天勝野球団
天勝野球団(1921年-1923年)~消滅
日本初のプロ野球チームは、1934年(昭和9年)に発足した大日本東京野球倶楽部、即ち現在の読売ジャイアンツではなく、1920年(大正9年)に結成された日本運動協会(芝浦協会)であるということは前回述べた。
読売を中心としたプロ野球リーグ、つまり現在のNPBが始まるのが1936年(昭和11年)だから、それよりも16年も前の話だ。
その日本運動協会が設立された翌年の1921年(大正10年)に、日本で2番目のプロ球団である天勝野球団が発足する。
ただし、この時点ではまだ天勝野球団はプロ宣言をしていない。
天勝野球団を創設したのは天勝一座の支配人である野呂辰之助だ。
野呂辰之助とは、女流奇術師である松旭斎天勝(しょうきょくさい・てんかつ)の夫のことである。
つまり、天勝野球団の「天勝」とは「てんかつ」と読むわけだ。
奇術師としては一流だが世間知らずの松旭斎天勝に代わり、天勝一座の運営は野呂辰之助が取り仕切っていた。
そんな野呂辰之助が目を付けたのが、当時大衆の間で大人気となっていた野球である。
天勝一座で野球チームを作れば、野球人気に乗じて一座の興行にも利潤が出ると考えた。
そこで野呂辰之助は、慶應義塾大学の名選手だった小野三千麿をコーチに招き、有力大学野球部で活躍したOBをかき集める。
現在、都市対抗野球に「小野賞」という賞があるが、これは小野三千麿にちなんだものだ。
日本運動協会が、人気沸騰ゆえにアマチュアから逸脱した学生野球の方向性を正すために結成され、選手も有名大学選手ではなく人格に優れた人材を公募したのとは、天勝野球団は趣旨からして正反対だ。
また、日本運動協会は芝浦球場という本拠地と合宿所を造って選手たちをみっちり訓練および教育したのに対し、天勝野球団は母体が芸能一座ということで各地を巡業するスタイルということで、ここでも対照的である。
ただし、天勝野球団の鶴芳生という人物は、当時発行されていた「野球界」という雑誌の中で、
「(天勝野球団は)広告本位のチームではなく、商売と野球は別物。野球で負けたからといって見物に来ないという、そんな了見の狭い人には来ていただかなくて結構です」
と書いていた。
ちなみに、この鶴芳生なる人物とは、野呂辰之助のペンネームとされている。
つまり野呂辰之助は、野球は一座の広告塔ではない、というスタンスを取っていた。
ただし松旭斎天勝は、野球を単なる宣伝道具と考えていたようであるが……。
天勝野球団は一座の巡業と共に日本全国を廻り、さらに当時日本領だった朝鮮や台湾、そして日本軍が支配していた満州(現在の中国東北部)を転戦した。
1922年(大正11年)には、日本運動協会が早稲田大学と対戦し、また秋にはメジャー・リーグ選抜チームが来日して大学チームなどと対戦、小野三千麿を擁する慶應連合チームがアメリカのチームに対して日本チームとして初勝利を挙げるなど(全戦の結果は日本側の1勝16敗)、日本中が野球ブームで沸きに沸いた。
日米野球後、小野三千麿は大阪毎日新聞が保有する実業団チームの大毎野球団に入団することになり、天勝野球団にはその後釜として鈴木関太郎を招聘する。
これを機に野呂辰之助はチームを大幅に強化、大学出の有力選手を積極的にスカウトした。
その中には、後にパシフィック・リーグの会長となる中澤不二雄も含まれていたのである。
1923年(大正12年)、主将となった鈴木関太郎は雑誌「野球界」の中で、
「我々は野球以外に仕事はありません。純粋のプロフェッショナルです」
と、高らかにプロフェッショナル宣言をした。
ここに、日本運動協会に次ぐ日本で2番目のプロ野球チームが誕生したのである。
当時はまだプロ野球という言葉はなく「職業野球」と呼ばれ、野球で銭を稼ぐのは邪道と思われていた時代にプロ宣言をするのは勇気が要ったことだろう。
それに、プロ宣言したからといって、急に強くなるわけではもちろんなかった。
ここで少し、小野三千麿が入団した大毎野球団についても説明しておこう。
大毎野球団とは前述したとおり、大阪毎日新聞が所有していた野球チームだが、戦後に誕生するプロ野球チームの大毎オリオンズ(現:千葉ロッテ・マリーンズ)とは無関係である。
選手たちは大阪毎日新聞から給料を貰いながら野球をやっていたので「プロではないか?」という目で見られていた。
しかし大毎側は、
「選手たちは普段は社員として働いている。社員としての給料以外の、例えば野球手当などの報酬もない。即ちプロではない」
と「アマチュア宣言(変な言葉だが)」をしている。
しかし実際には、選手たちは野球の技量を買われて大毎野球団に入団(あえて入社とは言わない)し、一応の社業には就いたもののそれはあくまでも建前上で、本当の仕事は野球だったという。
つまり、現在の社会人野球における企業チームのハシリであり、この時にプロとアマのボーダーラインができたのかも知れない。
もしこの時、大毎野球団がプロ宣言をしていれば、現在の社会人野球は企業チームの基準が大きく違っていただろう。
そう考えれば、大毎野球団の「アマ宣言」が日本野球の形態に大きな影響を及ぼしたということになる。
実際に、天勝野球団は大毎野球団の巡業スタイルを参考にしている。
つまり、プロがアマの興行を真似ていたのだ。
さらに、大学出のスター選手をかき集めた大毎野球団は、プロの天勝野球団や日本運動協会よりも明らかに強かったのである。
その証拠に、大毎野球団は日本運動協会に対し3戦3勝を挙げていた。
何しろ、母体は大阪毎日新聞という大企業なのだから、単なる奇術集団がバックの天勝野球団よりも資金は遥かに潤沢である。
ある意味、日本初のプロ球団は大毎野球団と言えるかも知れない。
この年、プロ宣言した天勝野球団と、アマに留まった大毎野球団は大阪の京阪寝屋川球場で対戦した。
初戦は大毎野球団がエースの小野三千麿を温存したこともあって、天勝野球団が3-2で勝利。
2戦目は敗れたものの、大毎野球団に対して1勝1敗の成績は、天勝野球団にとって大いに自信を付けたシリーズだった。
プロがアマとイーブンで自信を付けるというのも情けない話だが、これまでの説明でその事情はおわかりいただけるだろう。
その後、満州と朝鮮に遠征した天勝野球団は現地チームと連戦を行い、実に21勝1敗という快進撃を続けた。
そして、やはり外地遠征をしていた日本運動協会と、日本初となるプロ球団同士の対戦をするのである。
1923年(大正12年)6月21日、朝鮮の京城(現:ソウル)で行われた天勝野球団と日本運動協会の一戦は、先制した天勝野球団を日本運動協会が追いすがるという1点を争う熱戦となり、6-5で天勝野球団が辛くも逃げ切った。
つまり、天勝野球団が日本初のプロ同士の対戦による勝利チームとなったのである。
プロ野球リーグが始まった1936年(昭和11年)、初試合となった名古屋金鯱軍(現在は消滅)×東京巨人軍(結果は10-3で名古屋金鯱軍の勝利)が行われる13年前のことだった。
しかし、6月24日に行われた第2戦では日本運動協会が3-1で雪辱を果たしている。
その後、日本に戻った両チームは8月30日、日本運動協会の本拠地である東京の芝浦球場で戦い、日本運動協会が5-1で勝って対戦成績を2勝1敗とした。
まさしく日本プロ野球の夜明けと言えるが、結局はこの試合が両チーム最後の対戦となる。
この2日後の9月1日、関東大震災が東京を襲った。
その時、東京の浅草で公演を行っていた天勝一座は、その災害をもろに被ったのである。
天勝一座は全ての財産を失い、もはや天勝野球団を続けるだけの財力は残っていなかった。
ここに、日本で2番目のプロ野球チームは自然消滅してしまったのである。
ただ、翌年の1月頃まで天勝野球団は細々と活動を続けたらしいが、とても興行と呼べるものではなかった。
しかし、天勝一座は復活したようである。
一方の雄、日本運動協会は東京では活動できず一時解散、その後は関西に移って阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)の社長だった小林一三により宝塚運動協会として再発足した。
だが、対戦するプロチームもなく1929年(昭和4年)に解散し、有史以前(現在のNPB発足前)のプロ野球は完全に終わりを告げる。
もし関東大震災がなければ、この両球団はどんなチームに成長したのだろうか?
大正時代に存在した2つのプロ野球チームは、あらゆる面で対照的だった。
野球だけでなく勉学にも勤しみ、アマチュア以上にアマチュアらしく活動した日本運動協会に対し、一座の興行の一環として巡業を行っていた天勝野球団。
無名選手を社会人として通用するように教育した日本運動協会と、高給で有力選手を雇った天勝野球団。
どちらがプロ球団らしかったかと言えば、明らかに天勝野球団だろう。
1936年(昭和11年)から始まったプロ野球リーグでは、選手はアマチュアに収まらない無頼派が集い、フランチャイズ制が整わずに本拠地球場を持たない球団が多かったから、天勝野球団的な興行だったと言えよう。
経営母体の広告塔として存在しているというのも、天勝野球団は現在のプロ野球とそっくりだ。
その意味では、日本プロ野球(NPB)の源流は天勝野球団なのかも知れない。