。
また、当時のフィリピンは野球がかなり強かったようだ。
まだまだ面白い発見があったのだが、それについては後日に譲るとしよう。