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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

甲子園物語〜その5

1927年(昭和2年)、夏の甲子園では新たな試みが取り組まれた。
それが中等野球のラジオ中継である。
当時は公共放送のNHK(日本放送協会)しかなかったが、野球中継はおろかスポーツ中継すら行われたことがなかった。
実験的な意味もあったのか、中等野球をラジオ放送しよう、とNHKは考えたわけである。
しかし、NHKの要請に対し阪神電鉄は大反対だった。
ラジオが試合を生中継すれば、ファンは甲子園に来なくなるだろう、と危惧されたのである。
テレビ地上波によるプロ野球中継が激減し、野球人気低下が叫ばれる現在では考えられない理屈だが、当時のラジオ媒体はそう考えられていたのだ。
だが、NHKと朝日新聞は「アメリカではラジオ中継が野球人気に拍車をかけた」と阪神電鉄を説得、ようやく阪神電鉄も折れた。


「JOBK、こちらは甲子園臨時放送所であります」
各家庭のラジオに第一声が流れた。
「JOBK」とは、NHK大阪中央放送局のことである。
ちなみに東京中央放送局は「JOAK」だ。


実況を担当したのは、入局2年目の魚谷忠。
魚谷自身がかつては中等野球の選手として全国大会(当時は豊中運動場)に出場したが、日本初の野球実況なのでマニュアルなどあるわけもなく、とにかく野球という競技をわかりやすく伝えるように務めたという。
しかも驚くべきことに、担当アナウンサーは魚谷ただ一人。
魚谷一人で大会中の全試合を請け負った。
これを1931年(昭和6年)までの4年間、春夏合わせて8大会連続で続けたというのだから恐れ入る。
まさしく日本におけるスポーツ実況のパイオニアである。
ちなみに大阪出身の魚谷は、
「第1球、投げはりました。打ちはりました。三塁手が捕って一塁に投げはりました」
と、大阪弁丸出しの実況をした、と伝えられているが、この件に関して魚谷は、
「標準語の訓練を受けた我々アナウンサーがそんな実況をするわけがありません。ビリヤードでいつも私に負けていた悪友が流したデマですよ」
と一笑に付したという。


ラジオ中継が始まったと言っても、まだ全国網で流れていたわけではなく、あくまで関西地方のみでの放送だった。
しかしこのラジオ中継は大評判を呼び、関西での野球熱はさらに高まった。
ラジオ中継をすればファンが球場に来なくなる、という阪神電鉄の不安は、全くの杞憂に終わったのである。
JOBKによる中等野球のラジオ放送の大成功は、JOAKにも飛び火した。
東京で中等野球に劣らぬ大人気を博していた東京六大学野球を、ラジオ中継しようというわけである。
もちろんこのラジオ中継も大評判となり、東京と大阪での野球熱はさらに高まった。
さらに翌年の1928年(昭和3年)からはNHKの全国放送網が完成し、中等野球や東京六大学野球を全国の野球ファンがラジオ中継で聴けるようになったのである。


中等野球のラジオ全国ネット中継は、思わぬ伝説を産んだ。
1933年(昭和8年)、夏の甲子園の準決勝で、夏の甲子園3連覇を目指す中京商業(現・中京大中京)と、春のセンバツ準優勝の明石中学(現・明石)が激突した。
史上初の夏3連覇を狙う中京商は春のセンバツでは優勝できず、この年の春も明石中に0−1で敗れていた。
中京商の前に立ちはだかるのは、春のセンバツで完封された楠本保。
明石中の絶対的エースで、その剛球は同年代の沢村栄治(当時の京都商業<現・京都学園>。のちの巨人。現在も日本プロ野球に残る「沢村賞」の元となる)以上と言われた。
前人未到の夏3連覇を狙う中京商にとって、明石中およびそのエースである楠本は最大の障壁である。
しかし中京商にも、2年連続夏の甲子園優勝投手である吉田正男がいた。
吉田の投手としての総合力は、楠本や沢村には決して劣らず、投手戦が予想された。
予想通り、中京商×明石中の一戦は、稀に見る投手戦となった。
ただし、それは全く予想外の投手戦と言えた。


世紀の準決勝、甲子園のマウンドに立っていたのは楠本ではなかった。
明石中は控え左腕である中田武雄を先発させたのである。
実はこの時、楠本は心臓脚気が出て登板できない状態だったのだ。
「打倒、楠本!」と春の雪辱に燃える中京商は完全に面喰ってしまった。
剛腕右腕の楠本対策を練ってきた中京商打線は、技巧派左腕の中田に対し、完全に沈黙。
9回までノーヒットで抑えられる有様だった。
一方、3連覇に燃える中京商のエース・吉田も、明石中打線を寄せ付けず、0−0のまま延長戦に突入した。


この頃、名古屋にはラジオ中継に聴き入っている中京商のファンがいた。
興奮したこのファンは、9回が終わった時点で名古屋駅から汽車に飛び乗り、東海道本線で甲子園に向かったという。
もちろん、新幹線などない時代。
だが、ラジオの全国中継が、異常とも言えるこのファンの行動を促した。
ところが、数時間かけてこのファンが甲子園に駆け付けた時には、まだ試合が続いていた。


中京商・吉田と明石中・中田の投手戦は延々と続き、試合が決着したのは延長25回。
25回裏に中京商が1点を取ってサヨナラ勝ちした。
試合時間4時間55分、延長25回は未だに高校野球(当時は中等野球)最長のレコードである。
特に延長25回は、現在では延長15回で打ち切り再試合という規定があるので、規定が変わらない限り今後破られることはない。
難敵中の難敵、明石中を延長25回で葬った中京商は、決勝戦で平安中学(現・龍谷大平安)を2−1で破り、空前絶後の夏の甲子園3連覇を成し遂げた。
この記録は未だに破られていない。
ちなみに明石中の楠本と中田は慶応義塾大学に進学したが、沢村と同じく太平洋戦争で戦死した。
一方の中京商の吉田は、その後は明治大学に進み、卒業後は新聞記者として高校野球を見つめ続けて健筆をふるった。


中京商×明石中の延長25回の大熱戦で、つとに有名なのが甲子園のスコアボードである。
当時の甲子園のスコアボードは右中間に設置されていて、左から選手名が綴られていて、右側に得点ボードがあった。
ところがこの得点ボードが延長16回までしかなかったため、17回以降は臨時大工がスコアボードを継ぎ足していったのである。
この措置により、甲子園スコアボードの右側には、なんとも奇妙な形のスコアボードと、「いかにも手書きです」と言わんばかりのような歪な形の「0」の文字が続いたのである。


翌1934年(昭和9年)、前年の延長25回の反省からか、甲子園に二代目のスコアボードが誕生した。
これはセンターバックスクリーンの後方にあり、全長が外野スタンドの高さと同じである、いわゆる「軍艦型」と呼ばれる当時としては巨大な物だった。
現在のスコアボードはさらに巨大であるものの、形としてはほぼ同じと言っていいだろう。
この軍艦型スコアボードは、甲子園を象徴する物となった。
左側に選手名、右側にスコア、中央上部に大時計というスタイルは現在でも続いている。


当時はもちろん電光掲示板などなかったが、それでも甲子園は最先端の技術を駆使している。
このスコアボードは手書きだったとはいえ、遠隔操作が可能だったのだ。
つまり、選手名や得点板を回転させるのはスコアボードの中の人ではなく、バックネット裏に陣取る人間だったのである。
戦前にこれほどの近代的なスコアボードを備えているとは、やはり時代の最先端を行く球場だったのだ。


ところが、戦後になって最先端のスコアボードは、手動に戻るという退化を見せている。
その理由も、甲子園の近代化に関してやむを得ない措置だった。
甲子園の近代化のために、スコアボードは退化する?
実は1956年、甲子園にナイター設備が完成した。
この時、スコアボードの各部署は雨で遠隔操作の機械が濡れないようにガラスで覆われていたが、ナイター照明の光がガラスによって反射するようになり、プレーに支障をきたすようになったのである。
これにより、画期的な甲子園のスコアボードは遠隔操作ができなくなり、旧式の手動に戻ったのである。
ナイター設備と3代目スコアボードについては、のちに述べるとしよう。


スコアボードが一新された1934年(昭和9年)、ベーブ・ルース擁するアメリカのメジャーリーグ選抜チームが来日した。
メジャーチームが来日するのは1928年(昭和3年)と1931年(昭和6年)に次いで3度目だが、この年は文部省(当時)の野球統制令により、学生とプロ(要するに、アメリカのプロチーム)との対戦を禁じていた。
過去2回のメジャーチームが来日した時は、東京六大学を中心とする学生チームが対戦したのである。
そこでメジャー選抜チームを招いた読売新聞社は、社会人を中心とする全日本軍を結成した。
全日本軍の中には、京都商を中退した沢村や、ロシア生まれで旭川中学(現・旭川東)を中退したビクトル・スタルヒンが含まれていた。
この時の全日本軍が大日本東京野球倶楽部、のちの東京巨人軍、即ち現在の読売ジャイアンツとなる。


この日米野球を企画したのは、当時は弱小新聞社でしかなかった東京の読売新聞社だった。
当時は大阪の朝日新聞や毎日新聞が、中等野球によって大いなる利益を挙げている。
それならば我が読売新聞社だって、職業野球によって大きな利益を得よう、と当時の読売新聞社主である正力松太郎は考えた。
そこで正力は乾坤一擲、メジャーリーグのスーパースターであるベーブ・ルースを来日されるという、途方もない計画を立てる。
弱小の読売新聞社にとって、大金を使ってのベーブ・ルース招聘は社運を賭けたノルか、ソルかの大バクチだった。


果たして、ルースを中心とするメジャー選抜チーム招聘は大成功だった。
この成功を機に、正力は全日本軍を母体とした職業野球(プロ野球)チームを結成し、さらには読売新聞社が中心となって日本にプロ野球リーグ戦を作ろう、と決心したのである。


プロ野球リーグ戦を行うには、ライバルチームが必要だ。
そこで正力が白羽の矢を立てたのが、甲子園球場を持つ阪神電鉄である。
甲子園は春夏の中等野球で絶大な人気を誇っているし、ベーブ・ルースが来日した日米野球でも甲子園には超満員の大観衆が詰めかけた。
日本の二大都市である東京と大阪のライバル対決になれば申し分ない。
翌1935年(昭和10年)、阪神電鉄読売新聞社の申し出を了承し、「大阪野球倶楽部」即ち大阪タイガース、現在の阪神タイガースの結成を決定した。
そして翌1936年(昭和11年)からは、7球団によって日本初のプロ野球リーグが開催されている。


しかし、当時の日本は確実に戦争への道を辿っていた。
メジャーリーガーたちが来日した1931年(昭和6年)、柳条湖事件、いわゆる満州事変が勃発した。
中京商×明石中の歴史に残る一戦が繰り広げられていた1933年(昭和8年)、満州事変におけるリットン調査団の報告に不満を示し、日本は国際連盟を脱退してドイツのヒトラー政権と手を結んだ。
日本初のプロ野球リーグが始まった翌年の1937年(昭和12年)には盧溝橋事件により、遂に日中戦争が始まった。


最初は中国には簡単に勝てると思っていた日本軍だったが、敵対していた中国の国民党と共産党が手を組んで、日本に激しく抵抗したために、日中戦争は長期化した。
思わぬ苦戦に日本は疲弊し、国民生活も窮乏した。


そんな中、中国を支援するアメリカと、日本との国際関係は悪化するばかりだったが、僅か数年前のメジャーリーグ選抜の来日は一体なんだったのか。
実を言うと、メジャーリーグ選抜の選手の中に、米軍のスパイがいたという。
その選手は、東京のビルに昇って、ビルの上から写真を撮ってのちの東京空襲に役立てたそうだ。
それぐらい、当時の日米関係は緊張していたのだろう。


1941年(昭和16年)、日中戦争は泥沼化し、日本国内は野球どころではなくなった。
対米政策も悪化の一途を辿って、日米開戦は避けられない状況になったのである。
この年、地方大会は行われたにも関わらず夏の甲子園大会は中止が決定された。
しかし、甲子園大会中止の告知は、主催の朝日新聞紙上でもなされなかった。
理由は、防諜のために軍部が抑えたためである。


半年後の12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が勃発した。
遂に日本は超大国のアメリカにケンカを売ることによって、のちにズタズタにされてしまうのである。


日本人に熱烈な歓迎を受けたベーブ・ルースはこう語っている。
「あれほど親切だった日本人が、真珠湾攻撃などという卑劣な手段を行ったのは信じられない。でも、我々が来日した時の歓迎ぶりは、間違いなく真実だっただろう」


<つづく>