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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

不沈艦

先日、花園オフのメンバーの方から、スポーツ総合誌「ナンバー」を数冊戴いた。
僕が野球好きだということで、かなり昔の「ナンバー」から野球特集号を選んで、わざわざ宅急便で送っていただいた。
どのくらい昔かといえば、一番古いもので今から25年前、なんと1982年の「ナンバー」である。
1982年とはどんな年だったのだろうか。


鈴木善幸首相が退陣して中曽根康弘内閣が発足し、ソ連のブレジネフ書記長が死去、日航機「逆噴射」墜落事故、大宮〜盛岡間開通で東北新幹線が本格的に開業、コンパクトディスク(CD)が発売開始、テレビ大阪開局、映画の「E.T.」が世界的大ヒット、「笑っていいとも!」放送開始、歌謡界では最近復活したあみんの「待つわ」が大ヒット。
スポーツ界では、FIFAワールドカップがスペインで開催、北の湖は衰え千代の富士が最強の横綱になりつつあり、ラグビーでは新日鉄釜石が無敵を誇る。
プロ野球では中日ドラゴンズが最終戦でセ・リーグ優勝を決めたが、日本シリーズでは球団買収以来パ・リーグ初制覇を成し遂げた西武ライオンズに敗れ、西武の広岡式管理野球がもてはやされた。
高校野球では、春はPL学園が戦後初のセンバツ二連覇、夏は「やまびこ打線」の猛打で池田高校が初優勝を遂げた。


こうして当時のことを書き連ねていると、時代の移り変わりを実感し、ちょっとイヤな気分になってしまう。
この25年前の「ナンバー」を見ていても、現在とはかなり違うフォーマットだと、違和感を憶える。
当時にはまだ「ナンバー」以外に総合スポーツ誌は無かったと思われるが、垢抜けた紙面づくりである現在の「ナンバー」とは全く違い、随分くだけた印象である。
もっとも当時としては、これが最も「垢抜けた」スポーツ誌だったのだろうが。


そんな当時の「ナンバー」で、いろんなスポーツ記事を集めた「ナンバー・ランド」というコーナーがあった。
そのコーナーの中に、明らかに連載と思われる、桜井康雄氏(クレジットではそう書かれている)のコラムが載っていた。
題して「プロレス必殺ペンがため」。
今の「ナンバー」では考えられないような、モッチャリしたタイトルである。
桜井氏は東京スポーツのプロレス記者で、当時は「ワールドプロレスリング新日本プロレス中継)」のテレビ解説をしていた。
どうでもいいことだが、競技経験者(あるいは指導者)ではない人がテレビ解説をするのは、プロレスぐらいのものだろう。
それはともかく、プロレス特集号ではない「ナンバー」で、定期的にプロレスの記事が載っていたことには少々驚いた。


さて、25年前の「ナンバー」に載っていた桜井氏のコラムのテーマは「日本では絶大な人気を誇るスタン・ハンセンがなぜ、地元のアメリカでは人気がないのか」というものだった。
これは25年後の現在でも興味深いテーマであり、当時の僕は「ハンセンはアメリカで人気がない」ということすら知らず、当然アメリカでも人気レスラーだと信じ込んでいた。


25年前、ハンセンは間違いなく日本では外人最高の人気レスラーだった。
この「ナンバー」の前年である'81年、新日本プロレスアントニオ猪木と死闘を演じ、田園コロシアムでは最強の大巨人であるアンドレ・ザ・ジャイアントと400kg大肉弾戦を制して、ハンセン人気は最高潮に達した。
ところがこの人気が高じてその年の暮れには、ライバル団体のジャイアント馬場率いる全日本プロレスに電撃移籍、日本プロレス界に激震が走った。
このように当時のハンセンは日本では人気絶頂だったが、アメリカでの人気はサッパリだったと、桜井氏のコラムには書かれている。


その理由を「日本ではハンセンが強かったために人気が出たが、アメリカでは強すぎたために嫌われた」と桜井氏は結論付けている。
日本ではアントニオ猪木が提唱した「プロレスは格闘技最強、スポーツの中でも最も激しいキング・オブ・スポーツ」という幻想があり、日本のヒーローである猪木や世界最強と言われるアンドレにも果敢に立ち向かい、勝ってしまうハンセンをその体現者だと受け止めた。
ハンセンの出世試合と言われるニューヨークでの「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノ戦、この試合でハンセンは必殺の首折り技「ウエスタン・ラリアット」でサンマルチノの首を骨折させた。
このことが日本のプロレスファンの間では、「ニューヨークの帝王」の首を折った凄いヤツ、と喧伝された。
これが日本における「ハンセン首折り伝説」に火を点け、ハンセン人気が沸騰した。


しかし、アメリカでは違う。
アメリカでのプロレスはあくまでも「エンターテインメント」として位置づけられており、「最強の格闘技」でもなければ「キング・オブ・スポーツ」でもない。
このコラムに登場するアメリカのプロレス雑誌編集者によると、ハンセンの日本での人気は信じられないと言う。
日本人はプロレスをなんてシリアスに見ているんだ、と。
アメリカ人にとってのプロレスはあくまでもショーだし、純粋な強さを見せる必要はないし、相手レスラーを怪我させるなんてナンセンスだ、と考えている。
今から考えると当たり前のプロレス観が、プロレス専門誌ではなく「ナンバー」で書かれていたのが、ちょっと驚きだ。


ところで、サンマルチノがハンセン戦で首を骨折(実際には頚椎捻挫)したのはウエスタン・ラリアットによるものではなく、ハンセンの不器用なボディスラムによってサンマルチノが変な落ち方をしたために起きた事故である。
つまり、当時のハンセンは強すぎてサンマルチノを大怪我させたのではなく、プロレスがヘタだったために、サンマルチノに重傷を負わせてしまったわけだ。
もっとも、この「真相」は、桜井氏のコラムには書かれていなかった。


新日本から全日本に移籍してからも、ハンセンは日本を主戦場にしてきた。
全米3大タイトルであるAWA世界チャンピオンに登りつめ、アメリカでも名声を得たが、やはりアメリカンプロレスは合わないとハンセンは言い、その後も全日本でレスラー人生を全うし、引退後は馬場が設立したPWFの会長職を務めた。
ハンセンにとって「日本」という国がよほど水に合ったのだろう。
新日本から全日本に移籍する頃、ハンセンはアメリカ人女性と離婚し、その後は日本人女性と再婚した。
その間に生まれた息子が二人、2006年にアメリカ高校選抜野球選手に選ばれて来日し、日本各地の高校チームと対戦した。
アメリカでは恵まれず、日本で富と名声を得たハンセンにとって、日本は生涯切っても切れない国なのだろう。


ちなみに、無名時代のハンセンに日本行きを勧めたのは、「ハンセン首折り事件」の最大の被害者、ブルーノ・サンマルチノである。